ラグノスのギルド、そして小鳥の証明
[947年、245日、夕方]
ラグノスの街には、まだ昼の熱が残っていた。日が傾いても人の数は減る気配がなく、馬車の車輪が石畳をこする音は、路地を回ってまた聞こえてきた。商隊と別れたあとも、アヴィスはしばらく青枝の印を見つめていた。
「今日は休む」
カルゼンが言った。
トリカが彼の横顔を見上げた。
「ギルドは?」
「明日行く。今行っても受付だけで終わる時間だ」
「じゃあ宿から?」
「ああ」
アヴィスは答えなかった。ギルドという言葉が少し遠ざかっただけなのに、不思議と息が少し楽になった。
カルゼンが取った宿は、ギルドからそう遠くない路地の中にあった。屋根の上に伸びる煙突が、ほかの建物よりもやけに白かった。夕日に照らされた煙突は、灰色の屋根のあいだに浮かぶ小さな印のようだった。
看板には短く書かれていた。
白い煙突。
「名前はかわいいね」
トリカが言った。
「ギルドに近い」
カルゼンはそれだけ言って扉を開けた。
中は思っていたより温かかった。下の階は食堂を兼ねていて、遅い時間なのに客が残っていた。武器を壁に立てかけた者、旅鞄を足元に置いた者、ギルド職員らしい灰色の服を着た者たち。酒の匂いもあったが、焼きたてのパンと肉のスープの匂いのほうが先に感じられた。
宿の主人は三人を見回し、鍵を取り出した。
「一部屋ですか?」
「寝台は二つ!~~」
トリカが尻尾をぱたぱたさせながら言った。どういうつもりなのだろう。
「寝台は三つ」
カルゼンが言った。
「何日泊まるかは分からない」
「ギルド登録者には長期滞在割引があります」
「明日登録する」
「では今日は通常料金です」
トリカが小さくつぶやいた。
「大きな街って、息をするだけでもお金を取りそう」
宿の主人は聞こえないふりをした。
部屋は三階だった。階段は狭く、上るたびに古い木が低くきしんだ。部屋の中には寝台が三つと小さな机、窓がひとつあった。広くはなかったが、清潔だった。窓の外には路地と向かいの屋根が見え、少し遠くにはギルドの建物の上部もぼんやり見えた。
アヴィスは鞄を下ろした。
青枝商隊の印が中で小さく揺れた。取り出そうとして、やめた。まだ鞄の中にしまっておくほうがよかった。
「まず体を洗って寝ろ。明日はギルドに行く」
カルゼンが言った。
トリカが寝台の上にどさりと倒れ込んだ。
「もう寝るの? ラグノス初日なのに?」
「寝ろ」
「窓の外だけ少し見ちゃだめ? アヴィスも見たいよね?」
アヴィスは答える前にトリカを見た。トリカの尻尾が、寝台の上で期待に満ちて揺れていた。
「少しなら……」
「ほら~」
トリカはすぐに起き上がり、窓を開けた。
夜気が流れ込んできた。埃、焼けるパン、油を含んだ革、人の匂い。そのあいだに、どこからか花の香りのようなものも、ほんのかすかに混じっていた。
アヴィスは窓辺に近づいた。
路地の下を人々が通っていった。誰かは笑っていて、誰かは紙を抱えたまま急いで歩いていた。向かいの建物の窓には、黄色い明かりが灯っていた。シルヴァエリンでは、夜になると闇が自然に降りてきた。ラグノスでは、人々が闇を押し返しているように見えた。
「あっちがギルドかな?」
トリカが顎で示した。
遠くに見える高い建物の影。昼に通り過ぎたあの場所だった。明日、また行く場所。
アヴィスはしばらくそちらを見ていた。
下の階から、またパンの匂いが上がってきた。トリカの耳がぴんと立った。
「いい匂い」
カルゼンがすぐに言った。
「下りない」
「まだ何も言ってないのに?」
「言おうとしていただろう」
トリカは唇を尖らせた。
そのあとも、トリカはなかなか寝なかった。寝台の位置が気に入らないと言ったり、アヴィスの隣のほうが安全だと言ったり、窓の外から聞こえる歌が気になると言ったりした。カルゼンが三度目に「寝ろ」と言ったころになって、ようやくトリカは大人しく布団を引き上げた。
眠ったあとも、しばらく尻尾の先が布団の外へ出て揺れていた。アヴィスのいる方向へ。
そのせいで、アヴィスは遅くまで眠れなかった。
ラグノスの音は、夜が深くなっても消えなかった。
—
[947年、246日、正午]
アヴィスが目を覚ましたとき、部屋の中はもう明るかった。どうしてか、寝つくのが遅くなってしまった。
窓の隙間から差し込む陽射しが床を長く切り、下の階からは食器のぶつかる音と、人々が行き交う足音が聞こえていた。
