028 喪失した記憶
全てを知る者は居らず、
全てを語る者も居ない。
果てしなく広がる蒼穹の下、緑の丘で、一組の男女による御茶会が開かれていた。
緩やかな風が男の黒い前髪を揺らし、女の銀髪を靡かせる。
ゆらゆら揺れる白銀の髪は絹糸の様で、何処か神秘的だった。
白い丸テーブルを囲み、白磁のカップを傾かせる。
男は、この穏やかな時間が好きだった。
「ねぇ、魔王」
カップをソーサーに置き、揺れる波紋に目を落としながら女が訊ねる。
「もし、私がひとに成りたいって言ったら、笑う?」
何処か恐れる様に、怒られやしないかと不安を押し殺す子供の様な仕草でもじもじと女は肩を揺する。
魔王と呼ばれた男は、口内に紅茶を含み、これでもかと女に吹き掛けた。
「ギャーーっ!? この、馬鹿っ。うら若き乙女になんてもん吹き掛けんのよ! ばっちぃでしょ!」
「安心しろ。この俺の唾液には治癒効果並びに肌艶を増す効能が秘められている。故に汚くない!」
「気持ちの問題よバーカバーカ!」
ぶちまけられる紅茶を華麗に回避する魔王。
青筋を立てて、女は地団駄を踏む。
到底お淑やかから掛け離れた女は、己の行いを恥じたのか、頬を赤くしながらも口元を隠しておほほ笑いを展開した。
「新種の鳥か?」
「淑女よしゅ・く・じょ!」
バンバンバンと白い丸テーブルを叩いての強調。
魔王は煩わしいとばかりに顔をしかめて遠くを見始めた。
老成したスルースキルの高さである。
「無視すんなーっ! ああ、そうっ。貴方がそういう態度を取るんだったらこっちにも考えがあるんだからね! 今更謝ったって遅いんだからね! 許して欲しければ私を構いなさいなほら!」
無視である。
「構って構って構ってよーーっ! ウサギは寂しいと死んじゃうのよ!? このステラさんが寂し死にしてもいいわけ!? ねぇ! ねぇったらー!」
そんな調子で無視する事五分。
そこには膝を抱えてしくしく泣いている淑女(笑)の姿があった。
魔王はひとつ息を吐いて。ことりとカップとソーサーをテーブルに置いた。
瞬間、女もといステラは飼い主に散歩用の紐見せられた忠犬の様に復活する。
嬉しさの余り飛び掛かってくるステラの顔を鷲掴み、魔王は疲れた様な溜め息を吐く。
「アルフィーネよ」
「魔王魔王、ステラさんの名前はステラよ? 決してそんなウンディーネみないな名前じゃなくてよ?」
「……ステラ・アルフィーネよ」
「合体させちゃった!?」
カップを持ち、紅茶を含み口に含むとステラは慌ててテーブルの下に退避した。
それを見届けて、普通に紅茶を飲み下す。
「貴様がひとに成りたい理由は察しがつく。が、下は貴様が思う程良い所ではないぞ」
「そんなの百も承知よ。この世界の美をこれでもかと詰め込んだステラさんが下へ行くんだもの。世の男共が放っておく筈ないわ。キャー、犯されちゃったらどうしよー!」
頬に手を当ててわざとらしくいやんいやんするステラはさておき、魔王の懸念は他にもある。
「貴様が人間に成るには一度その命を終わらす他にない。殺し切る術を俺は持たないし、貴様も自害する事など出来はしないだろう。それに、もし貴様亡き後その座を奪われでもしたら」
「ステラさん難しい事分かんなーい」
テーブルの下から這い出て、埃を払ってから椅子へ座る。
そんな彼女を見つめる魔王の瞳には、何処までも深い親愛の色があった。
「私達には過去も未来もない、在るのはこの退屈な毎日」
青空を見上げるステラは、眩しそうに目を細める。
御行儀悪く椅子を傾かせて、足をテーブルに着けてバランスを保っていた。
「私は退屈が嫌い。何もない日々が嫌い。幸せな毎日が嫌い。私にはないものを、下の人間は持っている。だから嫌い」
「貴様の嫌いはあてにならんな」
「ねぇ、魔王」
――風が吹いた。
それは、その場所では珍しい強風だった。
「――――」
風に紛れたその言葉を、魔王が知る事はない。
全ては終わった時間での出来事。誰に知られる事もなく、ただただ終わりを待つだけの時間軸。
蒼穹の下で、一組の男女が楽しそうに罵り合う。
平和なひととき、平穏な毎日。
ふたりが殺し合う日はまだ遠く、
ふたりを狙う目もまだ無かった頃の光景。
何もない、けれども満たされていた時間は、既に、脆くも崩れ去っている。
ちょいちょいこんな回を挟みます。




