一日警察署長
一日署長の仕事は、パトカーの助手席で手を振ることだと聞いていた。
ところが朝九時、岩村署長は私に制帽をかぶせ、窓口の椅子を引いた。
「では、受付をお願いします」
「え、式典は」
「十分で終わりました」
こうして元・地方アイドル(解散済み)の私は、普通に仕事をすることになった。
最初の客は八十代のおばあさんだった。
「自転車を、盗まれまして」
私は震える手で被害届を出し、車種と色を聞いた。
書き終える前に、若い署員が駆け込んでくる。
「ありました! 駐輪場です!」
「あらまあ、よかった」
おばあさんは満足そうに座り直し、出されたお茶を飲み干して、なぜか一時間居座った。
次は小学生の男の子だった。
「おとしものです」
差し出されたボールには、油性ペンで『ゆうた』とある。拾得者の欄にも『ゆうた』と書いて、男の子は胸を張った。
「……ゆうた君が拾ったの、ゆうた君のボール?」
署員が咳払いをした。
男の子は「ちがう」と言った。
午後には行列ができた。
道に迷ったという人は、署の目の前で迷っていた。
財布をなくしたという人の財布は、決まって鞄の一番上にあった。
それでも私は全部を書類にした。
丁寧に、正式に、一件も雑にしなかった。
握手会で十年、一人数十秒の話を最後まで聞いてきた女だ。聞くことだけは得意なのだ。
そして誰もが帰り際、私にではなく建物に向かって、そっと一礼した。
16時50分、人が途絶えた。署員たちが、妙に静かに私を見ている。
「今日は忙しい署ですね。いつもこうなんですか」
署長は笑った。
「いつもは日に三人です。去年の冬は、ゼロの日もありました」
「ゼロ?」
「この署は、明日の朝、閉まります」
ペンを持つ手が止まった。
「町の皆さんが言うんです。最後に来たい。でも用がない。交番なんて、困った時にしか行けない場所ですから」
署長は窓口の向こうを見た。
「だから、みんな困ってくれました。四十七人」
自転車も、ボールも、迷子も。全部。
「どうして私に」
「本物の署長だと、皆さん遠慮して嘘が下手になる。でもあなたは、全員の困りごとを本気で聞いてくれた。だから、本物の困りごとになったんです」
私は机の上の書類の山を見た。嘘から生まれた、四十七枚の正式な書類。
「これ、全部受理します」
「え?」
「この町の記録に残ります。一件も、嘘にはしません」
署長はしばらく黙っていた。
それから引き出しから、分厚い日誌を出した。
「三十八年、毎晩ここに『異常なし』と書いてきました。最後の夜に書くのが、怖かったんです」
ペンを渡される。
「最後の日誌は、署長が書くものです」
私は少し考えて、書いた。
『本日、相談四十七件。全件、解決』
そして、三十八年続いたいつもの一行を足した。
『異常なし』
署長は読んで、ふっと笑った。
「一日署長なのに、一番署長だ」
窓の外では夕日の中、昼間のおばあさんが自転車を押したまま、まだ建物に頭を下げていた。
私は窓越しに、制帽のつばへ手をあてた。
四十七人分の、答礼だった。




