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揺らぎの果てに立つ旅路、そして翼を傷めた小鳥

2. 揺らぎの果てに立つ旅路、そして翼を傷めた小鳥


[947年、241日]


アヴィスはゆっくりと目を開けた。


木でできた天井が視界に入った。最初は見慣れなかったその景色も、今ではいくらか馴染んでいた。村に来てから、もう一か月が過ぎていた。


初めて目を覚ました森。自分へ向けられた槍先。見知らぬ獣人たちの視線。それらは今もぼんやりと残っていた。それでも、あのときほど怖くはなかった。


「起きたか」


隣の寝台から、カルゼンの低い声が聞こえた。


「……はい」

「顔を洗ってこい。朝飯にする」


短い言葉。無愛想な表情。最初は怖いだけだったものにも、少しずつ慣れてきていた。


アヴィスは寝台から下り、そっと床を踏んだ。


この家も、この村も、完全に落ち着ける場所ではなかった。それでも、自分がここにいてもいい場所のように感じはじめていた。



家の外に出ると、朝の空気が頬を撫でた。森の風は心地よく涼しかった。


村はもう目を覚ましていた。子どもたちは走り回り、大人たちは狩り道具の手入れをしていた。今日は狩りに出る日らしい。


その中で、誰かがアヴィスを呼んだ。


「アヴィス、こっちを少し見てくれないか」


ひとりの戦士が腕を差し出した。深くはないが、長く引っかかれた傷があった。


アヴィスは近づいた。


足元に、光でできた半透明の草と花が現れた。小さな光が広がり、傷はすぐに消えた。草も花も、ほどなく散っていった。


「やはり大したものだな。助かった」

「……」


アヴィスは小さく頭を下げた。こういう言葉にも、まだ完全には慣れていなかった。


「アヴィス!」


今度は明るい声だった。


トリカが後ろから現れ、自然な仕草でアヴィスの腕に絡みついた。ふわふわした尻尾が、腰のあたりでゆらゆら揺れている。


「また働いてるの? 少し休んでもいいのに」

「えへへ……」

「無理してない?」


トリカは顔を近づけて覗き込み、ひとりで納得したように笑った。アヴィスも小さく笑った。こういう距離の近さにも、少しずつ慣れてきていた。


そのとき、少し離れたところから低い声が聞こえた。


「……あの子、本当に大丈夫なんですか?」


子どもをひとり抱いた女性だった。


アヴィスはその子を知っていた。リオン。ここ数日、よく傷を作って来たり、何でもないことを話しかけてきたりした子だった。


女性の言葉はカルゼンに向けられていたが、視線はアヴィスに届いていた。


「あの力……少し不安で」


アヴィスは何も言えなかった。


大丈夫だと言うべきだろうか。危なくないと言うべきだろうか。自分でも、その力が何なのかよく分かっていなかった。


確かに、おかしな力だった。魔法はもともと難しい学問で、その中でも治癒魔法は扱いが難しいものだと聞いたことがある。けれどアヴィスの力には、詠唱も、魔法陣もなかった。手をかざす必要さえなかった。


筆も指も使わず、絵の具だけで絵を描いているようだった。


アヴィスは結局、小さく笑ってやり過ごした。


「……俺が見ています」


カルゼンが代わりに答えた。


女性はそれ以上言わなかった。ただ、リオンを少し強く抱きしめた。


「アヴィス姉ちゃん」


リオンが女性の腕から抜け出して近づいてきた。


「今日もやってくれる?」


「どこか怪我したの?」


「ここ」


リオンは手の甲を差し出した。細いかすり傷がひとつあった。


アヴィスはそっとリオンの手を取り、傷を見た。


光がほんの少し広がった。傷はすぐに消えた。


「わあ、やっぱり不思議だ」


リオンが笑った。


アヴィスもつられて笑った。


その瞬間、息が詰まった。ほんの一瞬、殺気と悪寒のようなものが通り過ぎた。リオンの手を握っていたアヴィスの手が止まった。


すぐに、何事もなかったかのように静かになった。


リオンは手の甲を見て笑い、女性はその子を連れていった。


アヴィスはその後ろ姿を見送り、それから自分の指先を見下ろした。今の感覚が、心の片隅に残った。



日が傾きはじめたころだった。


アヴィスは村の片隅で、また別の傷を治していた。この一か月、こうしたことは自然な日課になっていた。


誰かの役に立てること。それは、自分が誰なのかまだ分からないアヴィスにとって、小さいけれど確かな慰めだった。アヴィスにとって、それは難しいことでもなかった。


「アヴィス!」


切迫した声が聞こえた。


トリカだった。いつもの悪戯っぽさは消えていた。


「大変なの。リオンが……様子がおかしい」


アヴィスの心臓が、すとんと落ちた。


人々が一軒の家の前に集まっていた。ざわめきが低く広がっている。


アヴィスが中へ入ると、リオンが横たわっていた。


朝までは笑っていた子。珍しそうに手の甲を見せていた子。その子が、青白い顔で横たわっていた。手の甲の傷は再び現れ、黒く腐っていた。


「……リオン」


リオンの呼吸はあまりにも浅かった。途切れそうになりながら、かろうじて続いている。


「早くやって!」


誰かが叫んだ。


アヴィスは震える手をリオンへ伸ばした。


光が広がった。


おかしかった。


いつものように温かくない。指先を伝って上がってくる感覚が冷たかった。


足元の草が揺れた。すぐに、力なく頭を垂れた。


「どうして……どうして……? だめ……」


光は広がっているのに、リオンの息は戻らなかった。むしろ、さらに薄くなっていった。


「リオン……?」


子どもの母親が震える声で呼んだ。


返事はなかった。


部屋の中が静まり返った。あまりに静かで、アヴィスには自分の心臓の音だけが聞こえるようだった。


どくん。どくん。どくん。


誰かが低く言った。


「……死んだ」


その言葉が、部屋の中に落ちた。


アヴィスは手を引くことができなかった。


リオンが死んだという言葉は、この部屋にいる全員に聞こえたはずだった。けれどアヴィスには、少し遅れて届いた。朝、手の甲を差し出して笑っていた子と、今目を閉じて横たわっている子が同じ人間なのだと、まず受け入れなければならなかった。


