エルデルの森、そして名前のない子
槍先が、最初に見えた。
目を開けた瞬間、すぐ目の前にあった。あと少し近ければ、肌を突いていただろう。
息が止まった。
そのときになって、ようやく周囲が見えた。高い木々。深い森。そして自分を取り囲む獣人たち。
「……人間だ」
低く沈んだ声だった。警戒心は、槍先よりもはっきりと子どもへ向けられていた。
体を動かそうとしたが、腕にも足にもろくに力が入らなかった。
どうして、ここにいるんだろう。
頭の中は空っぽだった。名前も、記憶も、何ひとつ浮かんでこない。槍先が少し近づくと、息が浅くなった。
逃げなければと思った。けれど体は動かず、視界が狭まっていった。音も遠ざかっていく。
そのとき、視界の端に赤いものがかすめた。
戦士の腕から血が流れていた。
……痛い。
そう感じた。
足元の草が、先に揺れた。風は吹いていなかった。草と小さな花が静かに咲き、光が地面を伝って広がった。
子どもは何もしていなかった。ただ、立っていただけだった。
血が止まった。
傷が消えた。
「……何だ」
獣人たちの視線が、一斉に子どもへ突き刺さった。
「何をした?」
一番大柄な獣人の戦士が、警戒するように前へ出た。
「あ……その……痛そうだったから……」
子どもはしばらく言葉を失い、それからまた口を開いた。
「よく……分かりません。自分が誰なのかも……」
子どもの視線は、前に立つ獣人の戦士へ向いた。縞模様がある。虎に似た姿だった。
エルデルの森のただ中に、ひとりでいた人間の子ども。先ほどの力もおかしかった。だからといって、このまま置いていくこともできなかった。
カルゼンは後ろの戦士たちと短く目配せを交わした。しばらくして、槍先を少し下げて声をかけた。
「俺の名はカルゼン。ティグ族の戦士たちを束ねている。ひとまず、俺たちの村へ来ないか。危害は加えない」
子どもは答えの代わりに服の裾をぎゅっと握った。少ししてから、ごく小さくうなずいた。
「この子を連れて村へ戻る」
カルゼンの後ろをついていく間、子どもは険しい森道をうまく歩けなかった。体調もよさそうには見えなかった。
ほどなくして、カルゼンが背を向けた。背負われろという意味だった。周囲の仲間たちが低くざわめいたが、子どもにはもう歩く力がなかった。
ティグ族の小さな村は、森道の先にあった。子どもはカルゼンの背から下り、あたりを見回した。木でできた家々、行き交う獣人たち、見慣れない視線があった。
「まずは俺の家へ行く。いいか?」
返事は出なかった。カルゼンが動き出すと、子どもは一拍遅れてその後を追った。
カルゼンの家は、村の中でもかなり大きいほうだった。中へ入ると、温かい匂いがした。子どもはきょろきょろと見回したあと、カルゼンが差し出したスープと干し肉を受け取った。
いい匂いだった。
「本当に名前を覚えていないのか?」
「……」
子どもは手の中の器だけを見つめた。
「なら、名前が分かるまで『アビス』と呼んでもいいか?」
子ども――今はアビスが、ゆっくりとうなずいた。
肉を少しちぎって食べ、スープを何口か飲み込んだ。温かかったが、あまり入らなかった。
カルゼンが扉のほうへ歩きながら言った。
「アビス、そこの寝台は使っていい。俺は族長のところへ行ってくる。問題を起こすなよ」
アビスは小さな声も出せず、ただうなずいた。
ひとりになると、窓の外の村が目に入った。走り回る子どもたち。その子どもたちを呼ぶ大人たち。狩り道具を片づける戦士たち。どれひとつ、アビスにとって見慣れたものではなかった。
さっきカルゼンの後ろにいた戦士たちも見えた。狩りで負った傷の手当てをしているようだった。
「傷……」
アビスは引かれるように扉を出た。体はまだふらついていたが、足は傷に包帯を巻いている戦士のほうへ向かった。
「うっ……」
包帯を巻いていた戦士が顔を上げた。
アビスが近づくと、足元で淡い光が広がった。小さな草と花が現れ、すぐに散った。
戦士は驚いた目で包帯を解いた。
傷が消えていた。
彼は一歩後ずさった。礼の言葉よりも先に、警戒する目が向けられた。
……ちゃんと助けたはずなのに。
「……お嬢ちゃん。さっきもそうだが、君がやったのか?」
戦士はアビスを簡単には信じられない目で見ていた。詠唱も、魔法陣もなかった。傷に手を触れてすらいない。それなのに傷は消えていた。
