シルヴァエリンの商隊、そしてラグノスへ向かう道
[947年、243日、朝]
シルヴァエリンの朝は静かだった。
窓の外から差し込む光は、森で見たものより少し澄んでいた。木の葉のあいだからこぼれた陽射しが、部屋の中へ薄く降り、遠くから水の流れる音が聞こえた。
アヴィスは長いあいだ目を開けていた。
目が覚めたのは、ずいぶん前だった。体を起こすことはできなかった。
見知らぬ天井。見知らぬ部屋。昨日とはまた違う朝。
村を出てから、まだ一日しか経っていないことが信じられなかった。
アヴィスはゆっくりと体を起こした。
寝台のそばには、昨日トリカが買ってきた小さな髪紐が置かれていた。木の葉の形をした飾りがついた髪紐だった。
受け取ると言った覚えはなかった。それでも、そこに置かれていた。
アヴィスはそれをしばらく見つめてから、そっと手に取った。
「アヴィス、起きた?」
扉の外からトリカの声が聞こえた。
返事をする前に、扉が少し開いた。トリカはもう出かける支度を終えていた。
尻尾はいつものようにゆったり揺れていて、昨日擦りむいた足にはまだ薄い布が巻かれていた。
アヴィスの視線がそちらへ向いた。
トリカはすぐに気づいたように足を持ち上げて見せた。
「平気だよ。ほら。もうほとんど痛くない」
「……ごめんなさい」
トリカの笑みが一瞬止まった。
「どうしてあなたが謝るの?」
アヴィスは答えられなかった。
昨日、自分が何もできなかった場面が浮かんだ。小さな傷だった。トリカは大丈夫だと言ったし、本当に大丈夫そうに見えた。
それでも、その傷の前で立ち止まったのは自分だった。
「アヴィス」
トリカが寝台のそばに腰を下ろした。
「私が怪我したのは、あなたのせいじゃない」
「……でも」
「それに、あなたが必ず治さなきゃいけないわけでもないし」
アヴィスは顔を上げた。
トリカはいつもより少し真面目な顔をしていた。悪戯っぽく笑ってはいたが、声は軽くなかった。
「できるからって、いつもやらなきゃいけないわけじゃないでしょ」
そう思っていた気がする。傷が見えれば体が先に動き、痛がる人を見ると通り過ぎられなかった。
今は、体が先に動いても、そのあとで止まってしまう。
「私は……」
アヴィスは言葉を見つけられなかった。
トリカは少し待ってから、アヴィスの手の中にある髪紐を指さした。
「それ、気に入った?」
アヴィスは手の中の髪紐を見下ろした。
「……きれいです」
「ならよかった」
トリカがぱっと笑った。
「今日はそれをつけて行こう。ラグノス行きの商隊を探すんだって。あんまり沈んだ顔をしてると、商隊長が怖がっちゃうかもしれないし」
「……私がですか?」
「うん。黙って立ってるだけでも、深刻そうに見えるから」
アヴィスは少し固まった。
トリカはすぐに付け加えた。
「悪いって意味じゃないよ。今はそう見えるってだけ」
アヴィスは小さな声で答えた。
「……気をつけます」
「そういうのは、頑張らなくていいの」
トリカは髪紐を受け取り、アヴィスの髪を丁寧に結んだ。
思っていたよりも、手つきは優しかった。アヴィスはじっと座ったまま、頬が少し熱くなるのを感じた。
「できた。かわいい」
アヴィスは少しうつむいた。
少し恥ずかしかった。それでも、髪紐についた小さな飾りは嫌ではなかった。
—
カルゼンは宿の下の階で待っていた。
簡単な食事は用意されていたが、アヴィスはあまり食べられなかった。トリカがパンを半分に割り、アヴィスの前へ押し出した。
「これくらいは食べて。途中で倒れたら、私がまた背負うことになるでしょ」
「……はい」
アヴィスはパンを少しかじった。
味はよく分からなかった。
カルゼンはそんなアヴィスを一度見てから、静かに言った。
「今日はラグノス行きの商隊を探す」
トリカがパンをくわえたまま顔を上げた。
「歩いて行くんじゃだめなの?」
「遠い。道も長いし、子どもを連れて移動するには危険だ」
カルゼンは続けた。
「ラグノスまでの道には、獣人の部族の領域を通る区間もある。大通りとはいえ、馬車が通れば必ず確認を受ける」
トリカがうなずいた。
「ああいうところは、私たちみたいな獣人がいるとずっと楽だよね。言葉が通じなくて揉めることも減るし」
