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これはあなたに贈る物語  作者: ノアキ光


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本音と建前


毎週、月、水、金の正午、ハツの家の玄関には、弁当を抱えた青年が立つ。

高齢者向け配食サービスの配達員、遼(りょう)。三年前から、ずっと彼の担当だった。

「ハツさん、お弁当です」

「おおきに。……ほな、ぶぶ漬けでもどうどす」

京都では、これは「そろそろお帰りやす」の意味だ。


八十二になる今でも、ハツは京女の作法を崩さない。

寂しいとは言えない。来てほしいとも言えない。

だから、帰れという言葉を借りて、それでもあがってくれないかと、毎回ひそかに祈っている。


遼は毎回、笑って答える。

「いただきます」

そして靴を脱ぎ、ちゃぶ台の前に座って、ずるずると茶漬けをすするのだ。

あの子は京の言葉を知らん、他所の子や。

そやから、うちの建前を真に受けて、あがってくれはる。

それがありがたくて、少し申し訳なくて、ハツは三年間、同じ台詞を繰り返してきた。


夫を亡くし、子らは東京に出て、電話は盆と正月だけ。

週の三日間の一時間が、人との関わりのすべてだった。


その日、遼はいつもより長く玄関に立っていた。

「ハツさん。今日で最後なんです。来月から、別の営業所に異動になって」

ハツの手が、一瞬とまった。

「……そうどすか。そら、おめでたいことで」

声は平らだった。建前は、こんな時のためにある。


「ほな、ぶぶ漬けでも、どうどす」

どうか今日もあがってほしい。

いや、最後なのだから、あがらんでええ。あほな子のまま、気持ちよう行ってほしい。

ふたつの思いが喉でぶつかって、語尾が震えた。


遼は、靴を脱いだ。

ちゃぶ台の前に座り、茶碗を持つ。

そこで、ぽつりと言った。

「ハツさん。僕、京都の生まれなんです」

ハツは顔を上げた。

「祖母が、同じことを言う人でした。ぶぶ漬けの意味は、最初の日から知ってました」

湯気の向こうで、遼は笑った。

「でも、ハツさんの家のちゃぶ台には、いつも茶碗が二つ、出てましたから」


ハツは、息をのんだ。

そうだった。

ひとり暮らしのくせに、無意識に、二つ。

「帰れって言葉に、ほんまは来てっていう声が混じってるのは、京都の人間やったら分かります。僕は三年間、本音のほうにお邪魔してたんです」

「……いけず」

ハツの目から、ぽたりと涙が落ちて、茶漬けに混ざった。

「ほんま、いけずな子や」

「来月からは、休みの日に客として来ます。その時もまた言うてください、ぶぶ漬け。次も『いただきます』って、ちゃんと答えますから」


ハツは割烹着の袖で目を押さえ、しばらく黙ってから、八十二年で初めて、建前を使わずに言った。

「……また、来てや」

遼は茶碗を置いて、深くうなずいた。

二つの茶碗から、同じ湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていた。

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