表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

エルデルの森、そして名前のない子

槍先が、最初に見えた。


目を開けた瞬間、すぐ目の前にあった。あと少し近ければ、肌を突いていただろう。


息が止まった。


そのときになって、ようやく周囲が見えた。高い木々。深い森。そして自分を取り囲む獣人たち。


「……人間だ」


低く沈んだ声だった。警戒心は、槍先よりもはっきりと子どもへ向けられていた。


体を動かそうとしたが、腕にも足にもろくに力が入らなかった。


どうして、ここにいるんだろう。


頭の中は空っぽだった。名前も、記憶も、何ひとつ浮かんでこない。槍先が少し近づくと、息が浅くなった。


逃げなければと思った。けれど体は動かず、視界が狭まっていった。音も遠ざかっていく。


そのとき、視界の端に赤いものがかすめた。


戦士の腕から血が流れていた。


……痛い。


そう感じた。


足元の草が、先に揺れた。風は吹いていなかった。草と小さな花が静かに咲き、光が地面を伝って広がった。


子どもは何もしていなかった。ただ、立っていただけだった。


血が止まった。


傷が消えた。


「……何だ」


獣人たちの視線が、一斉に子どもへ突き刺さった。


「何をした?」


一番大柄な獣人の戦士が、警戒するように前へ出た。


「あ……その……痛そうだったから……」


子どもはしばらく言葉を失い、それからまた口を開いた。


「よく……分かりません。自分が誰なのかも……」


子どもの視線は、前に立つ獣人の戦士へ向いた。縞模様がある。虎に似た姿だった。


エルデルの森のただ中に、ひとりでいた人間の子ども。先ほどの力もおかしかった。だからといって、このまま置いていくこともできなかった。


カルゼンは後ろの戦士たちと短く目配せを交わした。しばらくして、槍先を少し下げて声をかけた。


「俺の名はカルゼン。ティグ族の戦士たちを束ねている。ひとまず、俺たちの村へ来ないか。危害は加えない」


子どもは答えの代わりに服の裾をぎゅっと握った。少ししてから、ごく小さくうなずいた。


「この子を連れて村へ戻る」


カルゼンの後ろをついていく間、子どもは険しい森道をうまく歩けなかった。体調もよさそうには見えなかった。


ほどなくして、カルゼンが背を向けた。背負われろという意味だった。周囲の仲間たちが低くざわめいたが、子どもにはもう歩く力がなかった。


ティグ族の小さな村は、森道の先にあった。子どもはカルゼンの背から下り、あたりを見回した。木でできた家々、行き交う獣人たち、見慣れない視線があった。


「まずは俺の家へ行く。いいか?」


返事は出なかった。カルゼンが動き出すと、子どもは一拍遅れてその後を追った。


カルゼンの家は、村の中でもかなり大きいほうだった。中へ入ると、温かい匂いがした。子どもはきょろきょろと見回したあと、カルゼンが差し出したスープと干し肉を受け取った。


いい匂いだった。


「本当に名前を覚えていないのか?」


「……」


子どもは手の中の器だけを見つめた。


「なら、名前が分かるまで『アビス』と呼んでもいいか?」


子ども――今はアビスが、ゆっくりとうなずいた。


肉を少しちぎって食べ、スープを何口か飲み込んだ。温かかったが、あまり入らなかった。


カルゼンが扉のほうへ歩きながら言った。


「アビス、そこの寝台は使っていい。俺は族長のところへ行ってくる。問題を起こすなよ」


アビスは小さな声も出せず、ただうなずいた。


ひとりになると、窓の外の村が目に入った。走り回る子どもたち。その子どもたちを呼ぶ大人たち。狩り道具を片づける戦士たち。どれひとつ、アビスにとって見慣れたものではなかった。


