第十九話:侵入者
ソフィア様の温かい腕の中で思い切り泣いたことで、私の心にずっと張り詰めていた緊張の糸は、すっかり解けていた。
すっかり落ち着きを取り戻した私は、それからソフィア様と二人で、ルーク様の話題で大いに盛り上がっていた。
ふと、私は『千里眼』の視界を、ルーク様の家の方向へと向けてみた。
そこには、凍てつくような寒空の下、一心不乱に木剣を振るうルーク様の姿があった。
「…………」
激しい運動のせいで、彼の体からは白い湯気が立ち上っている。
けれど、その表情はいつものように活き活きとしたものではなかった。眉間に深い皺を寄せ、まるで自分自身の中にある何かと必死に戦っているかのような、苦しげな顔をしていたのだ。
「あの……ソフィア様。ルーク様が今、お庭で剣を振っていらっしゃるのですが……」
「あら、こんな夜更けにですか?」
「はい。でも、いつもはどんなに厳しい鍛錬でも、どこか楽しそうにこなしていらっしゃるのに……今は、とても辛そうな、悲痛なお顔をされていて……」
私が心配になってそう伝えると、ソフィア様はふうっと目に魔力を集中させ、『遠視』の魔法を使った。
しかし、すぐに困ったように微笑む。
「あらあら、ここからだと森の木々が邪魔をしてしまって、私には見えないわね」
「あ、申し訳ありません……!」
「いいえ、ふふっ。アイリス様は本当にあの子をよく見ていてくださるのね」
ソフィア様は優しく目を細めた後、少しだけ寂しそうな顔をして窓の外を見つめた。
「あの子はね、体を動かすのが大好きな子なの。でも、今はきっと……夫から言われた言葉が、堪えているのかもしれないわね。……可哀想に。人を斬る覚悟なんて、本当は必要ない世界だったら良かったのに……」
ぽつりと零されたその呟きには、母親としての深い愛情と憂いが込められていた。
そんなしんみりとした空気が流れた、その時だった。
私の『千里眼』が、不意に身近な場所の異変を捉えた。
「……ん?」
私が現在いるこの部屋――その重厚な扉の向こう側。少し離れた通路の物陰から、じっと扉を監視するように見つめている不審な人物がいたのだ。城の兵士の格好をしているが、その手には小さな石版のような物が握られている。彼は時折、その石版に何かを書き込んでいるように見えた。
「ソフィア様……あの、部屋の外の通路に、見慣れない兵士がいます。手に石版のようなものを持って、こちらを監視しているようなのですが……」
私がそう伝えた瞬間。
ソフィア様の纏っていた柔らかな空気が、一変した。
「……内通者かしら? 少し、確かめますね」
声の温度が下がり、一流の魔導士としての鋭い気配が部屋を満たす。
ソフィア様は懐から通信用の魔導具を取り出し、ご主人であるセオドア様に短く状況を報告した。
そして、不審者がいる扉の方向へとすっと右手を伸ばし、静かに目を閉じる。見えない魔力の波や、通信の術式を感じ取っているような、極度に集中した仕草だった。
息を潜めるような、静かな時間が流れる。
やがて数十分ほどが経った頃、ソフィア様はゆっくりと目を開けた。
「なるほどね。……どういう細工で通信しているのか、完全に把握したわ」
そう呟いたソフィア様は、くるりと私の方を振り返り、再び元のふんわりとした優しい笑顔に戻った。
「アイリス様、裏切り者を見つけてくださってありがとうございます。」
「えっ、あ、いえ……私はただ、見えたものを言っただけで……」
「ふふっ。あとは夫に任せておけば大丈夫ですよ。さぁ、紅茶のおかわりを淹れましょうか」
外に暗殺者と内通者が迫っているというのに、ソフィア様はまったく動じる様子もなく、優雅にティーカップに手を伸ばすのだった。
◆◆◆
夜の帳が深く下りた辺境の町。
冷たい塔の外壁を、重力に逆らうように這い上がる六つの影があった。
王都から放たれた、国王直属の暗殺部隊である。
部隊のリーダーは、壁の途中に張り付いたまま、懐から小さな石版を取り出した。
それは表面に文字を書き込むことで、遠く離れた相手の持つ石版と内容を共有できる通信用の魔導具だ。声を出さずにやり取りができるため、隠密性は極めて高い。
石版の表面に、塔の内部に潜伏している内通者からの文字が浮かび上がった。
『防衛結界は張られていない。そのまま寝所へ突入せよ』
リーダーは暗闇の中で口元を歪め、部下たちに作戦行行のハンドサインを出した。
(簡単な仕事だぜ。たかが七歳の小娘の寝首を掻くだけの仕事で、我々に莫大な報酬をくださるとは……ヴィルヘルム王さまさまだな)
彼らは塔の最上階――アイリスの住む階層へと到達し、音もなく窓の横の外壁に手を触れた。
――その、瞬間だった。
リーダーは、壁に触れた手のひらを起点として、奇妙な『違和感』が体全体へと伝播していくのを感じた。
(……なんだ?)
不意に、体に力が入らなくなった。先ほどまでヒュウヒュウと耳を打っていた冬の夜風の音が、心なしか遠ざかり、周囲がひどく静かになったような気がする。
なぜか、目も酷く霞んできた。
(おかしい。俺は、疲れているのか……?)
ふと視線を落としたリーダーは、自分の体から「白い灰」のようなものが、ほろほろと夜空へ舞い上がっていることに気がついた。
しだいに壁に手をついて自分の体を支えていたはずの腕が、輪郭を保てなくなり、うっすらと向こう側の景色が透けて見えていた。
「あ……」
声を出そうとしたが、音にはならなかった。
すでに彼の声帯も、喉も、白い灰となって崩れ落ちていた。
セオドアがこの部屋に張った結界は、『アイリスに対し悪意を持つ者を滅する』という極めて純度が高く、凶悪なまでの防衛術。
守る対象を「部屋」や「複数人」ではなく、「アイリス・グランヴェルザという個人のみ」に限定し、極限まで魔力を圧縮したことで、その威力は人の理を軽々と凌駕する次元にまで高められていたのだ。
痛みすらない。
熱も、苦しみも、死の恐怖さえも感じる暇はなかった。
暗殺者たちは、自分たちの体が崩壊して死を迎えている事実にすら気が付かぬまま。
文字通り一瞬にして完全に白い灰となり、夜の闇の中へ跡形もなく消え去っていった。