アヴィスはしばらく目だけを瞬かせた。
トリカの寝台が空だった。
カルゼンの寝台も空だった。
一瞬、胸がどきりと沈んだ。すぐに、机の上に置かれた皿が見えた。パンが二切れと水が一杯、その横に紙が一枚置いてあった。
アヴィスは寝台から下り、紙を手に取った。
『先にギルドで登録してくるね~
ご飯食べて待ってて』
『外に出るな』
最後の一行だけ、やけに力が入っていた。誰が書いたのかは、見れば分かった。
アヴィスはその紙をしばらく見つめ、それから小さく息を吐いた。
それを確認してから、ようやくパンの匂いを感じた。冷めたパンだったが、小鳥の餌のように少しずつちぎって食べた。窓の外には宿の前の道が見えた。武器を背負った人、紙を持って走る人、荷物を運ぶ人、どこかへ向かう馬車。
みんな、行く場所があるように見えた。
アヴィスはパンを手に持ったまま、しばらく窓の外を眺めていた。
ほどなく、階段を上がってくる足音が聞こえた。扉が開く前に、トリカの声が先に入ってきた。
「アヴィス! 起きてる?」
扉が大きく開いた。
トリカが先に入り、その後ろからカルゼンが続いた。トリカは明らかに浮かれていた。尻尾もいつもより速く揺れている。
「お姉さん、B等級もらったよ~」
トリカが胸を張った。
アヴィスは目を瞬かせた。
「B……等級ですか?」
「うん。ラグノスのギルド等級。D、C、B、A、Sの順番で、Bならけっこういいんだよ」
トリカは話しながら、カルゼンのほうをちらりと見た。
「カルゼンはAだって。つまんないくらいに」
カルゼンは特に反応もせず、窓辺のほうへ歩いていった。
「Aは……高いんですか?」
「高いよ。あの性格にぴったりなくらい、つまんないほど」
「不満があるのか」
「ありません」
トリカはすぐに答えて笑った。
カルゼンが言った。
「飯を食ったなら準備しろ。お前もギルドへ行く」
アヴィスはパンを置いた。
「私もですか?」
「ギルド登録証はラグノスでは身分証の役割もする。宿に長く泊まるにしても、依頼に同行するにしても、学院に近づくにしても、持っていたほうがいい」
アヴィスは学院という言葉に顔を上げた。魔法を研究していると言っていた、あの場所だろうか。
トリカがアヴィスの頭を軽く撫でた。
「心配しないで。お姉さんが一緒に行くから」
アヴィスは小さくうなずいた。
—
ギルドへ行く前に、カルゼンは武器屋へ寄ると言った。
白い煙突の宿から少し離れた路地にあった。看板には鎚と槍先が刻まれている。扉を開けると、油を含んだ革の匂いと金属の匂いが先にした。
壁には槍、剣、斧、短い刃物がずらりと掛けられていた。アヴィスはこれほど多くの武器が集まった場所を初めて見た。
カルゼンはまっすぐ槍の並ぶほうへ行った。店主は彼を見ると、少し眉を上げた。
「使い慣れたものをお探しで? それとも新しいものを?」
「新しいものだ」
カルゼンはいくつか手に取り、重さを確かめ、柄を軽く振った。動きは大きくなかったが、槍先が通ったあとには、空気が裂けるような音が残った。
トリカは短剣と手斧の並ぶ棚の前で悩んでいた。
「これはきれいだけど握りが微妙で、これは手には合うけどちょっと無骨で……」
「武器は飾りではない」
カルゼンが言った。
「分かってるよ。でも、きれいなほうがいいじゃない」
トリカが言い返した。
アヴィスはふたりから少し離れて立っていた。自分と武器は、まるで関係のないもののように感じられた。持てる気もしなかったし、使う場面が来ることも想像しづらかった。
そのとき、カルゼンが小さな短剣をひとつ取った。
鞘は黒い革でできていて、握りはアヴィスの手にも収まるほど小さかった。装飾はほとんどない。
カルゼンはそれをアヴィスへ差し出した。
「受け取れ」
アヴィスは戸惑って彼を見上げた。
「私が、ですか?」
「護身用だ」
「私は……」
「使わないのが一番いい」
カルゼンは短剣をアヴィスの手に握らせた。
思っていたより重かった。小さいけれど、確かな重さがあった。
「お前が退いてはいけないときのために、持っていろ」
アヴィスは短剣を見下ろした。
退いてはいけないとき。
その言葉が何を意味するのか、すぐには分からなかった。それでも、短剣を返すことはしなかった。
トリカは隣で少し心配そうな顔をしていた。
「アヴィスに刃物って、大丈夫?」
「なくて困る瞬間が来るよりはいい」