さっきカルゼンの後ろにいた戦士たちも見えた。狩りで負った傷の手当てをしているようだった。


「傷……」


アビスは引かれるように扉を出た。体はまだふらついていたが、足は傷に包帯を巻いている戦士のほうへ向かった。


「うっ……」


包帯を巻いていた戦士が顔を上げた。


アビスが近づくと、足元で淡い光が広がった。小さな草と花が現れ、すぐに散った。


戦士は驚いた目で包帯を解いた。


傷が消えていた。


彼は一歩後ずさった。礼の言葉よりも先に、警戒する目が向けられた。


……ちゃんと助けたはずなのに。


「……お嬢ちゃん。さっきもそうだが、君がやったのか?」


戦士はアビスを簡単には信じられない目で見ていた。詠唱も、魔法陣もなかった。傷に手を触れてすらいない。それなのに傷は消えていた。


「あ……はい……」


アビスにも説明できる言葉はなかった。体のほうが先に覚えていることのように感じられただけだった。


「あ……そうか。ありがとう」


戦士は少し怯えた顔で、急いでその場を離れた。


アビスがそこに立ったままどうしていいか分からずにいると、カルゼンの声が聞こえた。


「アビス! こっちだ!」


村で一番大きな家だった。族長の家らしかった。アビスはごちゃごちゃになった頭の中を少しだけ空にして、そちらへ歩いていった。


「族長だ。挨拶しろ」


「こんにちは……」


アビスはおずおずと中に入り、席に座った。族長もまた虎に似た獣人だった。カルゼンに少し似ているようにも見えた。


「……大丈夫か」


体の具合を尋ねているらしかった。声は低く、重かった。


「……はい」


「……名前は」


「……分かりません。カルゼンが、仮にアビスと名づけてくれました」


「記憶は何もないのか」


アビスは答えられなかった。視線が膝の上へ落ちた。


族長の眉間に少し皺が寄った。


「カルゼン」


「はい」


「しばらくこの子を預かれ。記憶を取り戻すまで面倒を見ろ」


カルゼンは短く頭を下げた。アビスには、ふたりの間で交わされた意味が分からなかった。ただ、部屋の空気が少し重くなったことだけは感じた。


「分かりました。出るぞ」


カルゼンが目で合図した。


外に出ると、住民たちの視線が一斉に集まった。よそ者を見るものとは、少し違う視線だった。カルゼンもその雰囲気を不思議に思っているようだった。


ほどなく、ひとりの女性が子どもを連れて近づいてきた。


「先ほど主人を治してくださったと聞きました。厚かましいお願いですが、この子も治していただけませんか?」


森の中の小さな村だった。まともな医療や治癒魔法を期待するのが難しい場所なのだろうと、アビスにも雰囲気で分かった。


アビスは子どもの腕を見た。深い切り傷があった。


光が広がった。


特別な動作はなかった。腕にあった傷が、傷痕も残さず消えた。


「ありがとうございます……本当に……」


女性は何度も頭を下げた。横に立っていたカルゼンは驚いた顔でその光景を見ていた。ほかの村人たちも同じだった。


「あ……これ……すごく……痛そうだったから……」


アビスはカルゼンに言い訳するように言った。カルゼンは何も言わず彼女を見た。その視線には、目立つように使うなという意味が混じっていた。


村人たちの何人かは、怯えた目でアビスを見ていた。


そのあと、さらに何人かが近づいてきた。感謝の言葉は続いたが、アビスはだんだん息を整えづらくなっていった。カルゼンは先に家へ戻った。


日が暮れようとしていた。


「……うっ……」


四度目の治療を終えた瞬間だった。悪寒と殺気のようなものが、アビスの体の中へ流れ込んできた。


喉元に刃が入り込むような感覚。


アビスは思わずそれを飲み込んだ。見知らぬ感覚なのに、どこかで知っているような気がした。


アビスは自分の胴ほどもある包みを引きずって家に戻った。村人たちが礼としてくれた食料だった。小さな体で運ぶには重すぎた。


「そこに適当に置いて、こっちに座れ」


アビスは包みを落とすように置き、小走りで近づいた。


カルゼンは椅子を少し後ろへ引いた。距離を取ってから、声を低くした。


「さっきの力は、なかなか印象的だった。ほかに何ができる?」


アビスはしばらく床を見ていた。やがて、透明な光を帯びた小さな草と花が床の上に咲いた。


部屋に草の匂いが広がった。


次に、椅子の後ろから半透明の小さな動物が数匹姿を見せた。


「こういうの……も、できます」


一匹のリスがカルゼンの脚を登り、体をすり寄せた。


「感覚も共有できます」


カルゼンは驚いた表情を隠そうとしていた。リスがあまりにも平然と膝の上に乗ってきたせいで、それはさらに難しくなっていた。


「自然に思い出したのか?」


「はい」