「あ……はい……」
アビスにも説明できる言葉はなかった。体のほうが先に覚えていることのように感じられただけだった。
「あ……そうか。ありがとう」
戦士は少し怯えた顔で、急いでその場を離れた。
アビスがそこに立ったままどうしていいか分からずにいると、カルゼンの声が聞こえた。
「アビス! こっちだ!」
村で一番大きな家だった。族長の家らしかった。アビスはごちゃごちゃになった頭の中を少しだけ空にして、そちらへ歩いていった。
「族長だ。挨拶しろ」
「こんにちは……」
アビスはおずおずと中に入り、席に座った。族長もまた虎に似た獣人だった。カルゼンに少し似ているようにも見えた。
「……大丈夫か」
体の具合を尋ねているらしかった。声は低く、重かった。
「……はい」
「……名前は」
「……分かりません。カルゼンが、仮にアビスと名づけてくれました」
「記憶は何もないのか」
アビスは答えられなかった。視線が膝の上へ落ちた。
族長の眉間に少し皺が寄った。
「カルゼン」
「はい」
「しばらくこの子を預かれ。記憶を取り戻すまで面倒を見ろ」
カルゼンは短く頭を下げた。アビスには、ふたりの間で交わされた意味が分からなかった。ただ、部屋の空気が少し重くなったことだけは感じた。
「分かりました。出るぞ」
カルゼンが目で合図した。
外に出ると、住民たちの視線が一斉に集まった。よそ者を見るものとは、少し違う視線だった。カルゼンもその雰囲気を不思議に思っているようだった。
ほどなく、ひとりの女性が子どもを連れて近づいてきた。
「先ほど主人を治してくださったと聞きました。厚かましいお願いですが、この子も治していただけませんか?」
森の中の小さな村だった。まともな医療や治癒魔法を期待するのが難しい場所なのだろうと、アビスにも雰囲気で分かった。
アビスは子どもの腕を見た。深い切り傷があった。
光が広がった。
特別な動作はなかった。腕にあった傷が、傷痕も残さず消えた。
「ありがとうございます……本当に……」
女性は何度も頭を下げた。横に立っていたカルゼンは驚いた顔でその光景を見ていた。ほかの村人たちも同じだった。
「あ……これ……すごく……痛そうだったから……」
アビスはカルゼンに言い訳するように言った。カルゼンは何も言わず彼女を見た。その視線には、目立つように使うなという意味が混じっていた。
村人たちの何人かは、怯えた目でアビスを見ていた。
そのあと、さらに何人かが近づいてきた。感謝の言葉は続いたが、アビスはだんだん息を整えづらくなっていった。カルゼンは先に家へ戻った。
日が暮れようとしていた。
「……うっ……」
四度目の治療を終えた瞬間だった。悪寒と殺気のようなものが、アビスの体の中へ流れ込んできた。
喉元に刃が入り込むような感覚。
アビスは思わずそれを飲み込んだ。見知らぬ感覚なのに、どこかで知っているような気がした。
アビスは自分の胴ほどもある包みを引きずって家に戻った。村人たちが礼としてくれた食料だった。小さな体で運ぶには重すぎた。
「そこに適当に置いて、こっちに座れ」
アビスは包みを落とすように置き、小走りで近づいた。
カルゼンは椅子を少し後ろへ引いた。距離を取ってから、声を低くした。
「さっきの力は、なかなか印象的だった。ほかに何ができる?」
アビスはしばらく床を見ていた。やがて、透明な光を帯びた小さな草と花が床の上に咲いた。
部屋に草の匂いが広がった。
次に、椅子の後ろから半透明の小さな動物が数匹姿を見せた。
「こういうの……も、できます」
一匹のリスがカルゼンの脚を登り、体をすり寄せた。
「感覚も共有できます」
カルゼンは驚いた表情を隠そうとしていた。リスがあまりにも平然と膝の上に乗ってきたせいで、それはさらに難しくなっていた。
「自然に思い出したのか?」
「はい」
小さなウサギやキツネのような姿も、一瞬だけ現れて消えた。部屋には草の匂いと、爽やかな風だけが少し残った。
「どの程度まで召喚できる?」
「よく……分かりません」
カルゼンはしばらく黙っていた。
「その力は、本当に必要なときだけ使え」
短い言葉だった。拒むことのできない言葉でもあった。
「……まずは体を洗って寝ろ」
カルゼンはそれ以上聞かないことにしたように話を切り上げた。
