中央都市の門、そして青枝の印
[947年、245日、午前]
商隊は早朝から再び動き出した。
夜のあいだ冷えていた空気が、馬車の車輪の下へ押し流されていった。濡れた草の葉が風に揺れ、荷獣たちの息が白く散った。
アヴィスは薬草の箱のそばに座っていた。
道は昨日よりも広くなっていた。森は少しずつ遠ざかり、その代わりに人の手が入った道が続いていた。馬車の通った跡。石を踏み固めた道筋。古い標識と、新しく立てられた案内板。
シルヴァエリンを出たばかりのころは、まだ森の匂いが残っていた。今は土埃と人の声のほうが近かった。
「アヴィス」
リネアが馬車の横へ近づいてきた。
胸には相変わらず帳面を抱えていた。夜遅くまで帳面を整理していたのか、目元が少し疲れて見えた。
「昨日の野営地に、変なリスが来たんだ」
リネアは帳面を抱えたまま言った。
アヴィスの肩が、ごく小さく強張った。
「リス、ですか?」
「うん。帳面の上に乗って、羽根ペンを押してくれたの。尻尾が少し光ってたような気もするし……私、疲れて見間違えたのかな?」
リネアは真剣に悩んでいる顔だった。
そのとき、トリカが馬車の横へゆったり近づいてきた。
「道の上では、いろんなことがあるからね」
「本当ですか?」
「うん。たまには、しょんぼりした子のところにだけ行くリスもいるよ」
リネアは驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。
アヴィスはトリカをちらりと見た。トリカは知らないふりをして笑っていた。
リネアは少し考えてから、アヴィスを見た。何かに気づいたようでもあり、そうでないようでもあった。
「じゃあ、いいリスだったんだね」
リネアが言った。
アヴィスはとても小さくうなずいた。
「……そうだと思います」
その答えを聞いて、トリカの尻尾がもう一度揺れた。
—
道の上には、ほかの馬車が増えていった。
ラグノスへ向かう商隊が、ひとつ、またひとつと同じ道へ合流していた。荷の上にはそれぞれ違う印が掲げられ、人々の服装もさまざまだった。
ある馬車には金属の箱が積まれていて、別の馬車には強い香りのする木桶が縛られていた。
アヴィスには、そのすべてが見慣れなかった。
「ラグノスが近づいたってことだよ」
リネアが隣で言った。
「大きな都市の近くは、いつもこうなの。行く人も多いし、出てくる人も多い」
「全部……ラグノスへ行くんですか?」
「ほとんどはね。物を売りに行ったり、仕事を探しに行ったり、ギルドに登録しに行ったり」
リネアは指を一本ずつ折りながら言った。
「あ、それから、たまにただ見物に行く人もいるよ。初めて見ると、みんな口を開けたままになるから」
トリカがすぐに割り込んだ。
「私はそうならないけど?」
リネアが笑った。
「たぶん、一番大きく開けると思います」
「私が?」
「はい」
トリカはしばらくリネアを見て、それから楽しそうに笑った。
「リネア、だんだん口が回るようになってきたね?」
「トリカ様がずっと話しかけてくるからです」
「いい傾向だね」
アヴィスはふたりの会話を静かに聞いていた。
リネアはトリカともすぐに近づき、商隊の人たちとも自然に話していた。見知らぬ人たちの中で言葉を失ってしまう自分とは違っていた。
そのとき、馬車の後ろから荷運びのひとりが近づいてきた。
「アヴィスって言ったよな?」
アヴィスは顔を上げた。
「昨日、薬草を選り分けた子だろ? おかげで商隊長の小言が減ったよ」
彼は笑いながら言った。
アヴィスはどう答えればいいのか分からず、少しだけ唇を動かした。
「……ただ、変だったので」
「その変だって思うのが一番大事なんだよ。道の上では、変なものに先に気づくやつが長生きする」
荷運びは冗談めかして言ったが、声は軽くなかった。
別の御者も横から言った。
「それにしても、思ったよりずいぶん小さいな。馬車が揺れてつらくないか?」
アヴィスは肩を少しすくめた。
「……大丈夫です」
「本当に?」
「少し……大丈夫です」
御者が豪快に笑った。
