ひとり立ち、そして怪しい尾行
学院から戻って数日後
[947年、252日、朝]
朝食が終わるころだった。
カルゼンが登録証を取り出して、テーブルの上に置きながら言った。
「今日はふたりで依頼を受けに行く」
トリカがパンを口にくわえたまま顔を上げた。
「うん。そう。私たちふたりで」
アヴィスはふたりを交互に見た。
「……ふたりで、ですか?」
「アヴィスもそろそろひとりで動けるようにならないと」
トリカが当然のように言った。尻尾がゆらりと揺れた。
「自立心ってものがあるじゃない。ねえ? いつも私たちが隣にいたらだめでしょ」
カルゼンも腕を組みながら言った。
「そうだ。ひとりでやってみることも必要だ」
ふたりの息が、妙に合っていた。
アヴィスはしばらく黙っていた。
カルゼンが依頼書をひとつ、アヴィスの前へ押し出した。
「治療所の補助依頼だ。C等級。お前の登録条件に合う」
アヴィスは依頼書を見下ろした。
ラグノス南部治療所。補助人員募集。軽傷処置および治癒補助。
「……ひとりで、ですか?」
「ひとりだ」
カルゼンが短く言った。
アヴィスは依頼書をもう一度見た。それから静かにうなずいた。
「……行ってみます」
トリカが明るく笑った。
「そうだよ! うちのアヴィスならできる」
カルゼンはうなずいて席を立った。
「俺たちも行く」
ふたりが先に宿を出た。
—
アヴィスはひとり残った部屋の中に、しばらくいた。
依頼書をもう一度読んだ。登録証を鞄に入れ、マントを整えた。
準備はすぐに終わった。
でも扉の前で止まった。
カルゼンがいれば前で道を開いてくれた。トリカがいれば隣で話しかけてくれた。そのあいだにいればよかった。
今は誰もいなかった。
アヴィスは扉の取っ手を握った。しばらくそのままでいた。
自然が部屋の中へ少しだけ入ってきたような感じがした。
やがて扉を開けて、外へ出た。
—
ラグノスは、ひとりで歩くと違った。
ここ数日、この街を歩いてきたが、いつもカルゼンの背中が前にあった。トリカの尻尾が目の前にあった。それだけついていけばよかった。
今は、ついていくものがなかった。
道が分かれているところで、アヴィスは立ち止まった。
どちらか分からなかった。
通り過ぎる人に聞かなければならなかった。アヴィスはその人を見てから、視線を落とした。別の人を見た。その人も忙しそうだった。また別の人。
みんな忙しそうだった。
結局、一番ゆっくり歩いている人の隣へ近づいた。
「……すみません」
商人のように見える中年の女性が振り返った。
「ラグノス南部の治療所はどこですか?」
女性はアヴィスをちらりと見てから、指で方向を示した。
「あっちをまっすぐ行って、大通りで右」
「……ありがとうございます」
女性はもう歩いていた。
アヴィスはその方向を見てから、歩き始めた。
二度迷った。一度は逆方向へ曲がって、戻ってきた。初めて見る建物がどれも似て見えた。ラグノスの人々はアヴィスを気にしなかった。それが楽なはずなのに、今はなぜか余計に広く感じた。
治療所の扉の前に立ったとき、中から職員が出てきた。中年のエルフの女性だった。
彼女はアヴィスを見て、止まった。
「……まあ、子どもがひとりで来たの。どこかたくさん怪我した?」
「いいえ。依頼で……」
「依頼?」
アヴィスが登録証を差し出した。
職員は登録証を受け取って読んだ。それからアヴィスを見た。登録証をまた見た。
「……治癒可能者?」
「はい」
「これ……合ってる? ひとりで来たの?」
「はい」
職員はしばらくアヴィスを上から下まで見た。
小さな体。白い髪。大きくて静かな目。
「……とりあえず入って」
中に入りながら、ほかの職員の視線も感じた。アヴィスはなんとなく登録証をもっと強く握った。
初めてひとりで来た場所。
