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第九話:アイリスの妄想

 夜の闇の中、遠く離れた木の上と塔の窓辺で、二人の視線が交差した。


(……え? こっちを見ている?)


 アイリスはドキリと胸を鳴らしたが、すぐにふっと息をついて肩の力を抜いた。

 私の『千里眼』ならともかく、いくら彼が身体能力の優れた規格外な少年だとしても、こんな暗闇の中で、しかもこれほど離れた距離から私の姿が見えるはずがない。ただ偶然、塔の方角を見上げているだけだろう。


「ふふっ。いつも真面目にお手伝いや特訓をしているあの子でも、夜中に外に出歩いたりするのね。何故木の上にいるのかは分からないけど……」

 昼間は見せない年相応のやんちゃな一面に、アイリスはすっかり頬を緩ませた。


 千里眼越しに見つめ合う(ような形になっている)二人。静寂に包まれた夜の空気も手伝って、アイリスの頭の中で、年頃の少女らしいロマンチックな妄想が急加速していく。


(うふふ、なんだかとてもロマンチックだわ。月夜の下で見つめ合う二人、やがて彼が壁を登ってきて、その大きくて優しい手が私の頬に触れて……そのまま顔が近づいて……)

 カアァァッ、とアイリスの顔が茹でダコのように赤く染まる。


「だ、だめよアイリス! そんな、出会ったばかりの男女の唇が触れ合うなんて、いくらなんでも早すぎるわ!!」

 キャー、キャーと一人で勝手に妄想して身悶えし、両手で顔を覆ってベッドの上をバタバタと転げ回るアイリス。


 するとその時、バンッ!と勢いよく部屋の扉が開いた。


「アイリス様! ただいま悲鳴が聞こえましたが、何か異常でもありましたか!?」

 慌てた様子で、見回りの護衛騎士が部屋に飛び込んできた。


 アイリスはビクッと肩を震わせると、一瞬で姿勢を正し、スゥ……と深呼吸をした。そして振り返りざまに、完璧な『慈愛の聖女』の微笑みを顔に貼り付ける。


「お騒がせして申し訳ありません、騎士様。窓の外を見ておりましたら、小さなウサギが恐ろしい狼に襲われそうになっていたものですから……つい、可哀想で慌てて声を上げてしまいましたの」

 しおらしく目を伏せ、胸に手を当てて見せる。


 もちろん嘘である。狼などいない。

(純真そうな少年に対して、あんなはしたない妄想をして興奮している私こそが、正真正銘の狼よね……ごめんなさい、騎士様)


 心の中で猛烈な自己嫌悪と反省を繰り返すアイリスだったが、護衛の騎士はすっかり感動した様子で目頭を押さえていた。


「おお……さすがは聖女様。ご自身がこのような不自由な生活を強いられておられるというのに、か弱き動物にまで慈愛の心をお持ちとは……! どうぞ、夜風でお体を冷やさぬようお気をつけください」


「ええ。ありがとう、騎士様」

 恭しく一礼して去っていく護衛を見送り、扉が閉まった瞬間にアイリスは「ふぅ……」と大きなため息をついた。


「はしたないところを見られるかと思って、心臓が止まりそうだったわ……」

 気を取り直して再び窓辺へ向かい、千里眼で木の上にいる少年の方を見る。


 すると少年は、目を丸くして不思議そうにコテン、と首を傾けていた。先ほどのアイリスの慌てぶりや、突然部屋に入ってきた護衛とのやり取りを見て「どうしたんだろう?」と疑問に思っているかのような仕草だった。


「ふふっ。まるで、こちらの様子が全部見えているみたいね」

 偶然だとは思いつつも、アイリスは窓越しにクスクスと微笑みかけた。


 ――すると。

 アイリスの笑顔に反応するかのように、遠く離れた木の上にいる少年も、パァッと花が咲いたような、最高に優しくて温かい笑顔を返してくれたのだ。


「……っ!? ま、まさかっ! 本当に見えているわけないわよね!?」

 アイリスはガタッと立ち上がり、信じられないものを見る目で少年を見つめた。


 しかし、冷静になって考えれば考えるほど、そんなことはあり得ない。魔法を使っている気配もなければ、魔導具を覗き込んでいるわけでもないのだから。


「……はぁ。きっと、私に笑いかけてくれたように見えただけね」

 少しだけ期待してしまった自分を誤魔化すように、アイリスは小さくため息を漏らした。

 今日はもう遅い。これ以上起きていると、また護衛に心配をかけてしまう。


「もう寝ましょう」

 アイリスは窓辺から離れる前にもう一度だけ、大好きな少年の姿を目に焼き付けた。


「さようなら、憧れのあなた。……また明日も、会えるといいな」

 言葉と共に、自然と窓の外に向かって小さく手を振った。

 そして、冷たい石のベッドへと潜り込む。


 いつもなら、夜の静寂と孤独に苛まれ、母親の無表情を思い出して泣いてしまう時間。

 しかし今夜のアイリスの心は、不思議なほどに温かかった。まるで暗く冷たい鳥籠の塔から解放されたかのように心がふわりと軽く、満たされている。


 目を閉じれば、暗闇の中で自分に向けてくれた、あの太陽のような優しい笑顔が浮かんでくる。

 アイリスはその夜、幽閉されてから初めて、朝まで一度も目を覚ますことなく、心地よい眠りにつくことができたのだった。

◆◆◆◇◇◇◆◆◆


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