第三十四話:甘さ
蜘蛛の子を散らすように背走していく敵兵の背中を、僕はただ呆然と立ち尽くして眺めていた。
初めて、人を斬ってしまった。
一人ではない。あの極限状態の中で、数え切れないほどの人間をこの手で斬り伏せたのだ。
手元の巨大な魔剣を見下ろす。
不思議と、刃に血は一滴も付いていなかった。僕自身の体や服にも、返り血などはまったく浴びていない。
けれど……両手には、確かに残っているのだ。
剣を通して伝わってきた、人の肉を断ち、骨を砕いた時の生々しい感触が。
(……敵兵の中には、戦いたくもないのに無理矢理軍に徴兵されていた人たちがいたかもしれない)
(国で、帰りを待つ家族がいたかもしれないのに)
アドレナリンが切れ、急速に冷えていく思考の中で、そんな考えばかりが頭を巡る。
ポツリ、と。僕の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「――頑張ったわね、ルーク」
背後から、温かい腕が僕の小さな体をそっと包み込んだ。
ママだった。勝手に飛び出したことを怒られるかと思ったけれど、ママはただ優しく、僕を抱きしめてくれた。
「ママ……っ。僕、いっぱい人を斬っちゃった……。まだ、手に斬った感触が残っていて……なんだか、段々怖くなってきて……っ」
震える声で、僕は正直な気持ちを吐き出した。
「あなたはまだ、そんなに重いものを背負わなくていいのよ」
「でも、斬ったのは僕だ! 何人死んだか分からない! 僕は……アイリスを殺した敵兵が憎くて、ただ憎しみと怒りのままに、人を斬ってしまったんだ……っ」
嗚咽を漏らす僕の頭を、ママは優しく撫でた。
そして、ふふっと小さく微笑んで、僕の耳元で囁いた。
「ルーク。あなたが使ったパパの魔剣はね、魔法を無効化するだけじゃないの。『不殺』の効果も付与されているのよ」
「ふ、さつ……?」
「ええ。あなたがその魔剣でどれだけ人を力任せに斬っても、命を奪うことには至らないように出来ているわ。……もちろん、そのまま放置すれば怪我で死んでしまうかもしれないけれど」
えっ? と、僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「そ、それにね。アイリス様の住む塔には、パパの強力な絶対防御の結界が張られているのよ? あんなちゃちな魔法で、塔が壊れるわけないじゃない」
「えっ、あ……ほんとに?」
ママが笑顔でコクリと頷いた。
「…………」
――アイリスは無事。そして、僕が斬った人たちも、まだ死んではいない。
その事実を理解した瞬間、僕の心を満たしていたどす黒い絶望と恐怖が、嘘のようにスーッと晴れていった。
「分かった! 僕、急いで怪我人を探してくるよ!」
すっかり元気を取り戻した僕は、涙を乱暴に袖で拭うと、さっきまで自分が暴れ回っていた戦場の跡地へと慌てて駆け出していった。
戦場を走り回る小さな息子の後ろ姿を眺めながら、ソフィアはそれまでの優しい母の顔から、スッと感情の読めない真顔へと表情を変えた。
「あらあら……あの子も、まだまだ甘いわね」
命を奪わなかったことに安堵し、敵兵の救助に向かうルーク。
その優しさは彼の美徳であるが、この過酷な世界を生きていくには、あまりにも危うい。ソフィアの瞳には、愛する息子への深い愛情と共に、わずかな不安の影が落ちていた。
「ソフィア様」
そこへ、周囲の警戒を終えた護衛隊の面々が駆け寄ってきた。
「戦いは終わりました。生き残りの敵兵が多数転がっていますが……いかがなさいますか?」
ソフィアはルークの走る後ろ姿から目を離さないまま、冷徹で、しかしどこか慈愛を帯びた声で指示を下した。
「怪我人は、なるべく丁重に扱ってあげて頂戴。ルークが悲しむから」
「はっ」
「……ただ、生き残っている『指揮官クラス』の者たちは、すべて私の夫の元へ連れて行って」
ソフィアのその言葉に、護衛隊の兵士たちは背筋をゾクッと震わせた。
普段は温厚で、少し抜けているようなソフィアが、冷たく静かに怒りに震えているのを感じてしまったのだ。
「さあ、お掃除の時間よ」
ソフィアはいつもの美しくも、親しみのある笑みを浮かべ、崩壊したゼント王国の陣地へと歩き出した。
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