表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/58

第8話 走り出す言葉

 繰り返し実証されており、査読のあるトップジャーナルに掲載された研究によれば、恋愛が人間を成長させる(参考文献は第1話の後書きに掲載)。


 この物語は、ある初恋のはじまりと、その当事者たちの成長に関する、私の研究成果をまとめたものである。


 つきまして、浅学非才せんがくひさいの身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。

 放課後のチャイムが、よく響いて、そして消えた。


 教室の後ろの掲示板には、補習の案内を印刷した紙が貼られている。英語、数学、国語——教室番号と開始時刻が書かれている。


 御影 蓮(みかげ れん)は、いつもの無駄のない動きで教科書を抱え、掲示を横目に歩きだした。三教科で学年トップだった御影(みかげ)は、しかし、国語と社会の補習を受けなければならなかった。


 七海(ななみ)は、その御影の背中を見ていた。鞄の中には、まだ返していない論文がある。表紙の角には、『おせっかい、嬉しかった』と書かれている黄色い付箋がのぞく。


 廊下に出ていた御影に、後ろから追いついて、


七海「御影(みかげ)くん」


 七海(ななみ)の声は、思ったよりもはっきりと聞こえた。


 御影が振り返る。目が合った瞬間、七海の心臓が跳ねる。


 このとき、七海にだけは、御影の目が、本来の、あの透き通った青に見えていた。


 七海は論文を差し出そうとして、手が止まった。「ありがとう。これ、返すね」と言うつもりだった。心の中で、何度も、何度も、繰り返し練習した言葉。


 その言葉が、喉の奥で、勝手に別の言葉に置き換わっていく。


——なに、これ?


七海「私、御影くんのこと、もっと知りたい」


 間違いなく、それは、自分の声だった。


 御影(みかげ)は驚いたように(まばた)きを一度だけする。それからほんの少し首をかたむけた。


 七海(ななみ)は、差し出しかけた論文を、なぜか、しっかりと(ふところ)に握りしめる。紙が、かさりと鳴る。(ほほ)が熱い。熱は耳に移り、視界の端が明るい色に滲む。


七海「——っ」


 言葉の続きは出てこなかった。七海は、会釈だけして(きびす)を返した。足音が、思っているよりも大きな音で響く。廊下の向こうへ、階段のほうへ、走る。


——なに? 私、なに?


 問いが、胸の中を回り続ける。息が上がる。論文の角が腹に当たるたび、その(わず)かな痛みが、七海に、これが現実であることを伝えてくる。


 同じころ、夢咲(ゆめか)美月(みつき)も補習の教室へ向かうところだった。彼女たちは、この七海(ななみ)御影(みかげ)のやり取りの一部始終を見ていた。


夢咲・美月「えっ?」


 ふたりは、互いに目を合わせる。


夢咲「男子がこわい、あの七海が?」


美月「……御影(みかげ)、この状況、理解してるのかな?」


夢咲「あれ……七海、御影のこと……すきなん?」


美月「わからない。でも……七海の顔、真っ赤だった」


 夢咲(ゆめか)は口角を上げ、「補習、ちょっとだけ寄り道してから行こ」と方向を変えた。


 国語の補習教室に向かおうとする御影を、数学の補習教室に向かおうとしていた夢咲と美月が呼び止める。


夢咲「御影(みかげ)くーん、質問でーす」


御影「……なに」


夢咲「さっき、廊下で誰かに告白されてましたー?」


御影「されてない」


美月「じゃあ“取材”に切り替え。七海(ななみ)が走ってたのは、なに事件?」


御影「知らない」


夢咲「知らない、ね」


美月「知らないなら、推測タイム。御影は、七海に何をしたと思う?」


御影「何も……」


夢咲「そっか。なら、"何もされてない"のに顔を赤くする七海、かわいい説」


御影「……補習、始まるから。もう、いい?」


美月「だよね、もう行くわ」


 夢咲(ゆめか)はニヤニヤした顔で、一旦は、御影(みかげ)とは逆の方向に歩き出した。


 そこで夢咲は、思い出したように振り返って、小走りに御影のところまで行き、小声で付け足す。


夢咲「御影っち。七海に探り入れとくからさ、ちょっと待ってろ」


御影「ちょっ、御影っちって……」


 その頃、七海(ななみ)は、昇降口を抜けて商店街へ出ていた。保育園へ向かういつもの帰り道。夕方の匂い。揚げ物の油、雨上がりのアスファルト、果物屋の甘い香り。


——なに? 私、なに?


 心の中の言葉は、さっきと同じだ。だけど、胸の痛みは、さっきより少しやわらいでいる。手の中の論文が、湿った指でわずかに柔らかくなっていた。


 走っていた七海は、小走りになり、疲れて歩き始めていた。信号待ちの角で、横から声が飛ぶ。


チャラ男A「ねえ、きみ。どこ行くの? 暇ならさ——」


 また、七海(ななみ)の身体がこわばる。視界の端で、ガラの悪そうな若い男性がひとり、ニヤニヤ笑っている。いつもの恐怖が、身体の奥から立ち上がりかけた、そのとき——


七海「うるさいっ!」


 恐怖よりも先に、声が出た。自分でも驚くくらい大きい声。通りの空気が、一瞬だけ硬くなる。果物屋の店主がこちらを見る。男は目を丸くし、肩をすくめて、歩道の反対側へ逃げた。


 七海(ななみ)は、その場で一度、深く息を吐いた。胸の奥で跳ねていた何かが、少し落ち着きを取り戻す。手の中の論文が、はっきりと重さを持って感じられた。


——私、どうしちゃったの?


 信号が青に変わる。七海は横断歩道を渡り、保育園の門の前へ。柵の中から、聞き慣れた声が飛ぶ。


美香「ねえね!」


 美香(みか)だ。紙で作った王冠を頭にのせ、手には折り紙の花束。七海(ななみ)が門をくぐると、美香は七海に、両手を広げて飛びついた。


 アパートへの帰り道。


 途中、いつものスーパーに立ち寄り、特売品の中から、夕飯の食材を買い求める姉妹。


 美香が「きょうね、あめの歌うたった」と話し始めた。七海はそれに「心のこもっていない相槌」を打ちながら、論文を持つ手に少し力を込めた。紙の角が、確かにそこにある。


——言ってしまった。


 伝えてしまった言葉は、もう取り消せない。むしろ、取り消したくはない、と七海(ななみ)は思った。だって、"ほんとう"のことだから。


 これまでとは違う「こわさ」と一緒に、別のなにかが確かにある。なにか、とても暖かいもの。


 アパートの階段を上がる前、七海は振り返って、薄い夕焼けを一度だけ見た。明日、論文にもう一枚付箋を貼ろう。短い言葉でいい。『聞きたいことが、たくさんあります』。


 七海は鍵を回し、美香の背を先に部屋へ押し入れて、扉を閉めた。少し冷静になって、七海は「今日が金曜日で、よかった」と思った。直後、それとは違う感情が、勝手に立ち上がる。


——月曜日まで、御影くんに、会えない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
正直7話までは、情報を与えられてる感じで読み進めるのにエネルギーが必要な印象でしたが、ここに来てキャラクターの背景を知ってるので、物語が強く動き出したところでグッと入り込める感じです!この続き楽しみで…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