エイロス学院、そして初めて見えたもの
[947年、247日、午後]
ラグノスのエイロス魔法学院は、ギルドからそれほど遠くなかった。
それでも初めて探す道だったので、時間がかかった。広い大通りを外れ、路地を二度曲がり、石の階段を上れば着くと聞いていた。
アヴィスはカルゼンの後ろをついていった。トリカは隣であちこちきょろきょろしていた。
「学院がこんなところにあるとは思わなかったね」
階段を上りきると、建物が見えた。
ラグノスのほかの建物のように大きく威圧的ではなかった。石造りの外壁、細い窓々、正門の上にはアヴィスには読めない文字が刻まれた看板が掲げられていた。
アヴィスは建物を見上げた。
ギルドで登録証を受け取ったときより、もっと震えていた。
「入ろう」
カルゼンが言った。
—
正門を守っていた若い研究員は、三人を見るなり表情が消えた。
「予約はおありですか?」
「ない」
「でしたら……」
カルゼンが静かに登録証を取り出した。
A等級。
研究員は登録証を見てから、カルゼンを見た。少し沈黙した。
「……少々お待ちください」
彼が中へ消えた。
トリカが低い声で言った。
「やっぱりA等級は違うね」
カルゼンは答えなかった。
アヴィスは正門の脇に刻まれた文字を静かに見つめた。何の意味かは分からなかった。
少しして研究員が戻ってきた。
「ヘルマン上席研究員がお時間を取ってくださいました。ご案内します」
—
学院の内側は、外よりも静かだった。
廊下は長かった。両側に厚い木の扉が続き、扉ごとに小さな標識が貼られていた。遠くから何かが煮え立つ音、ときおり低い声。それ以外は何も聞こえなかった。
アヴィスは足音が大きく響くような気がして、少しずつもっと慎重に歩いた。
研究員が止まったのは、廊下の突き当たりの部屋の前だった。
こん、こん。ノックの音。
「どうぞ」
中からの声は低く、乾いていた。
扉が開いた。
部屋は広くなかった。机の上には紙と硝子瓶が並び、棚にはアヴィスには名前も分からないものがびっしりと詰まっていた。窓辺から人間の男が振り返った。
髪が半ば白くなっていた。年齢は読みにくかった。目つきは鋭かった。
「ヘルマンです」
紹介するように言って、三人を見渡した。カルゼン、トリカ、そしてアヴィス。
ふたりに比べて小さなアヴィスで、視線がほんの少し止まった。
「お掛けください」
椅子はふたつだけだった。カルゼンは立つほうを選んだ。トリカとアヴィスが座った。
「ご用件を」
カルゼンがポケットから小さな硝子瓶を取り出した。
黒い粉が入った瓶だった。
「南部第三倉庫で見つけました。ベルカール産の箱の底にあったものです」
ヘルマンは瓶を受け取り、光にかざした。
「その箱の周辺で物品が内側から変質しています。薬草、革、薬草、革、食材。外側は何ともないのに、中から黒く死んでいて……」
ヘルマンは瓶を置いた。
「調査を依頼されたいということですか」
「そうです」
ヘルマンはしばらく黙っていた。硝子瓶を指でとん、と叩いた。
「汚染物質のようですね。ベルカール側のマナ工学部品から出る残滓が、稀にこういった形を取ることもあります。周辺の有機物に影響を与えることはあり得ます」
話し方は淡々としていた。すでに結論を出した人間の声だった。
「傷に入り込んだ場合はどうなりますか」
カルゼンが問いかけた。
「感染が起きるでしょう。運が悪ければ深刻になることも」
「死ぬこともあり得ますか」
「体が弱い場合や、幼い子どもであれば」
ヘルマンは短く答え、紙を一枚取り出した。
その言葉が、部屋の中へ静かに降り積もった。
トリカの尻尾がほんの一瞬止まった。
アヴィスは手を膝の上に置いた。
幼い子どもであれば。
—
唇を押さえた。
しばらく様子を窺った。カルゼンを見て、トリカを見て、また膝を見た。
「……あの」
声が思ったより小さく出た。
ヘルマンが顔を上げた。
アヴィスは一度息を吸い込んだ。
