初めての依頼、そしてあの日の手がかり
[947年、247日、朝]
白い煙突の宿の下の階は、朝から温かな匂いで満ちていた。
焼きたてのパンと薄いシチュー、温めたミルクの匂いが混ざっていた。客のほとんどはギルドへ向かう者たちらしく、食事をしながら装備を確かめたり、紙を覗き込んだりしていた。
アヴィスはテーブルの端に静かに座っていた。
手首には、もう傷ひとつ残っていなかった。昨日、短剣が通った跡も、血が流れた痕もない。それでもトリカの視線は、何度もそこへ向かった。
「見せて」
トリカが言った。
アヴィスはスプーンを持ったまま止まった。
「もう大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、私が見てから決めるの」
トリカはアヴィスの手首をそっと取った。いつものように悪戯っぽく、ぱっと掴む手つきではなかった。指先が、傷のあった場所をとてもゆっくりなぞった。
傷はなかった。
トリカはそれでも、しばらく見つめていた。
「本当にないね」
「はい……」
「でも怒ってる」
アヴィスは顔を上げた。
「まだですか?」
「うん」
トリカはそう言いながら、パンの内側の柔らかいところだけをちぎってアヴィスの前に置いた。
アヴィスはそのパンを見下ろした。
「これは?」
「怒ってるのと食べさせるのは別」
カルゼンは向かいでシチューを食べながら、短く言った。
「傷はない」
トリカがすぐに返した。
「心の傷はある」
「それはお前が騒いで大きくしている」
「この獣」
「お前も獣人だ」
アヴィスはふたりを交互に見て、それからほんの少し笑った。
笑い声は大きくなかった。けれどトリカは、その小さな変化を見逃さなかった。
「笑った」
「違います」
「今、笑ったよ」
「……少しだけ」
「ならいい」
トリカは満足したようにアヴィスの頭を軽く撫でた。アヴィスはパンを少しかじった。ラグノスのパンはおいしい。高いけれど。
カルゼンは食事を終えると、登録証を取り出した。
「今日は依頼を見る」
アヴィスの手が止まった。
「依頼、ですか?」
「C等級として登録した以上、受けられる依頼がある。単独戦闘依頼は不可、後方支援推奨。それがお前の登録証に記された制限だ」
アヴィスは鞄の中にしまってある登録証を思い浮かべた。
名前:アヴィス
等級:C
分類:治癒可能者
その文字は、昨日からずっと心に残っていた。名前の横に何かが記されたという事実は、不思議なほど馴染まなかった。嬉しいと言うには重く、怖いと言うには少し違った。
「すぐに……やらなきゃいけないんですか?」
「急いで決める必要はない」
カルゼンは水の杯を置いた。
「ただ、ギルドがどう動く場所なのかは知っておくべきだ」
アヴィスは答える代わりに、小さくうなずいた。
—
ラグノスのギルドは、前日と変わらず混み合っていた。
依頼掲示板の前には人が多かった。低い等級の依頼は下のほうに、高い等級の依頼は上のほうに貼られていた。カルゼンはA等級の依頼が貼られたほうを一度見たが、長くは留まらなかった。
アヴィスの視線は自然と下へ向いた。
D等級の雑用。
C等級の運搬補助。
C等級の倉庫整理。
C等級の治療所補助。
治療所という文字が目に入った瞬間、アヴィスの肩が小さく固まった。
トリカが隣ですぐに気づいた。
「あれは今日はやらない」
アヴィスは答えられなかった。
治療所補助。
確かに自分に合った依頼のように見えた。ギルド登録証にも、治癒可能者と書かれていた。けれどその文字を見るだけで、リオンの手の甲が浮かんだ。
笑いながら差し出した手。
もう一度現れ、黒く腐っていた傷。
アヴィスは依頼書から目を離せなかった。
「初日からあんなところに立たせるのは、さすがにひどいでしょ」
トリカが言った。
カルゼンは治療所の依頼書をしばらく見てから、別のほうへ視線を移した。
