シルヴァエリン、そして進むべき道
[947年、242日、夜明け前]
森はまだ暗かった。
村を出てから、三人はしばらく何も言わなかった。足元で草が擦れ、遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
アヴィスはカルゼンの後ろをついて歩いた。
いつもなら、トリカが先に話しかけてきたはずだった。昨日の食事がどうだったとか、シルヴァエリンに着いたら何を見ようとか、そんな何気ない話を並べていたはずだった。
今はトリカも、ときおりアヴィスを振り返るだけで、なかなか口を開かなかった。
アヴィスは振り返らなかった。
振り返れば、まだ村が見える気がした。自分を見ていた視線が、森道をたどってそのままついてくるような気がした。
唇を固く結んだまま歩いた。
カルゼンは前で道を確かめていた。森道は平らではなかった。深い根が足首を引っかけ、湿った土は小さな足を何度も捕まえた。
いつもなら、すぐに疲れていた距離だった。それでもアヴィスは、つらいとは言わなかった。声に出せば、先に涙がこぼれそうだった。
「少し休む」
カルゼンが低く言った。
小さな空き地だった。木の葉のあいだから、細い朝日が差し込んでいた。
トリカはわざと明るい声を出した。
「よし、休も。私も足が痛かったんだよね」
そう言って、大きな木の根にどさりと腰を下ろした。
アヴィスは少し離れたところに立っていた。座っていいのか、そのまま立っているべきなのか、少し迷った。
「アヴィス、こっちおいで」
トリカが手招きし、尻尾をふわりと揺らした。
アヴィスはそっと近づいて座った。
何も言わない時間が流れた。その沈黙に耐えかねたのか、トリカが勢いよく立ち上がった。
「よし。落ち込んでるときは体を動かすのが一番」
「トリカ」
カルゼンが咎めるように呼んだが、トリカは聞こえないふりをした。
「アヴィス、あれ見て。あの木の実、シルヴァエリンのほうだとけっこう高く売れるんだよ。味は微妙だけど」
トリカは近くの木を指さし、数歩駆け出した。
短い音がした。
「あ」
トリカの足が滑った。木の枝に擦れた足から、細い血がにじんでいた。
大きな傷ではなかった。少しひりつく程度の傷だった。
アヴィスの体が先に反応した。
トリカのほうへ動いて、すぐに止まった。
視線は傷に固定されていた。
赤い血。裂けた皮膚。少し顔をしかめたトリカ。
治せた。
たぶん。
そう思った瞬間、別の光景が重なった。床に横たわっていたリオン。動かなくなった体。腐り崩れた傷。自分へ向けられていた視線。
アヴィスはそれ以上近づけなかった。
トリカが先に笑った。アヴィスの反応に気づいたように。
「大丈夫、大丈夫。これくらい唾つけとけば治るって」
わざと大げさな声だった。
カルゼンが近づき、傷を確かめた。懐から布を取り出し、簡単に巻いた。
アヴィスはその様子を見ているだけだった。
何もしなかった。何もできなかった。
トリカは布を巻いた足を揺らして笑った。
「ほら。平気でしょ?」
アヴィスはようやくうなずいた。目の前が少しにじんでいた。泣きたかったのか、もう泣いていたのか、自分でも分からなかった。
また歩きはじめたとき、トリカはいつもより少しゆっくり歩いた。アヴィスに合わせたのか、怪我をした足のせいなのかは分からなかった。
[947年、242日、午前]
森は少しずつ明るくなっていった。
木々はまばらになり、風の匂いも変わった。湿った深い森の匂いの代わりに、澄んだ軽い香りが混じりはじめた。
遠くに町の輪郭が見えた。
シルヴァエリン。
アヴィスは歩みを遅くした。
一度来たことのある場所だった。カルゼンとトリカについてきて、服と鞄を買った町。
あのときは、ただ知らない場所だった。多くの人、高い建物、木々のあいだにかかった道。驚きはしたけれど、怖くはなかった。
今は、同じ町がまるで違って見えた。
「緊張しないで」
トリカが隣で言った。
アヴィスが顔を上げた。
「ここはティグの村じゃない。誰もあなたを知らないよ」
慰めだったのだろう。けれどアヴィスは、その言葉を聞いて、かえって少し小さくなった気がした。
楽になれる言葉でもあった。同時に、誰も信じてくれないという言葉のようにも聞こえた。