「そうだ。商隊にとっても、獣人の護衛は悪くない条件になる」
カルゼンが言った。
「俺たちは護衛として加わる。そうすれば移動もしやすく、ラグノスへ入る手続きも楽になる」
アヴィスはパンを持つ手を少し下げた。
すべてが、自分から少し遠い話のように聞こえた。自分はまだ、守られる側だった。
「行くぞ」
カルゼンが席を立った。
—
シルヴァエリンの市場は、昨日とは少し違っていた。
朝の市場は、より慌ただしかった。店は品物を整え、荷運びたちは木箱や布で覆われた荷を馬車に積んでいた。
市場の奥へ入るほど、雰囲気が変わった。
小さな装飾品や食べ物の並ぶ通りは後ろへ退き、その代わりに大きな馬車と荷獣、商人たちの声が続いた。
ラグノス行き。
ベルカール行き。
いくつもの印を掲げた馬車が並んでいた。
アヴィスはそのあいだを慎重に歩いた。獣の息遣い、木の車輪がきしむ音、荷運びたちが互いを呼ぶ声が近くで行き交った。
馬の大きな体が、少し怖かった。
トリカは周囲を見回して、小さく感心した。
「わあ、ここはまた雰囲気が違うね」
カルゼンは黙って、ラグノス行きの印がついた馬車を探した。
ほどなくして、彼はひとつの商隊の前で足を止めた。
馬車が四台、横に並んでいた。後ろには草葉の模様が刻まれた木箱が積まれている。商隊を率いているらしいエルフの男が、荷の目録を確認していた。
カルゼンが前へ出た。
「ラグノスへ行くと聞いた」
エルフの男が顔を上げた。
「ええ。今日の午後に出発予定です」
「護衛は必要か」
エルフの男の視線がカルゼンの体格をなぞり、すぐにトリカへ向かった。
「獣人の護衛が二人なら、断る理由はありませんね。エルデル方面の道を通るのにも助かります。ただ……」
彼の視線がアヴィスで止まった。
アヴィスは思わずカルゼンの後ろへ少し下がった。
「子どもまで同行するのですか?」
声は丁寧だったが、意味ははっきりしていた。
道の上で、子どもは戦力ではない。守られる存在に近い。
アヴィスはうつむいた。
カルゼンが言った。
「この子の分は俺たちが責任を持つ」
「そうおっしゃる方は多いです」
商隊長は書類を畳んだ。
「道中の問題は、いつも予想の外から起こります。護衛を二人雇ったのに、同時に守る対象がひとり増えるとなると、こちらとしても計算が変わります」
間違ってはいなかった。
だからこそ、痛かった。
アヴィスはじっと立っていた。
トリカが片眉を上げた。
「私たちの値段、少し安くしてもいいけど?」
「金だけの問題ではありません。ほかの商隊でも、子どもの同行を歓迎はしないでしょう。道の上では、小さな変数でも負担になりますから」
商隊長は落ち着いていた。
そのとき、後ろのほうから荷運びのひとりが慌てた声を上げた。
「商隊長、この薬草の箱なんですが。状態が少しおかしいようです」
商隊長の表情が変わった。
「またか?」
彼はカルゼンとの話をいったん中断し、荷のほうへ向かった。
アヴィスも自然とそちらを見た。
木箱がひとつ開いていた。中にはエルデルの森で採れた薬草が、きちんと束ねて入っていた。
見た目には、特に変わったところはなかった。葉は青く、香りも大きく違っているようには思えない。
アヴィスはその箱の前で止まった。
おかしい。
色や匂いが特別違うわけではなかった。それでも、その箱の内側だけ流れが沈んでいた。水がよどんでいるように、あるいは息が浅くなっているように。
アヴィスはもう少し近づいた。
カルゼンが彼女を見た。
「アヴィス?」
アヴィスは答えなかった。
商隊長は薬草の束をひとつ取って調べた。
「表面は問題なさそうだが」
荷運びが困った顔で言った。
「病んでいます。選り分けないといけません。ラグノスまでのあいだに傷めば、大きな損になります。でも、どの束が悪いのか分からなくて」
「すべて分類し直す時間はない」
商隊長の声には焦りが混じっていた。
アヴィスは開いた箱の中を見た。
その中の片側。少し下に敷かれた束。
そこだけ、流れがやけに沈んでいた。
アヴィスは小さく口を開いた。
「……あっち」
商隊長と荷運びの視線が、同時にアヴィスへ向いた。