小さなウサギやキツネのような姿も、一瞬だけ現れて消えた。部屋には草の匂いと、爽やかな風だけが少し残った。


「どの程度まで召喚できる?」


「よく……分かりません」


カルゼンはしばらく黙っていた。


「その力は、本当に必要なときだけ使え」


短い言葉だった。拒むことのできない言葉でもあった。


「……まずは体を洗って寝ろ」


カルゼンはそれ以上聞かないことにしたように話を切り上げた。


アビスは彼をじっと見つめた。


洗えと言われても、タオルも着替えもない。アビスには持ち物も、知っていることもほとんどなかった。


カルゼンはそこでようやく気づいた顔をした。


「洗い場はあっちだ。タオルは中にある。服は……」


彼はアビスの小さな体を見た。カルゼンの服が合うはずもなかった。


「今日はひとまず、今着ている服を着ろ。明日、いろいろ買いに行く。ここからシルヴァエリンまでは歩いて四時間だ。準備しておけ」


シルヴァエリン。


町の名前らしかった。アビスはとりあえずうなずいた。


洗い場は少し野性的だった。アビスはそこで体を洗い、フードと外套を除いた服をまた着て寝床に入った。


自分はどこから来たのか。この力は何なのか。頭に浮かぶのは問いばかりだった。


「……カルゼン。寝ましたか?」


返ってきたのは、いびきだった。


アビスはしばらくカルゼンのほうを見つめ、それから目を閉じた。



[947年、204日、午前]


アビスは目を覚ました。


木でできた天井。そして少し横には、上半身を脱いだカルゼンがいた。


カルゼンは視線を感じたように振り向いた。


「起きたか」


アビスの顔が赤くなった。


「早く準備しろ。一時間後に出る」


シルヴァエリンへ行く日だった。アビスにとっては初めて行く町だった。


荷物と呼べるものもなかった。起きて体を洗い、服を少し整えると準備は終わった。


「出発するか?」


アビスがうなずいた。


「返事」


「はい……」


「同行者がいる」


カルゼンの言葉が終わるより早く、ひとりの獣人がそばにやってきた。猫の耳のようにも見える耳がぴんと立っていて、視線は自然と尻尾のほうへ向かった。ふわふわしていた。キツネだろうか。


「こんにちは!」


その獣人はアビスのすぐ隣にぴったりと寄り、尻尾を揺らした。近すぎた。アビスが固まっている間に、彼女は明るい声で自己紹介をした。


「私はトリカ。シルヴァエリンまで一緒に行くから、よろしくね~」


「……こんにちは……」


挨拶を返されると、トリカの目がきらりと光った。


「かわいいかわいいかわいい~~」


アビスに飛びつこうとしたトリカは、カルゼンに止められた。


「出発する」


ふてくされたトリカと、少し呆然としたアビスを連れて、カルゼンはシルヴァエリンへ向かった。



[947年、204日、正午]


カルゼンは前方の草むらをかき分け、道を作っていた。その後ろをトリカとアビスがついていく。


アビスの腰にはトリカの尻尾が巻かれていた。アビスは歩きながらも、ついその尻尾を見てしまった。思ったより力が強い。


「トリカ、お前……いや、いい」


振り返ったカルゼンは何か言いかけ、額を押さえた。


アビスは不思議に思った。尻尾を巻くことに、何か別の意味でもあるのだろうか。


なんとなく察しはついたが、ひとまずぴくぴく動くトリカの耳を見ながら歩いた。


[約30分後]


「カル……ゼン……」


アビスはすっかり疲れきっていた。まだ一時間ほど歩いただけなのに、足が言うことを聞かなかった。トリカとカルゼンは顔を見合わせた。


やがてトリカがアビスを背負い、また歩きはじめた。


「カルゼン~、この子すごく軽い! 人形みたい~」


カルゼンは聞こえないふりをして道を進んだ。


「……トリカ姉さんは、どうしてついてきたんですか?」


アビスは背負われたまま尋ねた。特に危険な道にも見えないのに、なぜもうひとり必要なのか気になった。


「知らなかったの?」


トリカは面白がるように、いたずらっぽい表情を浮かべた。


「昨日ね……」


「黙れ」


カルゼンが言葉を遮った。


「はぁん? 黙れ? 私、ついていくのやめよっかな?」


カルゼンは沈黙した。


トリカはまたにこにこと笑い、アビスを振り返った。


「昨日、カルゼンが私のところに来て頼んできたんだよ。女の子には何が必要なのか、何を買えばいいのか分からないから手伝ってくれって。あのときの顔、ほんと見ものだったんだから……」


チン。


トリカの足元に刃物が突き刺さった。不意打ちかと思ったが、飛んできた方向は前方だった。


「静かに移動しようか」


カルゼンのひと言だった。


わずかな殺気に、トリカとアビスは静かに目を合わせた。それからは、あまり話さずに道を歩いた。



[947年、204日、午後]


