第十七話:アイリスの涙
「お初にお目にかかります、第一王女アイリス様。……いいえ、お久しぶりです、と言うべきでしょうか」
上品な所作で跪く男性――セオドア様と、愛慈しむような微笑みを浮かべる女性――ソフィア様。
間違いない。あの少年のご両親だ。
(ど、どうしましょう……! まさかこんな形で、彼のお父様とお母様にご挨拶することになるなんて……っ!)
(これはただの挨拶じゃない。ある意味、将来を見据えた顔合わせのようなものじゃないの?! 粗相があっては絶対にダメだわ!)
「……あの、お二人がなぜ、この塔に?」
私が努めて落ち着いた声で問いかけると、セオドア様は真剣な眼差しで口を開いた。
「アイリス様の『千里眼』であれば、既にお気づきかもしれませんが……現在、こちらへ暗殺部隊が差し向けられております」
「暗殺…部隊……」
「はい。ただ、この塔の厳重な警備を考えると、内部に手引きをしている協力者がいる可能性が高い。アイリス様には、その『千里眼』で内部の裏切り者を探っていただきたいのです」
暗殺者を動かしたのは、アイリスの父である国王であるが、セオドアはあえて口にしなかった。
「私をお守りするため、私がこの部屋に強力な結界を張ります。そして、妻のソフィアをアイリス様と同室させ、護衛として泊まり込ませたいと考えておりますが、よろしいでしょうか」
「ま、まぁっ! お母様が私と同室に……!」
「……おかあさま?」
ソフィア様が、きょとんとして小首を傾げた。
(――――っ!! しまったわ!!)
「あっ、い、いえっ! 今のはそのっ、ソフィア様が、と言おうとして口が滑っただけでして! 決して変な意味ではっ!」
「ふふっ、構いませんよ。私にもアイリス様くらい可愛らしい娘がいたら、どんなに良かったかと思っておりましたから」
顔から火が出そうになっている私を見て、ソフィア様はくすくすと上品に笑った。
セオドア様は少しだけ不思議そうな顔をしていたが、「それでは、私は城の護衛隊長と打ち合わせをしてまいります」と一礼し、部屋を退出していった。
部屋に残されたのは、私とソフィア様の二人きり。
(ど、どうしよう。彼のお母様と二人きりなんて、緊張して心臓が口から飛び出そう……)
私が膝の上でぎゅっと手を握りしめ、ガチガチに緊張していると、ソフィア様がふわりと優しい香りを漂わせて隣に座った。
「アイリス様、どうかご安心くださいね」
「え……?」
「暗殺部隊が来ると聞いて、ご不安なのでしょう。でも、大丈夫です。夫の結界さえあれば安全はほぼ確立されたも同然ですし、こう見えて私も、魔法には少しばかり自信があるのですよ?」
ソフィア様は、私が『暗殺』に怯えているのだと勘違いしたらしい。優しく落ち着かせるようなその声に、私は慌てて首を振った。
「は、はい、存じ上げております! 先日、魔物たちから町をお守りいただき、本当にありがとうございました。ご夫妻で使われた『メテオ・フォール』、とっても凄かったです!」
「あら……」
「お二人に守っていただけるなら、私、少しも怖くありません。安心してお任せします!」
力強く断言したあと、私はずっと気になっていたことを、どうにか平静を装って尋ねてみた。
「……そういえば、本日は、あの時ご一緒だった『剣士様』はいらっしゃらないのですか?」
私の言葉に、ソフィア様はパチリと瞬きをした。
「あら、見ていらしたのですね。剣士様……ああ、あの子は私たちの息子なんですよ。今回は対人戦になる可能性が高かったため、『人を斬る覚悟』がまだ足りないあの子は、夫が置いてきてしまったのです」
「あ……そう、なんですか……」
彼が来ていない。
その事実に、私は自分でも驚くほどあからさまに肩を落とし、しょんぼりとしてしまった。
「……あらあら?」
ソフィア様の声のトーンが、少しだけ変わった。
ハッとして顔を上げると、ソフィア様が口元を隠し、どこか面白がるような、ニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいる。
「アイリス様は、うちの息子のことをご存じなのでしょうか?」
「は、はいっ……! もの凄い速さで野を駆けたり、空を飛ぶように崖を登ったり……魔物相手にも、たった一人で無双していらっしゃいましたよね! かと思えば、町中で困っているお年寄りに手を差し伸べる優しさも持っていて……本当に、素晴らしいご子息だと思います!」
つい熱が入ってしまい、身を乗り出して語ってしまった。
ソフィア様は「あらあら、うふふ」と、さらに嬉しそうに目を細めた。
「ずいぶんと、あの子にお詳しいのですね」
「~~~~っ!!」
指摘されて、ようやく自分がどれだけ恥ずかしいことを捲し立てていたのかに気づいた。
顔が一瞬にして沸騰し、真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
「あ、あの……。お二人のお子様の、お名前は……?」
恥ずかしさで俯きながら、蚊の鳴くような声で尋ねると、ソフィア様はとても優しく、誇らしげな声で答えてくれた。
「ルークと言います。私たち夫婦の、自慢の息子です」
「ルーク……様」
唇でその名前を紡ぐだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
それからソフィア様は、ルーク様の幼い頃の失敗談や、どれだけストイックに特訓をしているか、そして彼がどれほど家族を大切に思っているかを楽しそうに語ってくれた。
私は興味津々でその話に聞き入っていた。
ルーク様が、ご両親からどれほどの愛情を受けて育ってきたのか。
ルーク様が、どれほど自由に、広い世界を愛して生きているのか。
それらが痛いほど伝わってきて――。
「……っ」
ぽたり、と。
自分の膝の上に、透明な雫が落ちた。
「アイリス様……? どうなされました!?」
驚いて身を乗り出すソフィア様の前で、私は慌てて目元を拭った。しかし、一度堰を切った涙は、後から後から溢れて止まらなくなってしまった。
「ご、ごめんなさい……。ルーク様が、お二人にとても愛されているのが伝わってきて……。そして、とても自由なことが眩しくて……羨ましくて……どうしてか分からないんですけど、涙が……っ」
私は、物心ついた頃からこの冷たい塔に閉じ込められていた。
父である国王からは化け物と呼ばれ、兄たちからは命を狙われ、親の愛情というものを知らずに生きてきた。
その事実と、ルーク様を取り巻く温かな世界との対比が、無意識のうちに私の心を締め付けていたのだ。
ソフィア様は、涙を流す私を少しの間見つめていた。
やがて、彼女の大きな瞳からも、ふわりと涙が零れ落ちた。
「……失礼いたします」
ソフィア様はそっと立ち上がると、私の小さな体を、その両腕で強く、けれどひどく優しく抱きしめてくれた。
「え……」
「頑張りましたね。ずっと一人で、怖かったでしょう。……あなたは、ただの可愛らしい、普通の女の子なのに」
驚く私の背中を、ソフィア様の手がゆっくりと撫でる。
今まで感じたことのない、人の温もり。母親の温もり。
ずっと張り詰めていた心の糸が、その温かさの中でふつりと解けていくのが分かった。
「あ、ああ……っ、うわぁぁぁんっ……!」
私はソフィア様の胸に顔を押し当てて、まるで小さな子供のように、ただわあわあと声を上げて泣き続けた。
兄弟たちの殺意を感じた時でさえ揺らがなかった心が、この日初めて、柔らかな涙となって溶け出していった。




