第8話 走り出す言葉
繰り返し実証されており、査読のあるトップジャーナルに掲載された研究によれば、恋愛が人間を成長させる(参考文献は第1話の後書きに掲載)。
この物語は、ある初恋のはじまりと、その当事者たちの成長に関する、私の研究成果をまとめたものである。
つきまして、浅学非才の身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。
放課後のチャイムが、よく響いて、そして消えた。
教室の後ろの掲示板には、補習の案内を印刷した紙が貼られている。英語、数学、国語——教室番号と開始時刻が書かれている。
御影 蓮は、いつもの無駄のない動きで教科書を抱え、掲示を横目に歩きだした。三教科で学年トップだった御影は、しかし、国語と社会の補習を受けなければならなかった。
七海は、その御影の背中を見ていた。鞄の中には、まだ返していない論文がある。表紙の角には、『おせっかい、嬉しかった』と書かれている黄色い付箋がのぞく。
廊下に出ていた御影に、後ろから追いついて、
七海「御影くん」
七海の声は、思ったよりもはっきりと聞こえた。
御影が振り返る。目が合った瞬間、七海の心臓が跳ねる。
このとき、七海にだけは、御影の目が、本来の、あの透き通った青に見えていた。
七海は論文を差し出そうとして、手が止まった。「ありがとう。これ、返すね」と言うつもりだった。心の中で、何度も、何度も、繰り返し練習した言葉。
その言葉が、喉の奥で、勝手に別の言葉に置き換わっていく。
——なに、これ?
七海「私、御影くんのこと、もっと知りたい」
間違いなく、それは、自分の声だった。
御影は驚いたように瞬きを一度だけする。それからほんの少し首をかたむけた。
七海は、差し出しかけた論文を、なぜか、しっかりと懐に握りしめる。紙が、かさりと鳴る。頬が熱い。熱は耳に移り、視界の端が明るい色に滲む。
七海「——っ」
言葉の続きは出てこなかった。七海は、会釈だけして踵を返した。足音が、思っているよりも大きな音で響く。廊下の向こうへ、階段のほうへ、走る。
——なに? 私、なに?
問いが、胸の中を回り続ける。息が上がる。論文の角が腹に当たるたび、その微かな痛みが、七海に、これが現実であることを伝えてくる。
同じころ、夢咲と美月も補習の教室へ向かうところだった。彼女たちは、この七海と御影のやり取りの一部始終を見ていた。
夢咲・美月「えっ?」
ふたりは、互いに目を合わせる。
夢咲「男子がこわい、あの七海が?」
美月「……御影、この状況、理解してるのかな?」
夢咲「あれ……七海、御影のこと……すきなん?」
美月「わからない。でも……七海の顔、真っ赤だった」
夢咲は口角を上げ、「補習、ちょっとだけ寄り道してから行こ」と方向を変えた。
国語の補習教室に向かおうとする御影を、数学の補習教室に向かおうとしていた夢咲と美月が呼び止める。
夢咲「御影くーん、質問でーす」
御影「……なに」
夢咲「さっき、廊下で誰かに告白されてましたー?」
御影「されてない」
美月「じゃあ“取材”に切り替え。七海が走ってたのは、なに事件?」
御影「知らない」
夢咲「知らない、ね」
美月「知らないなら、推測タイム。御影は、七海に何をしたと思う?」
御影「何も……」
夢咲「そっか。なら、"何もされてない"のに顔を赤くする七海、かわいい説」
御影「……補習、始まるから。もう、いい?」
美月「だよね、もう行くわ」
夢咲はニヤニヤした顔で、一旦は、御影とは逆の方向に歩き出した。
そこで夢咲は、思い出したように振り返って、小走りに御影のところまで行き、小声で付け足す。
夢咲「御影っち。七海に探り入れとくからさ、ちょっと待ってろ」
御影「ちょっ、御影っちって……」
その頃、七海は、昇降口を抜けて商店街へ出ていた。保育園へ向かういつもの帰り道。夕方の匂い。揚げ物の油、雨上がりのアスファルト、果物屋の甘い香り。
——なに? 私、なに?
心の中の言葉は、さっきと同じだ。だけど、胸の痛みは、さっきより少しやわらいでいる。手の中の論文が、湿った指でわずかに柔らかくなっていた。
走っていた七海は、小走りになり、疲れて歩き始めていた。信号待ちの角で、横から声が飛ぶ。
チャラ男A「ねえ、きみ。どこ行くの? 暇ならさ——」
また、七海の身体がこわばる。視界の端で、ガラの悪そうな若い男性がひとり、ニヤニヤ笑っている。いつもの恐怖が、身体の奥から立ち上がりかけた、そのとき——
七海「うるさいっ!」
恐怖よりも先に、声が出た。自分でも驚くくらい大きい声。通りの空気が、一瞬だけ硬くなる。果物屋の店主がこちらを見る。男は目を丸くし、肩をすくめて、歩道の反対側へ逃げた。
七海は、その場で一度、深く息を吐いた。胸の奥で跳ねていた何かが、少し落ち着きを取り戻す。手の中の論文が、はっきりと重さを持って感じられた。
——私、どうしちゃったの?
信号が青に変わる。七海は横断歩道を渡り、保育園の門の前へ。柵の中から、聞き慣れた声が飛ぶ。
美香「ねえね!」
美香だ。紙で作った王冠を頭にのせ、手には折り紙の花束。七海が門をくぐると、美香は七海に、両手を広げて飛びついた。
アパートへの帰り道。
途中、いつものスーパーに立ち寄り、特売品の中から、夕飯の食材を買い求める姉妹。
美香が「きょうね、あめの歌うたった」と話し始めた。七海はそれに「心のこもっていない相槌」を打ちながら、論文を持つ手に少し力を込めた。紙の角が、確かにそこにある。
——言ってしまった。
伝えてしまった言葉は、もう取り消せない。むしろ、取り消したくはない、と七海は思った。だって、"ほんとう"のことだから。
これまでとは違う「こわさ」と一緒に、別のなにかが確かにある。なにか、とても暖かいもの。
アパートの階段を上がる前、七海は振り返って、薄い夕焼けを一度だけ見た。明日、論文にもう一枚付箋を貼ろう。短い言葉でいい。『聞きたいことが、たくさんあります』。
七海は鍵を回し、美香の背を先に部屋へ押し入れて、扉を閉めた。少し冷静になって、七海は「今日が金曜日で、よかった」と思った。直後、それとは違う感情が、勝手に立ち上がる。
——月曜日まで、御影くんに、会えない。