違う。


朝は確かに大丈夫だった。笑っていた。傷も治っていた。


「……あの子が触ったあとだったじゃないですか」


震える声だった。


リオンの母親がアヴィスを見ていた。涙は流れていたが、その目にあるのは悲しみだけではなかった。


「言ったでしょう。不安だって言ったでしょう」


空気が冷えた。


「あのときも変だったんです。あの力……普通じゃないって……」


「やめてください」


カルゼンの声が低く響いた。


けれど、もう遅かった。


「そうだ……朝、あの子が治したんだよな?」

「傷のところが腐ってたって」

「俺もさっき治してもらったんだが……」


小さな声が集まり、少しずつ大きくなっていった。


アヴィスは何も言えなかった。


違うと言うべきだった。自分がやったのではないと言うべきだった。唇は動かなかった。


本当に、違うのだろうか。


朝、リオンを治したのは自分だった。その傷のあった場所は、奇妙に腐っていた。リオンは死んだ。


「……私が……」


唇が震えた。


トリカが近づき、アヴィスの肩を抱いた。その手は確かに近くにあったのに、どこか遠く感じられた。


人々の視線のほうが近かった。


目をそらす顔。怯えた表情。怒りと悲しみが混ざった声。


「……あの子のせいだ」


誰かが言った。


アヴィスの手が震えた。



その夜、村はいつもより静かだった。


静かだということは、何も起きていないという意味ではなかった。家の外では低い声が行き交っていた。誰かはアヴィスのことを話し、誰かはカルゼンのことを話していた。


アヴィスはカルゼンの家の奥に座っていた。膝の上に手を置いたまま、ずっと指先だけを見つめていた。


「……私がやったんでしょうか」


トリカがすぐに答えた。


「違う」


迷いのない言葉だった。


「アヴィスがそんなことするわけない」


カルゼンも静かに言った。


「お前の力が原因だと決めつけることはできない。何かが変だった」


「……私が治した場所でした」


アヴィスはうつむいた。


そのとき、外で小さな騒ぎが起きた。誰かが怪我をしたらしい。


アヴィスの体が反射的に動いた。


助けなければ。体が覚えた習慣のように。


扉のほうへ一歩踏み出した瞬間、足が止まった。


リオンの顔が浮かんだ。青白い顔。止まってしまった息。


また、ああなったら。


指先が震えていた。


カルゼンはその様子を見て、静かに目を閉じ、また開いた。


「出るな」


アヴィスは顔を上げた。


「村の空気がよくない」


アヴィスは何も言わなかった。


もう分かっていた。自分を見る目が変わってしまったこと。ありがとうと言ってくれた声が消えたこと。


何より、今は自分自身を信じることができなかった。


「……私が出ていきます」


小さく、かすれた声だった。


「ここにいたら……もっと迷惑がかかりそうです」


トリカがすぐに首を横に振った。


「じゃあ私も行く」


「トリカ姉さん……」


「ひとりで行かせると思う?」


トリカは無理に笑った。


カルゼンも短く言った。


「俺も行く」


「……どうしてですか」


カルゼンはしばらくアヴィスを見てから答えた。


「俺が連れてきたからだ」


無愛想な言葉だった。アヴィスは、その言葉に返事ができなかった。



[947年、242日、夜明け前]


アヴィスは小さな鞄を背負った。


服が数枚と、櫛がひとつ入っていた。


扉の外にはカルゼンとトリカが待っていた。


村はまだ眠っていた。いや、眠っているふりをしているだけかもしれなかった。


アヴィスは最後に振り返った。


一か月のあいだに馴染んできた家。子どもたちが走り回っていた道。自分を呼んでくれた声。


もう戻れるのかどうか、分からなかった。


怪しい子どもが、幼い子をひとり死なせて逃げていくように見えるかもしれない。説明してから出ていくべきなのだろうか。カルゼンとトリカは大丈夫だろうか。自分のせいで、ふたりが故郷を離れることになるのではないだろうか。


考えることは多かった。けれど、まともな言葉はひとつも出てこなかった。


「……行くぞ」


カルゼンが言った。


アヴィスは数秒だけ彼を見上げた。それから、とてもゆっくりと歩き出した。


村を出る道は静かだった。夜明け前の森はまだ暗く、木の葉のあいだから淡い光が差し込みはじめていた。


トリカは何も言わず、アヴィスの隣を歩いた。一度くらい村を振り返ろうとしたようだったが、結局そうしなかった。


カルゼンは前で道を開いていた。


アヴィスは両手をぎゅっと握りしめた。


もう二度と。


誰かに手を伸ばせない気がした。


夜明け前の空気は、あまりにも冷たかった。


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