シルヴァエリンが見えてきた。


大きな木々のあいだに、建物がかかっていた。アビスはその光景の前でしばらく言葉を失った。建物を支えているのは魔法装置だろうか。木々のあいだを行き交うエルフたちも見えた。


「きれい……」


アビスの言葉に、トリカの尻尾が腰を少し強く締めた。


「うっ……」


簡単な検問を受け、シルヴァエリンの中へ入った。


人が多かった。村とはまったく違った。小さな子どもに尻尾をぐるぐる巻きつけているトリカにも、いくつか視線が向いた。


「こほん……それで、何から買えばいいんだ?」


カルゼンが咳払いして尋ねた。この尻尾の意味を、彼は分かっているのだろうか。


「まずは服と……鞄? タオル? カルゼンみたいなおじさんと同じのを使うつもりじゃないでしょ?」


トリカは本人よりも楽しそうに尻尾をぱたぱた揺らした。尻尾に巻かれているアビスのことは、ほとんど眼中にないようだった。


「持ってきた金は多くない。服と鞄くらいにする。これから鞄はよく使うだろう」


カルゼンはトリカの尻尾を外し、服屋へ向かった。


服屋には思ったよりずっと多くの服があった。トリカは人形遊びでもするように、あれこれアビスへ着せてみた。


アビスは結局、今着ているものに似たチュニックを選んだ。トリカは目に見えてがっかりした。


寝間着はトリカが選んだものを買った。アビスも少しは気に入ったようだった。


鞄は体格に合う小さなものを選んだ。エルフの町だからか、どうにか合う大きさがあった。


アビスは店の片隅に置かれた櫛を見ていた。カルゼンは長い髪を見て、櫛のひとつくらいは必要だと思ったようだった。


「必要なら、それも買え」


その言葉に、アビスは小走りで近づき、気に入った櫛をひとつ取ってきた。カルゼンの口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。


「次は何をする?」


トリカが期待するように尻尾を振った。久しぶりに来た町で、少し浮かれているらしかった。


「帰る。もうすぐ日が暮れる」


カルゼンはきっぱりと言った。


アビスの顔にも少し残念そうな色がよぎった。結局ふたりは、カルゼンに引っ張られるように村へ戻った。



[947年、204日、夜遅く]


寝る前に、アビスが先に体を洗った。


カルゼンが使いはしたが洗濯しておいたタオルで体を拭き、新しく買った寝間着に着替えた。トリカの言葉が少し気になっていた。


「アビス~~」


カルゼンが洗い場に入っている間に、寝間着姿のトリカが遊びに来た。見るなり抱きつき、尻尾を巻きつける。


「姉さん、昼からこれ……どういう意味なんですか?」


トリカは少し不思議そうにしたあと、すぐにいたずらっぽい表情を浮かべた。


「アビスが私のものって意味~」


尻尾が少しきつく締まった。アビスの顔が赤くなる。


「子どもに変なことを教えるな!」


洗い場のほうからカルゼンの怒鳴り声が聞こえた。


「冗談、冗談~。大好きって意味だよ。かわいいんだもん~」


トリカはアビスを腕の中にすっぽり収めた。小さな体がぴたりと収まった。


「アビスは、これからどうするの?」


いたずらっぽさの中に、少しだけ真剣さが混じった声だった。


アビスは最初、その意味を理解できなかった。少ししてから、ようやく質問の向かう先が分かった。


「私が誰なのか……手がかりがないから、まずはここで暮らしたいです」


トリカの尻尾が嬉しそうに揺れた。


「うんうん! 姉さんとずっと一緒に暮らそう~。あの獣が変なことしようとしたら、姉さんに言うんだよ?」


アビスは少し困った顔でトリカを見た。いや、トリカの背後に立っていた、獣と呼ばれた人物を見た。


トリカはまもなく部屋の外へ追い出された。そのあとも外からはしばらく泣き声が聞こえていた。


「アビスと一緒に寝たいぃ~~入れてよ……この獣……」


「誰が誰を獣と言っているんだか……」


カルゼンは扉を閉めて戻ってきた。


「それで、この村にもう少しいると言ったのか」


「……はい」


「しばらくは俺の家で暮らせ。……ただ、こういう閉じた環境にいるだけでは手がかりは見つけにくい」


アビスはその言葉の意味を、ゆっくりと理解した。


いつかは出ていかなければならない、ということだった。


「……はい」


短く答えて、アビスはうつむいた。


その夜、アビスはなかなか眠れなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