カルゼンは会計を済ませた。トリカは変わった武器を買った。指にかけて使う形の小さな刃だ。きれいで珍しいから買ったらしい。
アヴィスは短剣をローブの内側へそっと入れた。体に触れる鞘の感触が、ひどく慣れなかった。
—
ラグノスのギルドは、前日に見たときより大きく感じられた。
高い石造りの建物の扉は大きく開かれ、中ではざわめきが絶えなかった。依頼掲示板の前には人が集まり、受付ごとに列ができていた。
アヴィスはカルゼンとトリカのあいだを歩いた。
受付係はカルゼンとトリカの記録を確認すると、うなずいた。
「ティグ・カルゼン、A等級。レン・トリカ、B等級。確認しました」
その後、視線がアヴィスへ向いた。
「この子も登録ですか?」
「そうだ」
カルゼンが答えた。
受付係は新しい書類を取り出した。
「名前は?」
「……アヴィスです」
「姓は?」
アヴィスは少し止まった。
「ありません」
受付係のペンが一瞬止まり、また動いた。
「年齢は?」
「……分かりません」
「出身地は?」
答えは出てこなかった。
受付係は困った顔になった。無礼な表情ではなかった。ただ、空欄があまりにも多かった。
「特技はありますか? 戦闘、偵察、採集、記録、運搬、治癒、魔法補助……どれでも構いません」
アヴィスは唇を少し開き、また閉じた。
カルゼンもすぐには言わなかった。トリカの尻尾が不安げに揺れた。
受付係は三人の顔を順に見た。
「確認できる能力がない場合、D等級の非戦闘補助としての登録になります。受けられる任務も、C以上は不可です」
カルゼンとトリカはすでに等級を得ていた。自分だけが置いていかれるのではないか。学院へ行く道も遠くなってしまうのではないか。
アヴィスはローブの内側の短剣を思い出した。
お前が退いてはいけないとき。
カルゼンの言葉が頭に残っていた。
カルゼンが言っていたのは、たぶんこういう意味ではなかった。もちろん違うはずだった。
自分の体なら。
自分の血なら。
少なくとも、ほかの人は死なない。
アヴィスの手がローブの内側へ入った。
カルゼンが先に気づいた。
「アヴィス」
低い声だった。
アヴィスは彼を見た。
小さな顔は青ざめていた。怖くないわけではなかった。指先は震え、息は喉の奥で詰まっていた。
それでも、瞳だけは不思議なほど揺れていなかった。
トリカが一歩動いた。
「アヴィス?」
銀色の刃が鞘から抜けた。
受付係の言葉が途切れた。
誰かが息をのんだ。
アヴィスは左手首を見下ろした。白く細い手首だった。その上に、短剣の冷たい感触が触れた。
痛みを想像する時間は短かった。
すっ。
赤い線が生まれた。
血は少し遅れて浮かんできた。最初は細い糸のように滲み、やがて手首を伝って流れた。アヴィスの息が揺れた。冷たさが先に来て、その次に熱が押し寄せた。
痛かった。
思っていたより、ずっと痛かった。
指先がしびれるように固まり、肩が縮こまった。涙がこみ上げそうになった。ここで泣いてはいけないと思った。泣いてしまえば、自分のしたことが、ただ怯えて取った行動のように見えてしまう気がした。
アヴィスは唇を噛み、震える息を飲み込んだ。
トリカがほとんど悲鳴のように名前を呼んだ。
「アヴィス!」
カルゼンは動かなかった。動けなかったようにも見えた。彼の視線は、アヴィスの手首と顔のあいだで固まっていた。
その瞬間、受付台の下の乾いた木床の隙間から、小さな草の葉が芽吹いた。
土も、水もない場所だった。
淡い葉が伸び、ほんの小さな白い花が咲いた。アヴィスは何の動作もしなかった。呪文もなかった。手を添えることさえしなかった。
血はもう流れなかった。
開いていた傷がゆっくりと閉じていった。赤い線は薄くなり、手首の上にはかすかな跡だけが残った。
先ほど流れた血だけが、その出来事が確かにあったことを示していた。
受付係はしばらく言葉を失っていた。
彼はアヴィスの手首と、散るように消えていく草の葉を交互に見た。
「治癒……」
言葉はそこで途切れた。
「あ、いや。治癒可能者なら……基本配属が……少し待ってください。これは……B……いや、使用方式だけを見ればA審査に上げるべきかも……」
受付係は書類の上にペン先を置いたまま止まった。
「身体能力の……確認が必要です。審査官を呼びます」
トリカはアヴィスの手首を掴んだ。
「あなた……!」
笑っていないトリカは、見慣れなかった。掴まれた手首に力が入って少し痛かった。アヴィスは小さく言った。
「……ごめんなさい」
