第三十八話:別れ
重厚な扉が閉ざされ、広大な玉座の間には、没落する王と新たな女王となる少女の二人きりとなった。
張り詰めた、ひどく重苦しい沈黙が落ちる。
ヴィルヘルムは玉座の前に立ち尽くしたまま、何かを堪えるように目を閉じ、やがて、重い口を開いた。
「……今まで、すまなかったな。アイリス」
深く頭を下げた王。
顔を上げた彼の表情は、忘れかけていた優しい父親の顔をしていた。
「お父様……」
アイリスは、胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じた。
かれこれ数年。私という存在は、お父様にとって『いないも同然』の存在だった。それどころか、自身の玉座を脅かす忌まわしいバケモノとして、ただ憎むべき対象でしかなかったのだ。
(私が欲しかったのは、謝罪の言葉なんかじゃない……)
ただ、もっと私のことを見ていてほしかった。
昔のように、優しく名前を呼んでほしかった。あの頃のように、私に向けて微笑んでほしかった。
たったそれだけのことだったのに。私にとって長すぎる歳月を経て、ようやくまともに交わした言葉が『謝罪』だなんて……なんて悲しいの。
「アイリス。新しい国の代表となる、お前の門出だ。……祝いに、乾杯しようじゃないか」
そう言うと、ヴィルヘルムは玉座の脇に設えられた豪奢な飾り棚から、あらかじめ用意されていた二つのグラスを手に取った。
そして、ゆっくりと玉座の階段を下り、アイリスの目の前まで歩み寄ると、一つのグラスを直接彼女へと差し出した。琥珀色のワインが、美しく揺れている。
「……はい、お父様」
アイリスは悲しみを押し殺し、静かにそのグラスを受け取った。
そして、グラスに口をつけようとした、その瞬間。
『千里眼』を持つ彼女の瞳が、グラスの中で揺れるどす黒い死の気配をはっきりと捉えた。
「――っ」
アイリスの手がピタリと止まる。
彼女は声すら出せなかった。ただ無言のまま、小さな肩を小刻みに震わせ、見開かれた瞳からポロポロと静かに涙をこぼし始めた。
歩み寄ってくれたことも、あの優しい笑顔も、謝罪の言葉も。すべては、実の娘を排除するための浅ましい演技だった。
――バンッ!!
その時、閉ざされていたはずの玉座の間の扉が、乱暴に開け放たれた。
「アイリス様!」
血相を変えて飛び込んできたのは、扉の外に控えていたはずのソフィアだった。
分厚い扉で視界を遮られていようと、彼女の『探知』をごまかすことなど不可能だ。アイリスの魔力が絶望によって大きく揺らいだのを、ソフィアは決して見逃さなかった。
ソフィアは一直線にアイリスの傍へと駆け寄った。
「どうされましたか、アイリス様?」
アイリスは、こぼれ落ちる涙を拭おうともせず、悲痛な瞳でソフィアを見つめた。
そして、掠れた声で絞り出すように言った。
「……毒、です」
その言葉が落ちた瞬間、玉座の間の空気が完全に凍りついた。
目の前にいたヴィルヘルムの顔からスッと血の気が引き、彼の手から自らのグラスが滑り落ちてガシャァン! と砕け散った。
「な、何を馬鹿なことを言っている! 余は、娘を祝おうとしただけだ! 毒など盛るわけがなかろう!」
王は後ずさりながら声を荒げて否定したが、その両手はガタガタと無様に震えていた。
ソフィアはアイリスを庇うように王の前に立ち塞がり、アイリスの震える手からそっとグラスを受け取った。
そして、冷ややかな瞳で王を見据え、そのグラスをヴィルヘルムの目の前へと突き出した。
「……なるほど。陛下の仰る通り、ただのお祝いの酒であり、毒など入っていないと」
「そ、そうだ! 当然である!」
「では、その言葉が真実であるならば。陛下自ら、このグラスの中身を飲めますわね?」
ソフィアの静かで、威圧感を伴う声。
突きつけられたグラスを前に、ヴィルヘルムは息を呑んだ。
沈黙が永遠のように感じた。
やがて――王の顔から優しい父親の仮面が完全に剥がれ落ち、次第に眉間に深い皺が寄り、両目は狂気と憎悪で真っ赤に血走っていった。
「……ッ、この、忌々しい……!!」
ヴィルヘルムは自暴自棄になったかのようにソフィアの手からグラスをひったくると、一気にその中身を煽ろうとした。
「待って!! やめて、お父様ッ!!」
アイリスが叫んで手を伸ばしたが、間に合わなかった。
自ら用意した猛毒を飲み干したヴィルヘルムは、口の端から血の泡を吹きながら、ギロリとアイリスを睨みつけた。
「……化け、物が……っ」
それが、父親が娘に残した最後の言葉だった。
ヴィルヘルムは大量の血を吐き出し、背後の玉座の階段へと仰向けに倒れ込み、二度と動かなくなった。
「ああ……ああああっ……!!」
アイリスは膝から崩れ落ち、顔を覆って泣き叫んだ。
たとえ酷い父親だったとしても、実の父親が目の前で死ぬ光景は、少女の心を無惨に引き裂いた。
「アイリス様……っ」
ソフィアが床に膝をつき、慟哭するアイリスの小さな体を、壊れ物を扱うようにきつく、優しく抱きしめた。
遅れて部屋に入ってきたセオドアもまた、冷たくなった王の亡骸を一瞥し、深く痛ましげなため息をつく。
冷たい玉座の間に、少女の悲しい泣き声だけが響き渡る。
こうして、愚かな王の時代は完全に終わりを告げた。
それは、グランヴェルザ王国の歴史に新たな光をもたらす、気高くも悲しい『新しい女王』が誕生した瞬間であった。