「私に……この物質と似たような感覚を受けたことがあります。誰かを治癒したときに」
「治癒?」
ヘルマンの目が、初めて少し変わった。
「治癒魔法を使えるのですか?」
アヴィスは答えられなかった。
魔法なのかどうかも分からなかった。どこから始まるのかも分からなかった。
トリカが静かにアヴィスを見た。
そして何も言わず、指を噛んだ。
アヴィスの息が止まった。
少し血が滲んだ。トリカはその指をアヴィスのほうへ差し出した。無理にやれということではなかった。ただ、差し出した。大丈夫という眼差しだった。できるという眼差しでもあった。
アヴィスはその手を見た。
指先が小さく震えた。
リオンの顔が浮かんだ。笑いながら手の甲を差し出していた子。次に見たのは青白い顔で、そのまた次は黒く腐っていた傷だった。
トリカはリオンではなかった。
それは分かっていた。
それでも。
トリカの目がアヴィスをじっと見ていた。急かさなかった。待っていた。
アヴィスは手を伸ばした。
光がほんの少し広がった。
足元の空気がほんの一瞬揺れた。トリカの指に滲んでいた血が消え、小さな傷が閉じた。
部屋が静まり返った。
ヘルマンはその場面を最初から最後まで見ていた。
言葉がなかった。
トリカは指を覗き込んでから、アヴィスを見て小さく笑った。
何も起きなかった。
傷はなかった。まだ腐ってはいなかった。トリカは大丈夫だった。
アヴィスは息を吐いた。手がまだ少し震えていた。
「……詠唱がないのですね」
ヘルマンが言った。
声が変わっていた。乾いた感じが少し薄れていた。
「はい」
「接触もなしに」
アヴィスはうなずいた。
ヘルマンはしばらくアヴィスを見てから、机の引き出しから小さな機械装置を取り出した。アヴィスには初めて見るものだった。手のひらほどの金属板に、細い針が付いていた。
「マナ測定器です。手を乗せていただけますか」
アヴィスは慎重に手を乗せた。
針がゆっくりと動いた。
ヘルマンは目盛りを見た。そしてもう一度見た。
「……あれ、平均以下ですね」
トリカの眉間に皺が寄った。
「平均より低いってどういうことですか? さっき確かに……」
「だから、おかしいんです」
ヘルマンは測定器を置き、アヴィスを見た。
「もう一度見せていただけますか。今度は私が近くで観察します」
トリカが反対の指も噛もうとするのを、アヴィスが止めた。
「違います。別のもので……」
アヴィスはしばらく考えてから、机の上の枯れかけた鉢植えを指さした。
ヘルマンが少し不思議そうにしてから、うなずいた。
アヴィスは鉢植えに手を近づけた。光がほんの少し広がった。枯れかけた葉の先が少し伸びた。死んでいたものは生き返らなかったが、まだ残っているものが少し力を取り戻した。
ヘルマンはその場面を見ながら、何かをぼそりと呟いた。
目が変わった。研究者の目だった。
「マナを引き寄せる流れが、自分の体から発していないのですね」
アヴィスが顔を上げた。
「あなたが使っているのは、あなたの内にあるマナではありません」
ヘルマンはゆっくりと言った。
「自然に流れるマナを引き寄せて使っているのです。元々そこにあったものを呼び集める方法で」
部屋が静まり返った。
「だから測定器に何も引っかからないのです。あなた自身のマナは、平均的か、それより少し少ない程度。力の源があなたの外にあるのですから」
アヴィスはその言葉をゆっくりと受け取った。
自然のマナ。
森で感じていた流れが浮かんだ。エルデルの草の匂い、足元に咲いていた花々、理由も分からないまま体が先に動いていた瞬間たち。
それが自分のものではなかった。
いや、自分のものでもあった。
どこが境界なのか分からなかった。
「それでは」
カルゼンが言った。
「この粉との関係は」
ヘルマンは硝子瓶を再び手に取った。
そしてアヴィスを見た。
「さっき治癒したとき、おかしな感覚があったと言いましたね」
「……はい」
「どんな感覚でしたか」
アヴィスはしばらく黙っていた。