「少し大丈夫ってのは、あまり大丈夫じゃないって意味だな」
リネアが横から口を挟んだ。
「だから言ったじゃないですか。後ろの馬車は揺れすぎるって」
「お前だって初めて乗ったとき、泣きそうになってただろ」
「その話はしないでって言ったのに」
商隊の人々が小さく笑った。
アヴィスはその笑いの中に、静かに座っていた。ただの通りすがりの言葉と冗談だった。
「いくつなんだ?」
御者が軽く尋ねた。
アヴィスの息が止まった。
その答えを知らなかった。名前も、過去も知らない自分が、年齢を知っているはずがなかった。
唇が少し開き、また閉じた。
リネアがその変化に気づいたように、アヴィスを見た。
そのとき、前方からカルゼンの声が聞こえた。
「答えづらいこともある」
低く、静かな声だった。
周囲の笑い声が一瞬だけ弱まった。
質問した御者がすぐに手を振った。
「ああ、悪い。何となく聞いただけだったんだ」
アヴィスはうつむいた。
カルゼンはそれ以上何も言わなかった。また前を見て歩いただけだった。
トリカが空気をほぐすように言った。
「うちのアヴィスは小さくても、ちゃんと食べればすぐ大きくなるよ」
「……そういう問題じゃないです」
アヴィスが小さく言った。
リネアは笑いをこらえられなかった。
御者も肩をすくめた。
「そうだな、たくさん食べなさい。ただし、ラグノスの食べ物は高いぞ」
さっきの気まずさは、そうして少しずつほどけていった。
アヴィスは前方のカルゼンをもう一度見た。
カルゼンは相変わらず静かだった。御者の質問が止まったのは、彼が口を開いたあとだった。
—
[947年、245日、午後]
道がさらに広くなった。
馬車は列を組み、ゆっくり進んでいた。前にも後ろにも別の商隊が続き、道端にはラグノスへ向かう印が細かく立てられていた。
最初は低い石垣のように見えたものが、時間が経つほどに大きくなっていった。
城壁だった。
アヴィスは息を止めた。
話に聞いていた都市が、目の前にあった。
シルヴァエリンの建物は森に溶け込んでいた。ラグノスは違った。高い城壁が長く続き、その上では旗が風に翻っていた。城門の前には馬車と人の列が長く伸びている。
人間。エルフ。獣人。見たことのない服を着た人たち。大きな荷物を背負った旅人と、ローブをまとった魔法使いたち。
音が多かった。
車輪の音。荷獣の鳴き声。検問官の叫び。商人たちが書類を確かめる音。
アヴィスは思わず、薬草の箱の角を掴んだ。
「あれがラグノスだよ」
リネアが言った。その声も少し弾んでいた。
「大きいでしょう?」
アヴィスはうなずいた。
大きい。
その言葉だけでは足りなかった。
村も、シルヴァエリンも、この城壁の前ではあまりにも小さく感じられた。
商隊は城門前の列に並んだ。
検問は思ったより早く進んでいた。検問官たちは名簿を確認し、荷の目録を眺め、時には箱を開けて中を見た。
やがて、アヴィスの乗る商隊の番が来た。
商隊長が前へ出て、名簿を渡した。
検問官は無造作な手つきで紙をめくった。
「シルヴァエリン、青枝商隊。ラグノス行き」
羽根ペンの先が下へ降りた。
「護衛、ティグ・カルゼン」
検問官は名前を確認してからカルゼンを一度見たが、それ以上は問わなかった。
「護衛、レン・トリカ」
「はーい」
トリカが軽く手を上げた。
検問官の視線が最後の行で止まった。
「薬草補助、アヴィス」
アヴィスの肩が少し強張った。
「姓は?」
「……ありません」
検問官が顔を上げた。
「保護者は?」
商隊長がすぐに言った。
「シルヴァエリンで一時的に合流した子です。薬草の状態を見るのに役立ちます」
検問官はアヴィスを一度見て、またカルゼンを見た。
「最近は子どもを商品みたいに積んで歩く連中もいるからな。手続きだ」
アヴィスは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。
カルゼンが短く言った。
「俺の保護下にある」
「関係は?」
わずかな沈黙。
「保護者だ」
トリカがすぐに付け加えた。
「無理やり連れてこられた子じゃないよ。私たちと一緒に来た子」