アビスは彼をじっと見つめた。
洗えと言われても、タオルも着替えもない。アビスには持ち物も、知っていることもほとんどなかった。
カルゼンはそこでようやく気づいた顔をした。
「洗い場はあっちだ。タオルは中にある。服は……」
彼はアビスの小さな体を見た。カルゼンの服が合うはずもなかった。
「今日はひとまず、今着ている服を着ろ。明日、いろいろ買いに行く。ここからシルヴァエリンまでは歩いて四時間だ。準備しておけ」
シルヴァエリン。
町の名前らしかった。アビスはとりあえずうなずいた。
洗い場は少し野性的だった。アビスはそこで体を洗い、フードと外套を除いた服をまた着て寝床に入った。
自分はどこから来たのか。この力は何なのか。頭に浮かぶのは問いばかりだった。
「……カルゼン。寝ましたか?」
返ってきたのは、いびきだった。
アビスはしばらくカルゼンのほうを見つめ、それから目を閉じた。
—
[947年、204日、午前]
アビスは目を覚ました。
木でできた天井。そして少し横には、上半身を脱いだカルゼンがいた。
カルゼンは視線を感じたように振り向いた。
「起きたか」
アビスの顔が赤くなった。
「早く準備しろ。一時間後に出る」
シルヴァエリンへ行く日だった。アビスにとっては初めて行く町だった。
荷物と呼べるものもなかった。起きて体を洗い、服を少し整えると準備は終わった。
「出発するか?」
アビスがうなずいた。
「返事」
「はい……」
「同行者がいる」
カルゼンの言葉が終わるより早く、ひとりの獣人がそばにやってきた。猫の耳のようにも見える耳がぴんと立っていて、視線は自然と尻尾のほうへ向かった。ふわふわしていた。キツネだろうか。
「こんにちは!」
その獣人はアビスのすぐ隣にぴったりと寄り、尻尾を揺らした。近すぎた。アビスが固まっている間に、彼女は明るい声で自己紹介をした。
「私はトリカ。シルヴァエリンまで一緒に行くから、よろしくね~」
「……こんにちは……」
挨拶を返されると、トリカの目がきらりと光った。
「かわいいかわいいかわいい~~」
アビスに飛びつこうとしたトリカは、カルゼンに止められた。
「出発する」
ふてくされたトリカと、少し呆然としたアビスを連れて、カルゼンはシルヴァエリンへ向かった。
—
[947年、204日、正午]
カルゼンは前方の草むらをかき分け、道を作っていた。その後ろをトリカとアビスがついていく。
アビスの腰にはトリカの尻尾が巻かれていた。アビスは歩きながらも、ついその尻尾を見てしまった。思ったより力が強い。
「トリカ、お前……いや、いい」
振り返ったカルゼンは何か言いかけ、額を押さえた。
アビスは不思議に思った。尻尾を巻くことに、何か別の意味でもあるのだろうか。
なんとなく察しはついたが、ひとまずぴくぴく動くトリカの耳を見ながら歩いた。
[約30分後]
「カル……ゼン……」
アビスはすっかり疲れきっていた。まだ一時間ほど歩いただけなのに、足が言うことを聞かなかった。トリカとカルゼンは顔を見合わせた。
やがてトリカがアビスを背負い、また歩きはじめた。
「カルゼン~、この子すごく軽い! 人形みたい~」
カルゼンは聞こえないふりをして道を進んだ。
「……トリカ姉さんは、どうしてついてきたんですか?」
アビスは背負われたまま尋ねた。特に危険な道にも見えないのに、なぜもうひとり必要なのか気になった。
「知らなかったの?」
トリカは面白がるように、いたずらっぽい表情を浮かべた。
「昨日ね……」
「黙れ」
カルゼンが言葉を遮った。
「はぁん? 黙れ? 私、ついていくのやめよっかな?」
カルゼンは沈黙した。
トリカはまたにこにこと笑い、アビスを振り返った。
「昨日、カルゼンが私のところに来て頼んできたんだよ。女の子には何が必要なのか、何を買えばいいのか分からないから手伝ってくれって。あのときの顔、ほんと見ものだったんだから……」
チン。
トリカの足元に刃物が突き刺さった。不意打ちかと思ったが、飛んできた方向は前方だった。
「静かに移動しようか」
カルゼンのひと言だった。
わずかな殺気に、トリカとアビスは静かに目を合わせた。それからは、あまり話さずに道を歩いた。
—
[947年、204日、午後]
シルヴァエリンが見えてきた。