トリカは答えられなかった。
カルゼンも何も言わなかった。
その沈黙のほうが、もっと怖かった。
—
ギルドの裏手には、小さな訓練場があった。
石壁に囲まれた裏庭に木剣と盾が置かれており、地面は硬い土で踏み固められていた。しばらくして、灰色のベストを着た審査官が出てきた。
彼はアヴィスを見るなり、受付係のほうを振り返った。
「この子が審査対象ですか?」
受付係はまだ整理しきれていない顔でうなずいた。
「身体能力の審査が必要です」
審査官は短く息を吐いた。
「基本確認だけ行います」
アヴィスは木剣を受け取った。
刃のない木剣だった。それでも両手で持たなければならなかった。手首が何度も下がってしまう。木剣なのに、持っているだけで重かった。
トリカは不安そうに、じっとしていられない様子だった。
「審査です。試合ではありません」
カルゼンは何も言わずに見ていた。表情は変わらなかった。
「防いでみてください。とてもゆっくり行きます」
審査官の木剣が近づいてきた。
避けろと教えてくれる速度だった。防ぐ時間を与えてくれる距離だった。アヴィスにはそれが見えていた。見えていたのに、体が動かなかった。
木剣が肩のあたりに軽く触れた。
こつ。
音は小さかった。
アヴィスの体は、そのまま後ろへ押された。審査官が驚いて木剣を引いたが、もう遅かった。アヴィスは二歩も踏ん張れず、地面に座り込んでいた。
「……あ……」
審査官が困ったように言った。
トリカが前へ飛び出そうとした。
カルゼンの手が、その前を遮った。
「そこまでだ」
その言葉がトリカに向けられたものなのか、審査官に向けられたものなのかは分からなかった。
アヴィスはもう一度立とうとした。木剣を握る手が震えていた。手首の傷は消えたのに、手はまだ痛かった。いや、痛いような気がした。泣きそうになるのをこらえた。
審査官が首を横に振った。
「十分です」
受付係は戸惑ったように書類を見下ろした。
「治癒可能者です。それも使用方式が特異です。B……いえ、A審査に上げることも……」
「身体能力がありません」
審査官が言った。
受付係は口を閉じた。
「木剣すらまともに持てません。最初の一合で倒れ、回避も不可能です。単独依頼は危険です」
「では……」
「C等級。分類は治癒可能者。単独戦闘依頼は禁止。後方支援を推奨」
受付係は少し迷ったが、結局書類にそう記した。
アヴィスは土のついた手で木剣を置いた。少しだけ、体の力が抜けた。
—
ギルドの外へ出たとき、ラグノスの午後は相変わらず騒がしかった。
アヴィスは登録証を両手で握っていた。
名前:アヴィス。
等級:C。
分類:治癒可能者。
制限:単独戦闘依頼不可。
文字は小さかったが、はっきりしていた。
トリカはまだ何も言わなかった。いつもならC等級だ何だとしばらく喋っていたはずなのに、今はアヴィスの手首ばかり見ていた。
カルゼンが足を止めた。
アヴィスも止まった。
「武器をああ使えと言って渡したわけではない」
低い声だった。
アヴィスは登録証をぎゅっと握った。
「……ごめんなさい」
「謝れと言っているわけではない」
カルゼンはしばらく黙っていた。
彼はアヴィスの手首を見た。今は傷ひとつ残っていなかったが、彼が見ているのは消えた傷だけではないようだった。
「お前がなぜそうしたのかは分かる」
アヴィスは深くうつむいた。
「逃げなかったことは、よくやった」
トリカが隣で息をのんだ。カルゼンがそんなふうに褒めることは珍しかった。
カルゼンは短く付け加えた。
「次は、自分の体のことも考えろ」
アヴィスはすぐには答えられなかった。
その言葉は、少し遅れて心に届いた。
トリカが結局、アヴィスを抱きしめた。強くではなかった。さっき手首を傷つけた子どもを扱うように、慎重だった。
「本当に、心臓が落ちるかと思った」
「ごめんなさい……」
「また謝ってる」
トリカの声は少し濡れていた。
アヴィスはその腕の中で目を閉じた。
ラグノスの音は相変わらず大きかった。人々の足音も、馬車の車輪も、商人たちの声も止まらなかった。
アヴィスは登録証を離さなかった。
一番高い等級ではなかった。
それでも初めて、自分の名前の隣に、できることが書かれた。
白い煙突の宿へ戻る道で、アヴィスはローブの内側に触れる鞘の感触を感じていた。
受け取ったときより、少しだけ重く感じた。
登録証は鞄の中に入れた。
青枝商隊の印の隣だった。




