少しだけ大丈夫な一日、そして飴
温かかった。
目を開ける前に、まず感じたのはそれだった。
トリカはゆっくりと瞼を開けた。見慣れない宿の天井が視界に入った。ラグノスに来て数日が経つのに、まだ完全には馴染んでいない天井だった。
手に何かが触れていた。
小さく、柔らかく、温もりのあるもの。
トリカはゆっくりと顔を下げた。
アヴィスだった。
寝台の端に座り、トリカの手を両手でそっと包んでいた。視線はトリカの指先に固定されていた。昨日噛んだ指。腫れていないか、黒く変色していないか、腐っていないか。それを確かめているようだった。
アヴィスは、トリカが目を覚ましたことに気づいていなかった。
眉がわずかに寄っていた。真剣な顔だった。その小さな手が、トリカの指を一関節ずつ、とても慎重に確かめていた。
トリカの尻尾が動いた。
ごくゆっくりと、そしてだんだん速くなっていった。
心臓がおかしな鼓動を打った。このままでは本当に何かがおかしくなりそうだった。可愛すぎた。どうしてこんなに可愛いんだろう。トリカは心の中で叫んだ。
「トリカ。尻尾」
低く乾いた声が聞こえた。
カルゼンだった。扉のほうで盆を持って立っていた。朝食だった。シチューとパン、温かい飲み物。
彼の視線が、トリカの揺れる尻尾を見ていた。
「落ち着け」
「……落ち着いてる」
「落ち着いていない」
トリカは無理やり尻尾を抑えた。アヴィスがようやく顔を上げた。トリカと目が合った。
「……起きてたんですか?」
「少し前から」
アヴィスは静かにトリカの手を放した。そして視線をそらした。頬が少し赤くなっていた。
トリカはその様子を見ながら、また尻尾が動こうとするのを全力で堪えた。
カルゼンはため息をついてから盆を置いて言った。
「飯を食え」
—
食事は静かだった。
トリカがパンをちぎりながらあれこれ話しかけ、カルゼンは短く答えるか、答えなかった。アヴィスはシチューをゆっくり掬いながら、ほとんど黙っていた。
昨日とあまり変わらない表情だった。
トリカはその横顔をちらりと見た。
原因は分かった。ヘルマンが説明してくれた。アヴィスのせいではなかった。それでもアヴィスは、まだどこか重い顔をしていた。
そうだろうと思った。
原因が分かったからといって、心がすぐについてくるわけではないから。
カルゼンが食事を終えると、ポケットから小さな硝子瓶を取り出した。黒い粉が入った瓶だった。
アヴィスの視線がそちらへ向いた。
表情が少し歪んだ。目に見えるほど大きく変わったわけではなかったが、感じられた。不快なものだった。
カルゼンはしばらく瓶を見てから、ゴミ箱のほうへ手を伸ばした。
そこで止まった。
アヴィスを一度見て、また瓶を見た。
彼は何も言わずに瓶を再びポケットに入れた。
「あとで別に処理する」
トリカが顔を上げた。
アヴィスもしばらくカルゼンを見た。ありがとうとは言わなかった。ただ、眉間が少し緩んだ。
「……大丈夫だと思います。もう何なのか分かったから」
「それでも」
カルゼンが短く言った。
それで終わりだった。
—
外に出たのは、トリカが半ば強引にアヴィスを引っ張り出したからだった。
「出かけないの?」
「……特に行くところもないし」
「だから私が連れていくんじゃない」
アヴィスはあまり乗り気でない様子だった。それでも断らなかった。トリカの手に引かれて宿の扉を出た。
カルゼンは黙ってついてきた。
ラグノスの昼は騒がしかった。商人たちの声、馬車の音、どこかから聞こえる金属の音。人々が忙しなく行き交っていた。アヴィスはその中で少し萎縮したように、トリカのそばにくっついて歩いた。
トリカはまず市場のほうへ向かった。
「あれ見て。あれ何か分かる?」
「……分かりません」
「私も分からない。でも美味しそうじゃない?」
アヴィスはトリカが指さした露店を見た。油で揚げた何かが積まれていた。匂いはよかった。
「……少し」
「少しでも美味しそうなら食べてみないと」
トリカが露店の前へ近づいた。カルゼンが後ろから言った。
「金を節約しろ」
「うちのアヴィスが節約してくれた治療費よりは安いでしょ」
カルゼンは何も言わなかった。
トリカが買ってきたのは、小さくて丸い揚げ物だった。アヴィスの手にひとつ握らせた。アヴィスはしばらくそれを見下ろしてから、ひと口かじった。
中に甘いものが入っていた。
「……美味しいです」
「でしょ?」
トリカが満面の笑みを浮かべた。尻尾が揺れた。
アヴィスは残りをゆっくり食べた。表情がほんの少し柔らかくなったような気がした。ほんの少し。
—
市場を過ぎると大通りに出た。
両側に高い建物が続いていた。ラグノスの建物は、シルヴァエリンのように木に寄り添ったものでもなく、村のように低くて素朴なものでもなかった。ただ大きく、ひしめき合い、人が多かった。
トリカは歩きながらあれこれ指さした。
「あれ見て。あの建物の窓に何か掛かってる」
アヴィスが見上げた。高い窓の外に布が垂れていた。布には何か描かれていたが、高すぎてよく見えなかった。
「……何か分かりません」
「私も分からない。なんかかっこよさそうで」
カルゼンが通りすがりに言った。
「居酒屋の看板だ」
トリカとアヴィスが同時にカルゼンを見た。
カルゼンは何でもない顔をしていた。
