道の上に生きる人々、そして幼い商人の話
[947年、244日、午前]
がたん、がたん。
馬車の車輪がゆっくりと転がっていった。
シルヴァエリンは、もう後ろへ遠ざかっていた。木々のあいだにかかっていた橋も、風に揺れていた飾りも、今は見えない。
道は少しずつ広くなり、密に並んでいた木々も、だんだん少なくなっていった。
アヴィスは馬車の後ろに座っていた。揺れる馬車は少しつらい。ひとりで座っているのも、どこか落ち着かなかった。
周囲には、シルヴァエリンから積んできた薬草の箱が並んでいた。箱の隙間から、かすかな草の香りが流れてくる。
知らない匂いではなかった。けれど、心は落ち着かなかった。
商隊の人々は忙しく動いていた。馬車の前方では商隊長が荷の目録を確認し、荷運びたちは短く言葉を交わしていた。
トリカはもう、誰かと笑いながら話していた。
カルゼンは少し前を歩いていた。商隊の護衛のひとりとして、道と周囲の森を交互に見ている。
アヴィスはその姿を静かに見つめた。
みんな、それぞれの居場所があるように見えた。商隊長も、荷運びたちも、トリカも、カルゼンも。
アヴィスは薬草の箱へ視線を落とした。
昨日、自分が選り分けた薬草。病んだ葉を見つけ、商隊長はそれを助かったと言った。今でもよく分からなかった。自分が本当に役に立ったのか、また何かを間違って触れてしまったのではないか。
「そこ、アヴィスで合ってる?」
幼く、聞き慣れない声がした。
アヴィスは顔を上げた。
馬車の横を歩いていたエルフの女の子が、こちらを見ていた。アヴィスより少し大きく見え、短く編んだ髪が歩みに合わせて揺れていた。
胸には小さな帳面を抱えている。
「私はリネア。この商隊の見習い」
アヴィスは少し迷ってから、小さく答えた。
「……こんにちは」
「昨日、薬草を選り分けてたの見たよ」
リネアの目がきらりと光った。
「本当に薬草の見方、知らないの?」
アヴィスは首を横に振った。
「……よく分かりません」
「じゃあ、どうして分かったの?」
難しい質問だった。
感じたと言えばいいのだろうか。流れが違ったと言えばいいのだろうか。
アヴィスが迷っていると、リネアは察したようにぎこちなく笑った。
「あ、言いづらいなら言わなくてもいいよ。私も商隊長にいつも叱られるんだ。分からないことを聞きすぎて」
そのとき、トリカがいつの間にか近づいていた。尻尾がぱたぱた揺れている。
「なになに、見習い?」
リネアが驚いて顔を上げた。
「え? あ、はい。リネアと申します」
「リネア~。名前もかわいいね」
トリカはにこにこしながら、リネアの頭を軽く撫でた。
リネアは慌てて帳面を抱きしめた。
「わ、私……仕事中なんですけど」
「うんうん、仕事してるのもかわいい」
アヴィスはその様子をじっと見ていた。
トリカの尻尾が、リネアのほうでゆらゆら揺れていた。少し前まで、自分のそばにあった尻尾だった。
アヴィスは視線を下げた。
怒ったわけではなかった。トリカがリネアをかわいがるのが嫌なわけでもなかった。ただ、胸の片隅が少し重くなった。
「アヴィス?」
トリカの声に、アヴィスは顔を上げた。
「どうしてそんな顔で見てるの?」
「なんでもないです」
「本当?」
「……はい」
トリカは目を細めると、少しだけ馬車へ上がった。そしてアヴィスの隣へ寄り、尻尾の先で腰をそっと巻いた。
「もしかして、妬いた?」
「違います」
答えが早すぎた。
リネアが小さく笑った。
トリカはさらに楽しそうな顔になった。尻尾が勢いよく揺れる。
「かわいい~」
「違います……」
アヴィスはうつむいた。
頬が少し熱かった。
馬車はそのまま進みつづけた。
道端には、見慣れない標識がときおり立っていた。木に刻まれた部族の紋様、石の上に描かれた通行の印、古い道案内板。
リネアは帳面を開きながら言った。
「あの標識から先は、別の獣人部族の領域なんだって。商隊長が気をつけるようにって言ってた」
トリカが肩をすくめた。
「大丈夫。カルゼンがいるから」