依頼書は多かった。多すぎて、何を見ればいいのか分からなかった。人々は慣れた手つきで紙を剥がし、受付へ向かっていく。アヴィスはその流れの中で、しばらく立っていた。
そのとき、掲示板の隅に貼られた古い紙が目に入った。
紙は新しくなかったが、上に赤い印が付け足されていた。最近更新されたという意味らしかった。
アヴィスは近づいた。
南部倉庫 物品変質調査。
ベルカール産機械部品の箱周辺で物品変質。
薬草、革、食材の一部が内側から黒く変色。
汚染の可能性あり。
C等級以上の同行可。
ベルカール。
アヴィスはその名前を覚えていた。道中で商隊の人々が話していた、遠い地域の名前だった。機械部品が重いと言っていたし、その品物はラグノスによく入ってくるとも聞いた。
アヴィスの視線は、別の文に止まった。
内側から黒く変色。
指先が依頼書の下をそっと掴んだ。
トリカが隣へ寄ってきた。
「それ?」
アヴィスは少し黙ってから、小さく言った。
「これ……やりたいです」
カルゼンは理由を尋ねなかった。
彼は依頼書を読み、アヴィスを一度見た。それから紙を剥がした。
「いいだろう」
トリカもふざけなかった。ただアヴィスの手首をもう一度見て、黙ってついてきた。
受付係は依頼書を確認し、三人の登録証に目を通した。
「南部倉庫の変質調査ですね。危険等級は低いですが、原因不明のため注意が必要です。戦闘依頼ではありません」
彼はアヴィスの登録証で一瞬止まった。
「治癒可能者……C等級。同行条件は満たしています」
その言葉に、アヴィスは登録証を少し強く握った。
受付係は短い案内書を渡した。
「南部第三倉庫です。管理人にこれを見せてください」
—
南部倉庫へ向かう道は、ギルド前の通りより静かだった。
華やかな店の看板は少なくなり、その代わりに大きな倉庫と馬車の待機所が続いた。道端には木箱や天幕が積まれ、繋がれた荷獣の檻から低い鳴き声が聞こえた。
アヴィスはカルゼンとトリカのあいだを歩いた。
ラグノスはどこへ行っても大きかった。ギルド前では人の音が大きく、倉庫街に来ると物の音が大きかった。箱を引きずる音。鉄の輪がぶつかる音。荷を下ろす人々の掛け声。
南部第三倉庫は、高い煉瓦造りの建物だった。扉の前には短い髭を生やした人間の男が立っていた。三人が近づくと、彼は案内書を受け取って読んだ。
「ギルドからの方ですね」
彼の視線がカルゼンの槍、トリカの武器、そしてアヴィスへ順に向いた。アヴィスには少し長く留まったが、無礼なことは聞かなかった。
「中へどうぞ」
倉庫の中はひんやりしていた。
天井は高く、あちこちに大きな箱が並んでいた。薬草の匂いと革の匂い、乾いた木の匂いが混ざっていた。奥へ進むほど、金属の匂いが強くなった。
管理人は一角へ三人を案内した。
「最初は薬草の問題かと思いました。シルヴァエリンから入った薬草の束が、いくつか内側から変色していたんです。ところが、その横にあった革紐も黒く染まり始めました。食材の箱からも似たものが出ましてね」
トリカが眉をひそめた。
「臭いはあまりしないね」
「それが問題なんです。腐った臭いがするなら、まだ見分けやすいんですが」
管理人が箱をひとつ開けた。
表面上は問題のない薬草の束が入っていた。アヴィスはその前に立った。
四話で見た病んだ薬草と似ていた。いや、見た目にはもっとまともだった。葉は青く、束も整っている。
アヴィスは一歩近づいた。
胸の奥が沈むような感覚があった。
あのときとは少し違った。ただ長く持たなさそうな流れではない。何かが内側から静かに齧っているようだった。
「開いてもいいですか?」
アヴィスが尋ねた。
声は小さかったが、管理人はすぐにうなずいた。
アヴィスが薬草の束をひとつ指すと、管理人が紐を解いた。外側の葉に隠れていた内側の葉が、黒く死んでいた。青い葉のあいだに、黒い染みが刺さっているように見えた。
トリカの表情が固まった。
カルゼンは黙って見ていた。
「こっちもです」
アヴィスが別の束を指した。