悪寒だった。殺気のようでもあった。指先から体の内側へ入り込んでくる、冷たい何か。
あまりにも速く消えて、掴み損ねたもの。
「……冷たかったです。内側から」
ヘルマンはうなずいた。
彼は硝子瓶を置き、しばらく指を合わせた。
「自然のマナは、生命に近い力です。流れがあり、温かい」
彼はゆっくりと言った。
「この物質は、その逆です。マナの流れを塞き止め、内側から蝕みます。生きているものの流れを逆行させる性質があります」
部屋の空気が少し重くなった。
「自然のマナで治癒するとき、この物質が傷の中にあったとしたら」
ヘルマンはそこで少し止まった。
「ふたつの力が触れ合うのです。生命の流れと、それを逆行させる力が」
アヴィスの指先が冷たくなった。
「その瞬間、物質が自然のマナに反応して激しく暴れます。むしろより速く、より深く広がっていく」
リオンの手の甲が浮かんだ。
朝、笑いながら差し出していた手。
夕方、黒く腐っていた傷。
その間の数時間が、少しずつまたつながっていった。
アヴィスが治癒したことが、引き金だった。
アヴィスの自然のマナが粉に触れ、粉は暴れ、幼いリオンは耐えられなかった。
アヴィスはそれを知らなかった。
何も知らないまま、リオンの手を握っていた。
「……」
手が膝の上でぎゅっと握られた。
リオンが死んだのは、自分のせいではなかった。
でも、自分が無関係でもなかった。
そのあいだのどこかに立っていた。
それがかえって重かった。違うとは言えなかった。かといって、そうだとも言えなかった。どこにも寄りかかれない場所だった。
言葉が出なかった。
ヘルマンはそれ以上何も言わなかった。説明を終えた研究者の顔だった。
カルゼンが静かにアヴィスを見た。
トリカは黙って、アヴィスの隣へ椅子を少し引き寄せた。
音もなく、ただ近づいた。
アヴィスはその感覚を受け取った。隣が温かくなるのを。
泣きたかった。泣かなければいけない気がした。
でも涙は出なかった。
リオン。
その名前を、心の中で静かに呼んだ。
ごめんなさいという言葉が合っているのかも分からなかった。それでも、ほかの言葉は浮かんでこなかった。
「……もうひとつ、うかがってもよいですか」
カルゼンがヘルマンに言った。
「この物質、ベルカールではよく出るものですか」
ヘルマンは硝子瓶を再び手に取った。
「よくはありません。マナ工学部品の製造過程で出る副産物のひとつなのですが、大抵は処理されます」
「大抵は」
「適切に処理されなかったものが、稀に流通することもあります。意図的であれ、不注意であれ」
カルゼンの目つきが少し変わった。
「意図的な場合もあるということですか」
ヘルマンはしばらく黙っていた。
「研究員としてお伝えできるのは、ここまでです」
部屋が静かになった。
それだけで十分な言葉だった。
—
学院を出ると、日が少し傾いていた。
石の階段を降りながら、トリカがアヴィスの隣に寄った。尻尾が腰のほうにそっと巻きついた。
アヴィスは何も言わなかった。
カルゼンが前を歩いた。
ラグノスの音がまた押し寄せてきた。馬車の音、商人たちの声、遠くから聞こえる笑い声。世界は何も変わらないかのように動いていた。
アヴィスは歩きながら、自分の手を見下ろした。
この手でリオンを治した。この手でトリカの傷を閉じた。同じ手だった。
何が違ったのか、今はもう分かった。
それが慰めになるかどうかは、まだ分からなかった。
トリカがとても小さな声で言った。
「大丈夫だよ」
アヴィスは顔を上げなかった。
「アヴィスのせいじゃないから」
「……分かってます」
分かっていた。
分かっていても、リオンという名前が心の内側のどこかに静かに残っていた。
しばらくはそうだろうと思った。
それでいい、と思うことにした。
カルゼンは止まらず前を歩いた。トリカの尻尾がもう少し強く巻きついた。
アヴィスはその温もりを感じながら、また一歩踏み出した。
ラグノスの夕暮れが、ゆっくりと降りてきていた。