前を歩くカルゼンが言った。
「長く留まるつもりはない。少し休んで、必要なものを確かめるだけだ」
「はい」
アヴィスは短く答えた。
シルヴァエリンの入口には、エルフの衛兵が立っていた。カルゼンが前へ出て、短い確認が交わされた。
「ティグ族か」
「そうだ」
衛兵の視線がトリカへ、そしてアヴィスへ向いた。アヴィスは自然とうつむいた。
視線はすぐに通り過ぎた。
特に問いかけはなかった。
門が開いた。
シルヴァエリンの内側の空気は、森に似ていた。けれど森そのものではなかった。木々と建物がともに立ち、道は自然に曲がっていた。枝のあいだにかかった橋、半分ほど木に寄り添うように建てられた店。幹の中ほどに吊るされた建物の飾りが、風が吹くたびに細く揺れた。
前に来たときは、すべてが珍しかった。頭上に続く木の橋も、窓辺に吊るされた小さな硝子灯も、エルフたちが低い声で値段を尋ねたり答えたりする様子も。今回は、同じものが少し遠く見えた。
道行く人々は、三人を長く見つめなかった。獣人ふたりと小さな人間の子どもが通る姿は一瞬だけ目を引いたが、すぐにそれぞれの用事へ戻っていった。誰かは果物の箱を運び、誰かは店先の水桶に花枝を挿していた。ひとりの子どもがアヴィスを見て首をかしげたが、隣の大人に手を引かれると、すぐに別のほうを見た。
アヴィスには、その無関心が少し不思議だった。村では誰もが自分を知っていた。ありがとうと呼んでくれた。恐れて退いた。最後には避けるように見ていた。ここでは誰もアヴィスを知らない。その事実は、トリカが言ったように楽なことでもあり、何も残らないことのようでもあった。
トリカは少し安心したように肩を伸ばした。
「まずは泊まる場所を探そ。それから市場」
「お前はいつも市場のことばかり考えているな」
カルゼンが言った。
「食べて生きるのが一番大事でしょ」
トリカは堂々としていた。
三人はまず、小さな宿を探した。エルフが営む静かな宿だった。部屋は広くなかったが清潔で、窓の外には木の幹と細い水路が見えた。
アヴィスは部屋の片隅に座った。
鞄を下ろしてからも、しばらく動かなかった。
トリカは寝台にうつ伏せになり、長く息を吐いた。
「助かったぁ。足痛い」
カルゼンがトリカの足を見た。
「無理をするな」
「心配してくれてるの?」
「荷物になるなという意味だ」
「わあ、優しい」
トリカがぼやいた。部屋の空気が少し緩んだ。
アヴィスはふたりを見てから、視線を落とした。笑い声が聞こえても、その中に自分がいるようには思えなかった。
少し休んだあと、カルゼンが言った。
「必要なものを少し買ってくる。長くはかからない」
アヴィスは顔を上げた。
「私も……行きますか?」
「お前が望むなら」
部屋にひとり残るのも嫌だった。人の中へ出ていくのも怖かった。どちらかを選ぶなら、ふたりのそばにいるほうがよかった。
「……行きます」
市場は昼よりも少し賑わっていた。
騒がしいわけではなかった。エルフたちの声は低く柔らかく、店先に掛けられた飾りは風に合わせてゆっくり揺れていた。
トリカはすぐに元気を取り戻した。
「アヴィス、これ見て。髪紐だよ。あなたの髪なら、こういう色も似合うと思う」
アヴィスはトリカが差し出した飾りを見つめた。小さな木の葉の飾りがついた紐だった。
「……大丈夫です」
「大丈夫って、気に入ったって意味? それともいらないって意味?」
アヴィスは答えられなかった。
トリカが笑った。
「じゃあ、気に入ったってことにするね」
カルゼンは隣で必要なものを選んでいた。保存食、水袋、包帯、小さな外套。
アヴィスの視線は、その中の包帯で止まった。
白い布。
傷を巻くもの。
治さなくても、傷を手当てする方法。
包帯で済む傷なら、自分にもできたかもしれない。
「必要か」
カルゼンが尋ねた。
アヴィスは少し迷い、それから首を横に振った。
「……いいえ」
カルゼンはそれ以上聞かなかった。
市場をもう少し歩いたときだった。
前方で子どもたちが走り回っていた。そのうちのひとりが飾りを避けようとして足を滑らせた。
小さく転んだ。
膝が地面に当たり、子どもが泣き出した。
アヴィスの体が先に動いた。
一歩。
そして、ぴたりと止まった。
「……あ」
何もしていないのに、心臓が早く打っていた。