その内側も同じだった。
管理人は低く悪態を飲み込んだ。
「ずっとこんな調子です。外からはまともに見えるのに、内側から駄目になっている」
アヴィスは薬草ではなく、箱の周囲を見た。
ベルカール産機械部品の箱。
誰が言ったわけでもないのに、視線は自然とそこへ向かった。厚い木箱で、角には金属の補強が打たれていた。蓋には、ベルカールの印だという角ばった紋様が押されていた。
管理人が言った。
「それはベルカールから来た部品です」
カルゼンが短く尋ねた。
「開けられるか」
管理人は少し迷ってから、うなずいた。
「すでに調査は依頼しています。くれぐれも慎重にお願いします」
箱が開かれた。
中には小さな金属部品が、布に包まれて入っていた。丸い歯車、薄い管、用途の分からない螺子や板。アヴィスにはどれも見慣れないものだった。
最初は何も感じなかった。
ただ、冷たい金属の匂いがした。
そのとき、箱の底に残っているものを見た。
黒い粉だった。
鉄粉のように見えた。とても細かく、乾いた埃のように木目のあいだへ入り込んでいる。ほかの人なら、ただの金属の削り屑だと思っただろう。
アヴィスは息を止めた。
指先が冷たくなった。倉庫の中はもともと涼しかったが、それとは違った。皮膚の外ではなく、体の内側が冷えていくような感覚だった。
リオンの手を握っていた、あの日の朝。
傷が消えた直後、ほんの一瞬だけ通り過ぎた悪寒。
殺気のようでもあり、腐った風のようでもあった感覚。
あまりにも早く消えて、掴み損ねたもの。
アヴィスはよろめくように一歩下がった。
トリカがすぐそばに来た。
「アヴィス?」
返事は出なかった。
リオンの手の甲が浮かんだ。笑いながら差し出された手ではなかった。寝台の上に置かれていた手。もう一度現れ、黒く腐っていた傷。朝にかすめた感覚が、その日の夕方、もっと深く、もっと冷たく戻ってきた瞬間。
アヴィスはあのとき、自分は何も見ていなかったのだと思っていた。
何も知らなかったのだと思っていた。
けれど、もしかすると。
見ていたのに、それが何なのか分からなかっただけなのかもしれない。
「……これです」
アヴィスが言った。
声は小さかった。
管理人が聞き返した。
「はい?」
アヴィスは黒い粉を見た。
「あのとき……リオンから……」
カルゼンの目つきが変わった。
トリカも息をのんだ。
「確かか」
カルゼンが尋ねた。
アヴィスは首を横に振った。
「分かりません。あのときは、すぐに消えてしまって……」
彼女は指先をぎゅっと握った。
「でも、似ています」
倉庫の中の空気が重くなった。
管理人は三人の顔を順に見た。
「リオンとは誰ですか?」
アヴィスは答えられなかった。
カルゼンが代わりに言った。
「俺たちの村で死んだ子どもだ」
管理人の顔から、少し色が失せた。
「死んだ、ですって?」
その言葉が倉庫の中で低く響いた。
アヴィスは黒い粉から目を離せなかった。
ただの鉄粉のように見える、小さな埃。
その小さなものが本当にリオンの死と繋がっているのかは、まだ分からなかった。何ひとつ確かではなかった。
それでも初めて、アヴィスはリオンの死へ向かって手を伸ばしたような気がした。
管理人は一歩後ずさった。
リオンの手の甲が、また浮かんだ。
今度は逃げたくなかった。
「これ……調べたいです」
アヴィスが言った。
カルゼンはしばらく彼女を見た。
その表情は相変わらず無愛想だった。ただ、昨日ギルドの前でそうだったように、アヴィスがなぜそんなことを言うのかは分かっている顔だった。
「そのために受けた依頼だ。学院側の研究所に依頼する」
カルゼンは小さなガラス瓶に黒い粉を入れた。少し考えてから、自分の懐へしまった。
トリカがアヴィスの肩に手を置いた。
「うん。一緒に調べよう」
アヴィスは小さくうなずいた。
箱の底の黒い粉は、何も言わなかった。
けれどその沈黙は、リオンが死んだ部屋の沈黙に少し似ていた。