前を歩いていたカルゼンが、振り返らないまま言った。
「大丈夫という言葉を軽く使うな」
「聞こえてたか」
リネアが小さく笑った。
「カルゼンさんみたいな獣人の護衛がいると、本当に助かるんです。変に足止めされることも少なくなりますし」
アヴィスは前方のカルゼンを見た。
彼はいつも静かだった。道の上では、その静けさがかえって大きく感じられた。
アヴィスはまた薬草の箱へ視線を戻した。
自分には、まだよく分からない。何ができて、何をしてはいけないのか。
馬車は長いあいだ揺れつづけた。
商隊の人々の会話が、風に混じって聞こえてきた。
ベルカールの機械部品は今回も重い。セラフィン聖国の香草は傷がつかないように別に縛れ。アルカサルで見つかった遺物を見たことがある。
アヴィスは知らない名前を静かに聞いた。
森と村、そしてシルヴァエリンだけでも十分広いと思っていた。商隊の人々にとって、その名前たちは品物の産地であり、取引先であり、道の上で通り過ぎる話だった。
「ラグノスに行けば、もっと多いよ」
リネアが言った。
アヴィスは顔を上げた。
「今聞こえた名前たち。ラグノスには全部集まるの。北の品も、聖国の品も、砂漠の品も」
「全部……集まるんですか?」
「うん。だから、うるさくて、高くて、落ち着かなくて、面白いんだって」
リネアはまるで何度も行ったことがあるように言った。
アヴィスはそっと尋ねた。
「リネアは……行ったことがあるんですか?」
リネアの肩が、ほんの少しこわばった。
「……一度だけ」
声が少し低くなった。
「初めて行ったときは、大きすぎて迷子になりかけたの。商隊長にすごく叱られた」
彼女はまた笑った。
アヴィスは、その笑みが少し薄いことに気づいた。明るく見える人も、いつも明るいわけではないらしい。
—
[947年、244日、夕方]
商隊は日が傾くころ、道沿いの広い空き地で止まった。
馬車が円を描くように並び、荷獣たちには餌が与えられた。荷運びたちは手慣れた様子で焚き火を起こし、商隊の人々はそれぞれ慣れた場所を見つけて腰を下ろした。
アヴィスは薬草の箱の近くに静かに座っていた。
トリカはもう人々の輪の中に入っていた。
「それで、ラグノスって本当に建物が雲まで届くの?」
「そこまでではありませんよ」
リネアが笑って答えた。
「でも、初めて見るとすごく大きく感じます。城壁も高いですし、人も多いですから」
「おいしいものは?」
「それは……多いです」
「よし。合格」
トリカは満足そうにうなずいた。
アヴィスはその会話を聞いていた。
ラグノス。まだ見たことのない都市。自分の力について、答えがあるかもしれない場所。
そこに近づくほど、胸の片隅が息苦しくなった。答えを知れば楽になるのだろうか。それとも、もっと怖くなるのだろうか。
「アヴィス」
リネアが小さな器を持って近づいてきた。
「スープ、飲む? 商隊のご飯だからすごくおいしいってわけじゃないけど、温かいよ」
アヴィスは少し迷った。
「……ありがとうございます」
器を受け取ると、指先が温かくなった。
リネアはアヴィスの隣に、少し離れて座った。
「あなた、あまり話さないんだね」
「……はい」
「嫌なら話さなくてもいいよ。私も最初に商隊についてきたとき、ほとんど話せなかったから」
「リネアもですか?」
「うん。みんな大人で、みんな忙しくて、私だけ何をしたらいいのか分からなくて」
リネアは小枝で地面をそっと引っかいた。
「今でもよく叱られるけど」
アヴィスはリネアを見た。
リネアは笑っていたが、少し疲れているように見えた。
そのとき、商隊長が遠くからリネアを呼んだ。
「リネア! 帳面の整理は終わったか?」
リネアがびくりとした。
「あ、まだです!」
「日が沈む前に終わらせるよう言ったはずだが」
「はいぃ……」
リネアは肩を落として立ち上がった。少し前までトリカにかわいがられて笑っていた顔が、すぐにしょんぼりした。
アヴィスはその後ろ姿を見つめた。狭い肩が力なく下がっていた。
手伝えるだろうか。
何を。