大きな木々のあいだに、建物がかかっていた。アビスはその光景の前でしばらく言葉を失った。建物を支えているのは魔法装置だろうか。木々のあいだを行き交うエルフたちも見えた。
「きれい……」
アビスの言葉に、トリカの尻尾が腰を少し強く締めた。
「うっ……」
簡単な検問を受け、シルヴァエリンの中へ入った。
人が多かった。村とはまったく違った。小さな子どもに尻尾をぐるぐる巻きつけているトリカにも、いくつか視線が向いた。
「こほん……それで、何から買えばいいんだ?」
カルゼンが咳払いして尋ねた。この尻尾の意味を、彼は分かっているのだろうか。
「まずは服と……鞄? タオル? カルゼンみたいなおじさんと同じのを使うつもりじゃないでしょ?」
トリカは本人よりも楽しそうに尻尾をぱたぱた揺らした。尻尾に巻かれているアビスのことは、ほとんど眼中にないようだった。
「持ってきた金は多くない。服と鞄くらいにする。これから鞄はよく使うだろう」
カルゼンはトリカの尻尾を外し、服屋へ向かった。
服屋には思ったよりずっと多くの服があった。トリカは人形遊びでもするように、あれこれアビスへ着せてみた。
アビスは結局、今着ているものに似たチュニックを選んだ。トリカは目に見えてがっかりした。
寝間着はトリカが選んだものを買った。アビスも少しは気に入ったようだった。
鞄は体格に合う小さなものを選んだ。エルフの町だからか、どうにか合う大きさがあった。
アビスは店の片隅に置かれた櫛を見ていた。カルゼンは長い髪を見て、櫛のひとつくらいは必要だと思ったようだった。
「必要なら、それも買え」
その言葉に、アビスは小走りで近づき、気に入った櫛をひとつ取ってきた。カルゼンの口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
「次は何をする?」
トリカが期待するように尻尾を振った。久しぶりに来た町で、少し浮かれているらしかった。
「帰る。もうすぐ日が暮れる」
カルゼンはきっぱりと言った。
アビスの顔にも少し残念そうな色がよぎった。結局ふたりは、カルゼンに引っ張られるように村へ戻った。
—
[947年、204日、夜遅く]
寝る前に、アビスが先に体を洗った。
カルゼンが使いはしたが洗濯しておいたタオルで体を拭き、新しく買った寝間着に着替えた。トリカの言葉が少し気になっていた。
「アビス~~」
カルゼンが洗い場に入っている間に、寝間着姿のトリカが遊びに来た。見るなり抱きつき、尻尾を巻きつける。
「姉さん、昼からこれ……どういう意味なんですか?」
トリカは少し不思議そうにしたあと、すぐにいたずらっぽい表情を浮かべた。
「アビスが私のものって意味~」
尻尾が少しきつく締まった。アビスの顔が赤くなる。
「子どもに変なことを教えるな!」
洗い場のほうからカルゼンの怒鳴り声が聞こえた。
「冗談、冗談~。大好きって意味だよ。かわいいんだもん~」
トリカはアビスを腕の中にすっぽり収めた。小さな体がぴたりと収まった。
「アビスは、これからどうするの?」
いたずらっぽさの中に、少しだけ真剣さが混じった声だった。
アビスは最初、その意味を理解できなかった。少ししてから、ようやく質問の向かう先が分かった。
「私が誰なのか……手がかりがないから、まずはここで暮らしたいです」
トリカの尻尾が嬉しそうに揺れた。
「うんうん! 姉さんとずっと一緒に暮らそう~。あの獣が変なことしようとしたら、姉さんに言うんだよ?」
アビスは少し困った顔でトリカを見た。いや、トリカの背後に立っていた、獣と呼ばれた人物を見た。
トリカはまもなく部屋の外へ追い出された。そのあとも外からはしばらく泣き声が聞こえていた。
「アビスと一緒に寝たいぃ~~入れてよ……この獣……」
「誰が誰を獣と言っているんだか……」
カルゼンは扉を閉めて戻ってきた。
「それで、この村にもう少しいると言ったのか」
「……はい」
「しばらくは俺の家で暮らせ。……ただ、こういう閉じた環境にいるだけでは手がかりは見つけにくい」
アビスはその言葉の意味を、ゆっくりと理解した。
いつかは出ていかなければならない、ということだった。
「……はい」
短く答えて、アビスはうつむいた。
その夜、アビスはなかなか眠れなかった。




