第三十五話:裏切り
翌日。
僕はママに連れられて、アイリスに会うために塔を訪れていた。
昨日、ゼント王国軍の苛烈な魔法攻撃を直接浴びたはずの塔は、外壁の白亜すら一切汚れておらず、まったくの無傷だった。ただ、塔の周囲の庭だけが爆風によって無惨に荒れ果てており、それがかえってパパの結界の異常さを際立たせている。
窓越しではなく、初めて同じ部屋で向かい合った僕たちは、最初は少しお互いを意識してしまってぎこちなかった。けれど、窓際に飾られていた手作りの木彫りの小鳥の話題を切っ掛けに、少しずつ打ち解けて、次第に自然な会話が弾み始めた。
やがて、話題は昨日の戦いのことへと移っていった。
「……僕、昨日は完全に我を忘れてたんだ。自分が何人も人を殺してしまったと思って、ひどく後悔した。パパの作った魔剣の『不殺』の効果のおかげで精神的には救われたけど……」
僕は膝の上で、自分の両手を見つめた。
ギュッと握りしめても、まだ指先が小刻みに震えている。
「僕には、まだまだ戦いの気構えが足りなかったんだって、深く反省したよ。……今でも、初めて人を斬った時の感触を思い出すと、手が震えるんだ。どうしたらいいのかな……?」
弱音を吐く僕の顔を、アイリスはじっと見つめた。
そして、にっこりと優しく微笑むと、彼女の小さな両手で、僕の震える右手をそっと包み込んでくれた。
「それで、良いのですよ」
「え……?」
「本当に戦争になれば、人は人を殺さなければなりません。負傷して動けない敵兵は、治療する余裕などないからと、苦しまないようにトドメを刺す。敵の鎧や武器は剥ぎ取って、自軍の兵たちに褒美として分け与える……。むやみやたらに捕虜を捕らえても、彼らを養い、捕らえておく食料も余裕も、この辺境の町にはないのですから」
アイリスは、僕の目を真っ直ぐに見つめて、戦場の残酷な現実を淡々と説明した。
それは、小さな少女の口から出るにはあまりにも生々しい知識だった。
「……そんな非情な行為が、戦争なのです。初めてそれを経験して、手が震えて当たり前なのですよ」
アイリスは僕の手を握ったまま、塔の窓の外へと視線を向けた。
パパの結界で守られた塔の外には、僕が昨日抉ってしまった無惨な地面や、パパの魔法によって焼け焦げた草原が広がっている。
「戦争によって傷ついた人々や大地は……表面上は元に戻ったように見えても、心の奥底の傷跡までは、決して元には戻らないのです。だから……」
アイリスは再び僕を見て、慈愛に満ちた瞳で微笑んだ。
「ルーク様は、今のその手の震えを……人の痛みを悲しむことができるその優しい気持ちを、どうかいつまでも大事にしてくださいね」
「……っ」
その瞬間、僕はアイリスに『気高い何か』を感じ取っていた。
体が自然と動き、僕は彼女の御前に片膝をついて、まるで騎士のように深く頭を下げていた。
「――はい。必ず」
「えっ!? あ、あの、ルーク様!? わ、私ったら偉そうなこと言ってごめんなさい! た、立ってくださいっ!」
僕が突然ひざまずいたことで、先ほどまでの雰囲気はどこへやら、アイリスは顔を真っ赤にしてあわあわと慌てふためき始めた。
そんな微笑ましい二人のやり取りを、部屋の隅で静かに見守っていたソフィアは、ひどく悲しそうな顔で目を伏せた。
(アイリス様は……知っているのね。いいえ、あの『千里眼』で、これまでに何度も『見て』こられたのだわ。戦争の本当の悲惨さを……)
七歳の少女が背負うには、あまりにも重すぎる世界の真実。ソフィアは胸が締め付けられるような思いで、優しく微笑み合う二人の子供たちを見つめていた。
そのころ、忘却の城の正門前。
武装解除され、ボロボロになった数千の敵兵たちが、地面に這いつくばるようにして震えていた。
彼らを見下ろすセオドアの目は、絶対零度のごとく冷たい。
「……お前たちが今生きて息をしているのは、私の心優しい息子が、お前たちの命を奪わなかったからだ。その温情に免じて、今回は生かして帰してやろう」
セオドアの声が、静かに、しかし確かな殺意を伴って戦場跡に響き渡る。
「だが、二度目はない。次にこの国――いや、この『町』に手を出せば、今度こそ命はないと思え。……失せろ」
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
「あ、ありがたき幸せぇぇっ!!」
生き残った一般兵たちは、蜘蛛の子を散らすように、故郷のゼント王国へ向けて泣き叫びながら逃げ帰っていった。
しかし、その場には数名の『指揮官クラス』の貴族や将校だけが、魔法の縄で厳重に縛り上げられて残されていた。
「さて」
セオドアは、絶望に顔を染める敵の司令官に向かって、極上の笑顔を向けた。
「あなたたちには、帰っていただくわけにはいきません。この町の復興費用と、我が国を攻めたことに対する『莫大な賠償金』……その交渉のための、有意義なカードとして使わせてもらいますよ」
司令官はガタガタと震えながら、自分たちが手を出してはいけない本物の怪物を目覚めさせてしまったことを、今更になって激しく後悔するのだった。
そして……
西のガルム帝国を迎撃するため、王都から大軍を率いて進軍していた王国軍の本隊は、国境付近で『恐るべき光景』を目の当たりにして足を進めることができなくなっていた。
「な、なんだこれは……っ! どういうことだ!!」
王都軍の将軍が、馬上で顔を青ざめて叫ぶ。
彼らの眼前に広がっていたのは、予想していたガルム帝国の軍勢だけではなかった。
国王ヴィルヘルムが、西と東の同時侵攻という危機を脱するために軍事支援を要請したはずの『同盟国』の軍勢。彼らがなんと、敵であるガルム帝国の軍旗と並んで陣形を組み、こちらへ向けて武器を構えていたのである。
「支援要請が……裏目に出たというのか……!」
グランヴェルザ王国は、セオドアとソフィアという最大の抑止力を自ら手放し、すでに内部から腐敗していた。
そこへ届いた、ヴィルヘルムからの悲鳴のような支援要請。それは同盟国たちに「今の王国には自国を防衛する力すら残っていない」という致命的な弱みを露呈する結果となってしまったのだ。
虎視眈々と下剋上を狙っていた小国の同盟軍が、沈みゆく泥舟(王国)を裏切り、敵方に寝返るのに十分すぎる切っ掛けであった。
頼みの綱であった同盟国に寝首を掻かれ、完全に孤立無援となったグランヴェルザ王国。
愚かな王の治める国は今、取り返しのつかない滅亡の淵へと立たされていた。