そのとき、近くにいたエルフが子どもへ近づいた。軽く膝をつき、指先に小さな光を集めた。
光は静かだった。
アヴィスの力のように周囲の草が揺れることも、花が咲くこともなかった。ただ、決められた道を流れるように傷の上へ落ちていった。
子どもの泣き声が弱まった。
傷がゆっくりと癒えていった。
「もう大丈夫だよ」
エルフが言った。
子どもの親は驚いたように、何度も頭を下げた。
「魔法使い様……本当にありがとうございます」
「大した傷ではありませんでした」
エルフは短く答えて退いた。周りの人々も一度だけ見て、それぞれの日常へ戻っていった。
アヴィスはその場に立ち止まっていた。
治癒魔法。
難しく、珍しいものだと聞いたことがあった。親の反応を見ても、ありふれたことではなさそうだった。
それでも、それは理解できる形に見えた。
光がどう集まり、どこへ流れ、何を治すのか。流れが整っていた。
アヴィスは魔法に詳しくなかった。それでも分かった。
あれは、自分のものとは違う。
自分の力は静かに始まり、あまりにも自然に広がり、終わったあとも何が動いたのか分からなかった。まるで自分がしたのではなく、森が代わりに動いたようだった。
「……アヴィス」
トリカの声に、アヴィスはようやく顔を上げた。
「大丈夫?」
「……はい」
答えはしたが、大丈夫なのかは分からなかった。
その日の夕方、三人は宿へ戻った。
トリカは市場で買ってきたものを広げ、ひとり満足そうな顔をしていた。カルゼンは窓辺に立ち、外を見ていた。
アヴィスは寝台の端に座っていた。トリカが市場で買った菓子を元気よく差し出したが、アヴィスは受け取れなかった。
市場と子ども。
治癒魔法。
その光景が何度も浮かんだ。
「このまま使わないつもりか」
カルゼンが尋ねた。
アヴィスは顔を上げなかった。
「……分かりません」
「怖いのか」
しばらく沈黙が流れた。
アヴィスは小さくうなずいた。
「……自分がやったのかどうかも分からないんです」
声はとても小さかった。
「分からないまま、また使ったら……」
言葉は最後まで続かなかった。
カルゼンはしばらく黙っていた。
「分からないまま使うのが危険なら、知るしかない」
アヴィスはゆっくりと顔を上げた。
「どこで、ですか」
「ラグノス」
カルゼンが言った。
アヴィスは不思議そうに彼を見つめた。瞳にはまだ焦点がぼんやりしていた。
カルゼンは言葉を選ぶように少し黙った。
「大陸の中央にある、最も大きな都市だ。ギルドがあり、魔法を研究する学院もある」
アヴィスは静かに聞いた。
「ただし、すぐ学院へ行けるわけではない。身分も、伝手もない。まずはギルドで動くのが現実的だ」
「ギルド……」
「仕事を受け、金を稼ぎ、人と会う場所だ。ギルドで高い等級を得れば、それだけでひとつの身分になる」
トリカが顔を上げた。尻尾がぱたぱた揺れた。大きな都市へ行くという話に、少し心が弾んだらしい。
「悪くないね。大きい都市なら人も多いし、変な人も多いだろうし」
「言い方はおかしいが、間違ってはいない」
カルゼンが答えた。
アヴィスは窓の外を見た。
シルヴァエリンの夜は静かだった。見知らぬ町だが、美しい町だった。それでも、ここは長く留まる場所ではなかった。
少し息を整える場所。
答えをくれる場所ではない。
「……行きたいです」
アヴィスが言った。
ふたりの視線が集まった。
「……ラグノスへ」
声は小さかったが、さっきよりは震えていなかった。
「知りたいです」
どうしてこんな力があるのか。
どうやって動くのか。
また誰かを傷つけてしまうことがあるのか。
まだ何も知らなかった。だから行かなければならなかった。
カルゼンは短くうなずいた。
「明日、準備する」
トリカがにっと笑った。
「よし。じゃあラグノス旅行だね」
その言葉は妙に軽く聞こえた。アヴィスは否定しなかった。
その夜、アヴィスはなかなか眠れなかった。
目を閉じれば村が浮かび、目を開ければシルヴァエリンの夜が見えた。
昼に見た光も思い出した。
静かで、流れの見える治癒魔法。
自分のものは、そうではなかった。
アヴィスは布団をそっと握った。
今度は逃げるのではなかった。
逃げ出したあと、初めて自分で決めた次の道だった。