アヴィスはびくりとしたが、目はそらさなかった。
「……下のほうにあるもの。長く持たないと思います」
しばし沈黙が流れた。
商隊長はすぐには信じなかった。
「薬草を見分けられるのですか?」
アヴィスは首を横に振った。
「……いいえ」
「では、どうして分かるのです?」
アヴィスは答えられなかった。
ただ感じるのだと、言ってもいいのだろうか。
カルゼンが低く言った。
「確かめればいいのではないか」
商隊長はしばらくカルゼンを見てから、荷運びにうなずいた。
「出してみろ」
荷運びが、アヴィスの示したほうの薬草の束を取り出した。
最初は問題なく見えた。けれど紐を解くと、内側の葉が数枚、暗く変色していた。外側の葉に隠れて見えなかった部分だった。
商隊長の目が変わった。
「内側から駄目になっていたのか」
「このまま積んでいたら、隣の束まで傷んでいたでしょう」
アヴィスはうつむいた。
褒められるのを待っていたわけでも、大きく役に立とうとしたわけでもなかった。ただ、おかしいから言っただけだった。
商隊長はしばらくアヴィスを見つめた。
「ほかの箱も見られますか?」
アヴィスは迷った。
視線が集まった。
その視線は怖かった。
今度は誰かが痛がっているわけではない。誰かを治すわけでもない。今は、ただ感じたままにすればよかった。
アヴィスはごく小さくうなずいた。
箱がひとつずつ開けられていった。
アヴィスは近づいて見つめた。ときにはひと束を指さし、ときには何も言わなかった。
確かなことは多くなかった。
流れがひどく沈んでいるもの。乾くのが早すぎるもの。表面はみずみずしいのに、内側が空っぽのようなもの。
そういうものだけを選んだ。
荷運びたちが確かめるたび、アヴィスの言葉は大きく外れてはいなかった。
トリカは後ろで目を丸くしていた。
「アヴィス、こんなこともできたの?」
アヴィスは首を横に振った。
「……分かりません」
本心だった。
商隊長は最後の箱を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「おかげで損失を減らせました」
その言葉は、すぐにはアヴィスに届かなかった。
損失を減らした。
不思議な気持ちだった。
商隊長はあらためてカルゼンを見た。
「条件を変えましょう」
カルゼンは黙って聞いていた。
「ラグノスまで同行してください。護衛の報酬は下げません。その代わり、この子には薬草の状態をときどき見てもらいたい」
アヴィスは驚いて顔を上げた。
カルゼンが尋ねた。
「いいのか」
アヴィスは少し唇を押さえた。
さっき自分が言ったことが、誰かに必要とされた。とても小さなことだった。それでも、その小さなものが胸の内側に残った。
「……はい」
アヴィスは小さく答えた。
「やってみます」
トリカが明るく笑い、アヴィスの頭を撫でた。
「よし! うちのアヴィス、商隊に採用されちゃったね」
「静かにしてください……」
アヴィスが小さく言った。
声はまだ小さかったが、少しだけ震えが少なかった。
—
[947年、243日、午後]
出発の準備はすぐに進んだ。
薬草の箱は整理し直され、商隊の荷運びたちは忙しく動いていた。カルゼンは護衛の位置を確認し、トリカはもう馬車のそばで商隊の人たちと話していた。
アヴィスは馬車の後ろに静かに座った。
箱のあいだから、かすかな草の香りがした。
まだ怖かった。
自分の力が何なのか分からないことは変わらなかった。治すことが怖いのも、そのままだった。
それでも、さっきの感覚はまだ残っていた。
馬車の車輪がゆっくりと回りはじめた。
シルヴァエリンの木造の建物が、少しずつ遠ざかっていった。木々のあいだにかかった橋も、風に揺れていた飾りも、後ろへ押し流されていく。
トリカが馬車の横を歩きながら手を振った。
「ラグノスへ出発!」
カルゼンは前のほうで黙って道を見ていた。
アヴィスは遠ざかるシルヴァエリンを見つめ、それから前を向いた。
ラグノス。
答えがあるかもしれない都市。
アヴィスは静かに息を吸い込んだ。
風は少し冷たかった。草の香りが混じっていた。エルデルの草の匂いが、少し恋しくなる気がした。