トリカが笑い出した。アヴィスも一瞬、唇が動いた。笑いではなかったが、笑う直前の表情だった。
もう少し歩くと、小さな広場に出た。噴水があった。水が流れる音が、騒がしいラグノスの中でひときわ静かに聞こえた。
アヴィスの足が少し遅くなった。
噴水を見ていた。水が日の光を受けて小さく輝いていた。
トリカはその隣で待った。急かさなかった。
アヴィスはしばらく見てから、また歩き出した。
「……きれい」
小さく言った。
トリカはうなずいた。
「そうだね」
—
カルゼンがいつの間にかいなくなっていた。
トリカが先に気づいた。
「あれ? カルゼンどこ行ったの?」
アヴィスも周囲を見回した。少し前まで後ろを歩いていたのに、いつの間にか姿がなかった。
「……分かりません」
「ひとりでどこ行ったんだろ」
トリカはぼやいたが、特に心配はしなかった。カルゼンはどこへ行っても、勝手に戻ってくる人だった。
ふたりは広場の端にある低い石の壁に腰を下ろした。
トリカが足を揺らしながら言った。
「ラグノス、どう?」
アヴィスはしばらく考えた。
「……大きいです」
「それだけ?」
「……うるさくて」
「他には?」
アヴィスは噴水のほうを見た。
「……でも、ああいうのもあるし」
トリカはその答えを聞いて笑った。
アヴィスはまた静かになった。トリカはその隣で黙って座っていた。
遠くから馬車の音が聞こえた。商人が叫ぶ声も。ラグノスは休まなかった。
アヴィスはその音を聞きながら、静かに言った。
「……リオンは」
トリカがアヴィスを見た。
「リオン、ああいうの好きだったかな」
噴水を見ながら言っていた。
トリカはしばらく答えを探した。
「さあ。たぶん好きだったんじゃないかな」
「……そうですよね」
アヴィスはそれ以上言わなかった。
トリカもそれ以上言わなかった。
噴水の音だけが小さく聞こえた。
少しして、カルゼンが戻ってきた。どこへ行っていたのかは分からなかった。手に小さな紙袋が提げられていた。
彼は何も言わず、アヴィスの前へ近づいた。
そして袋を差し出した。
アヴィスは受け取って、中を覗いた。
飴だった。
小さくて丸い飴が、いくつか入っていた。
アヴィスはしばらく袋を見下ろした。それからカルゼンを見上げた。カルゼンは表情がなかった。説明もなかった。ただ差し出しただけだった。
飴だなんて。
アヴィスは少し固まった。子ども扱いされているような気がした。いや、子どもなのかもしれないけど、少し不満だった。でも差し出された手を断ることもできなかった。素直に受け取った。
袋の中から飴をひとつ取り出して、口に入れた。
甘かった。思ったよりずっと甘かった。ラグノスの飴は何か違った。
カルゼンはそれを確認してから、隣へ来て石の壁に寄りかかった。
トリカはその光景を見ていた。
固まった。
尻尾も止まった。
カルゼンが。飴を。買ってきた。
あの人が。飴を選んで。買ってきた。
トリカはカルゼンを見た。カルゼンはいつもと変わらない顔をしていた。何でもなかった。まるで元々そういう人であるかのように。
「……いつ買ったの」
トリカが言った。
声が少しおかしく出た。
「さっき」
「さっきどこ行ってたのって、それだったの?」
カルゼンは答えなかった。
トリカはそれ以上言葉が出てこなかった。ただ固まっていた。
アヴィスは飴を口の中で転がしながら、カルゼンを見上げた。
まだ少し不満そうでもあった。それでも手に持った袋はしっかり握っていた。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
カルゼンは一度うなずいてから、腕を組んで前を向いた。
—
三人はしばらくそこにいた。
戻る理由はなかった。依頼もなく、急ぎの用事もなかった。
トリカは足を揺らした。カルゼンは腕を組んだまま立っていた。アヴィスは時々飴をひとつずつ取り出して食べながら、噴水を見たり通り過ぎる人を見たりした。
言葉は多くなかった。
それでも、不思議と悪くない時間だった。
アヴィスは袋の中を覗いてから、トリカのほうへ差し出した。
「……食べる?」
トリカは瞬きした。
それから飴をひとつ取って口に入れた。
「ありがとう」
アヴィスはまた前を向いた。
トリカはその横顔を見て、静かに笑った。尻尾がゆっくり揺れた。
カルゼンのほうへも袋が向いた。
カルゼンは袋を見下ろした。
少しして、飴をひとつ取って口に入れた。
アヴィスはそれを見て、少し瞬きした。予想していなかったようだった。
トリカはその光景を見て、声なく笑った。
完全に大丈夫なわけではなかった。リオンが心から消えたわけでもなかった。
それでも今日一日、アヴィスは飴を分けてあげた。それで十分だった。
—
帰り道は遅かった。
日が傾き始め、ラグノスの音が少し収まっていた。
アヴィスは歩きながら、時々袋の中の飴をひとつずつ取り出して食べた。食べるたびに少し表情が変わって、またもとに戻った。
トリカが隣で言った。
「アヴィス」
「……はい」
「今日、どうだった?」
アヴィスはしばらく考えるようだった。
「……悪くなかったです」
「それで十分」
トリカは笑った。
カルゼンは前で黙って歩いていた。
ラグノスの夕暮れが、静かに降りてきていた。