検問官は今度はアヴィスを見た。
「そうなのか?」
視線が集まった。
アヴィスは少し固まってから、小さくうなずいた。
「……はい」
検問官はそれ以上聞かなかった。
名簿に短く何かを書きつけた。
「保護責任者、ティグ・カルゼン。臨時補助、アヴィス」
羽根ペンが止まった。
「入れ」
その言葉とともに、城門が近づいた。
馬車がゆっくり動いた。
大きな門の下を通るとき、アヴィスは空が一瞬ふさがるような気がした。城壁の影が馬車の上に落ち、すぐに過ぎていった。
ラグノスの音が、一度に押し寄せてきた。
—
城門の内側は、外よりさらに複雑だった。
広い道の両側に建物が続き、馬車はそれぞれ違う方向へ分かれていった。商人たちは声を張り、人々は忙しなく通り過ぎていく。
アヴィスはどこを見ればいいのか分からなかった。
道の先には、高い塔のようなものがかすかに見えた。それが魔法学院なのかは分からなかった。
カルゼンが言った。
「離れるな」
トリカも、今回はふざけなかった。
「アヴィス、私の隣にいて」
アヴィスは小さくうなずいた。
商隊はもう少し内側へ進み、分かれ道の前で止まった。
商隊長がカルゼンに言った。
「私たちは北門側の商会へ向かいます。同行はここまでにしましょう」
カルゼンはうなずいた。
「世話になった」
「こちらこそ」
商隊長は短く挨拶し、荷運びたちへ手を振った。
馬車が一台ずつ向きを変えはじめた。
リネアはそのときになって、アヴィスのほうへ駆けてきた。
「ここでお別れみたい」
その言葉は軽かった。
アヴィスはすぐに答えられなかった。
リネアと一緒にいた時間は長くなかった。せいぜい一日と少し。一日と少しなら、長く覚えているほどの時間ではないはずだった。
それでも、その言葉は胸の片隅を刺した。
リネアはしばらくアヴィスを見てから笑った。
「ラグノスにいれば、また会えるよ。うちの商隊はよく来るから」
「……本当ですか?」
アヴィスの声は思ったより早く出た。少し詰まった声だった。
リネアは目を丸くし、それからぱっと笑った。
「うん。本当」
彼女は懐を探り、小さな木の印をひとつ取り出した。木の枝の形が刻まれた商隊の印だった。
「もし北門のほうで迷ったら、緑の屋根の商会を探して。これを見せれば、うちの商隊の関係者だって分かると思う」
アヴィスは両手でその印を受け取った。
小さく、軽かった。アヴィスはしばらくそれを手放せなかった。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは私のほうだよ。薬草も見てくれたし」
リネアは少し迷ってから、声を低くした。
「それに、昨日のあのリスも」
アヴィスが固まった。
リネアはいたずらっぽく笑った。
「似た子に、また会えるといいな」
トリカが横で小さく笑った。
アヴィスはうつむいた。
「……はい」
そして、とても小さく付け加えた。
「また……会えるといいです」
リネアは少し止まった。
その言葉が思ったより意外だったらしい。
やがて、笑いながら手を振った。
「じゃあ、またね、アヴィス」
馬車のほうから誰かがリネアを呼んだ。
「リネア! 早く来い!」
「行きます!」
リネアは帳面を抱えて走っていった。数歩進んでから、もう一度振り返って手を振った。
アヴィスも、とても小さく手を上げた。
リネアは人々のあいだに消えていった。
商隊の馬車がゆっくり遠ざかっていく。青枝の印を掲げた最後の馬車も、路地の向こうへ消えていった。
アヴィスは手の中の小さな木の印を見下ろした。
トリカが隣で言った。
「友だち、できたね」
アヴィスはすぐに答えられなかった。
友だちという言葉は、なじみがなかった。嫌ではなかった。
カルゼンが短く言った。
「行くぞ」
アヴィスは顔を上げた。
「まず宿だ。ギルドは明日」
ラグノスの音が、また押し寄せてきた。
あまりにも大きく、あまりにも見知らぬ都市だった。
アヴィスはリネアの消えた方向を一度振り返り、それから前を向いた。
手の中には、青枝商隊の印が残っていた。