帳面の整理は分からない。商隊の仕事も知らない。薬草だって、実はよく知っているわけではなかった。
アヴィスはスープの器を見下ろした。
そのとき、草むらで小さな音がした。
風に揺れたような、ほんの小さな音。
アヴィスの視線がそちらへ向いた。
自然と、思い浮かんだものがあった。
透明な光を帯び、自分のそばに現れていた小さな命。
アヴィスは息をのんだ。
治癒ではなかった。誰かの傷に触れるわけでもなかった。同じところから流れ出る力ではあった。
アヴィスの手が、器の縁をぎゅっと握った。
その力のせいで人が死んだと言われた。正確には、そう責められた。
アヴィスはまだ確信できなかった。本当に自分のせいではなかったのだろうか。自分の知らないところで、何かが間違っていたのではないだろうか。
草むらがまた小さく揺れた。
アヴィスは目を閉じ、そして開いた。
ほんの少しだけ。
誰にも見えないように。
草の葉のあいだから、小さな姿が生まれた。
光を帯びた半透明のリスが一匹。
アヴィスは息を止めた。
リスはその場でしばらく尻尾を揺らし、それから草むらに沿って静かに動きはじめた。焚き火のほうへは行かず、人々の真ん中へ飛び込むこともしなかった。
帳面を抱えて、しょんぼり座っているリネアのほうへ、ゆっくり近づいていった。
「……え?」
リネアが顔を上げた。
リスは小さな足で帳面の上に乗り、尻尾で紙をとんとんと叩いた。
リネアの目が丸くなった。
「なに……?」
リスは首をかしげると、リネアが落とした小さな羽根ペンを前足で押した。
リネアが笑い出した。
「あなた、どこから来たの?」
リスは答える代わりにリネアの手の甲へ乗り、それからまたぴょんと飛び降りた。
アヴィスは遠くからその様子を見ていた。
胸が早く打っていた。あのときと同じ力だった。今すぐ消したほうがいい気がした。
リネアは笑っていた。
少し前まで沈んでいた顔が、また明るくなっていた。
アヴィスはゆっくりと息を吐いた。
トリカがいつの間にか隣に来ていた。
「ふーん」
集中していたアヴィスは驚いて顔を向けた。
「あ、違います」
「私、まだ何も言ってないけど?」
トリカはにこにこしながら、アヴィスの隣にしゃがんだ。
「妬いてるのかと思ったら、気にかけてあげてたんだ?」
「違います……」
「何が違うの?」
アヴィスは答えられなかった。
トリカはそれ以上からかわなかった。ただ小さく笑って言った。
「大丈夫。誰にも分かってないみたい」
アヴィスはリネアのほうを見た。
リスは帳面の上を一周し、草むらへ駆けていった。そして葉のあいだで、静かにほどけるように消えた。
リネアはしばらくその方角を見つめ、小さくつぶやいた。
「不思議……」
アヴィスは何も言わなかった。
力を使った。
ほんの小さく、とても慎重に。
何も起こらなかった。だからといって、安心できるわけではなかった。まだ少し不安だった。
それでも、その瞬間リネアは笑った。
笑っていた子どもの顔が、一瞬だけ重なった。アヴィスは慌てて視線をそらした。
焚き火が小さく弾けた。
アヴィスはスープの器をもう一度持ち上げた。少し冷めていたが、さっきよりは味がした。
遠くでカルゼンがこちらを見ていた。
目が合った気がした。
アヴィスはその場で固まった。
カルゼンは何も言わなかった。ただ、また視線を戻し、暗い森のほうを見張った。
その夜。
商隊の人々の声は、少しずつ静まっていった。
リネアは帳面を終えたのか、少し軽くなった顔で荷物のそばに座っていた。
アヴィスは焚き火の近くに座り、膝を抱えた。
まだ怖かった。自分の力を信じられるわけではなかった。
それでも、さっきのリネアの笑い声は長く残った。アヴィスはその音が消えるまで、しばらく眠れない気がした。
空には星が出ていた。
商隊長は、明日の遅い午後にはラグノスの外れに着くだろうと言っていた。
アヴィスはその言葉を思い出しながら、静かに目を閉じた。
ラグノス。
答えがあるかもしれない都市が、一日ぶん近づいていた。