初めてひとりで立っている場所。
カルゼンとトリカがいないと、こんなに違うものだった。
—
路地の向こう側、軒下でカルゼンとトリカが治療所のほうを見ていた。
「入ったね」
トリカが小さく言った。
「ああ」
カルゼンは腕を組んだまま立っていた。
しばらく沈黙が流れた。
「大丈夫かな?」
「大丈夫だ」
トリカの尻尾が不安そうに揺れた。
—
治療所の中は、思ったより忙しかった。
ベッドがいくつか並んでいて、軽傷の患者が出入りしていた。職員たちは忙しく動いていた。
アヴィスは最初、隅に立ってどうすればいいか分からなかった。誰かが来るのを待った。
「あ、さっき来た子?」
若い職員が近づいてきた。
「治癒できるって言ってた?」
「はい」
「じゃああっちをちょっと見てもらえる? 腕を擦り傷した人なんだけど、大したことはないよ」
アヴィスはうなずいて、ついていった。
腕に長く擦り傷を負った人間の男性だった。彼はアヴィスを見て目を瞬かせた。
「……この子が治してくれるの?」
「大丈夫ですよ」
職員が言った。
アヴィスは傷の前に立った。
ひと呼吸した。
トリカもいなかった。カルゼンもいなかった。初めてひとりで誰かの前に立っていた。誰も見ていてくれないことが楽でもあり、誰もいないことが重くもあった。
光が広がった。足元で小さな草の葉が咲いてから散った。傷が静かに閉じた。
男性が目を丸くした。
「……あ、本当に治った」
横で見ていた別の患者が言った。
「これって魔法?」
アヴィスは少し固まった。
「……あ……はい」
ごまかした答えだった。
「すごいな。詠唱もなしに?」
「……そういう系統なんです」
職員も首をかしげた。
「変わってるね。でもできてるならいいか」
—
そのときだった。
治療所の入口から気配がした。
アヴィスは顔を上げないまま、次の患者を診ていた。
そちらから足音が近づいてきた。
アヴィスはようやく顔を上げた。
背が高く体格のいい男だった。帽子を深く被り、目つきが鋭かった。歩き方も静かだった。アヴィスのほうへまっすぐ近づいてきていた。
アヴィスは一瞬、固まった。
—
窓の向こうでカルゼンがその男を見つけた。
目つきが変わった。体が前へ傾いた。
トリカがカルゼンの腕を掴んだ。
「待って」
「あの男……」
「とりあえず見て」
カルゼンは止まった。視線は男に固定されたままだった。
—
男はアヴィスの前で止まった。
そして帽子を少し持ち上げて言った。
「治癒をしてくださっている方で間違いないですか?」
声は静かで丁寧だった。
「……はい」
「指を怪我してしまったんですが、お願いできますか?」
彼は左手を差し出した。指の関節に小さな傷があった。
アヴィスはしばらく彼を見てから、傷を見た。
光が小さく広がった。傷が閉じた。
「ありがとうございます」
男は短く挨拶して下がった。それだけだった。
—
カルゼンはその場面を見て、また腕を組んだ。
トリカが小さく笑った。
「ただの怪我した人だったじゃない」
「……そう見えた」
「顔がちょっと怖かっただけで」
カルゼンは答えなかった。
—
午後になった。
アヴィスは何人かをさらに治癒した。最初よりは気まずくなくなった。それでも誰かが話しかけるたびに、少し固まった。ひとりであることには、慣れなかった。
そのとき、治療所の中にローブを着た人が入ってきた。腰に魔法師ギルドの標識がついていた。
彼は中を見回してからアヴィスを見た。
そしてアヴィスが治癒する場面を見守った。
「……あれって魔法?」
ひとり言のように言った。
隣にいた職員が顔を上げた。
「そうですよ。変わってるでしょう?」
「変わってるんじゃなくて」
魔法師が眉をひそめた。
「魔法じゃないんだけど」
職員が目を瞬かせた。
「じゃあ何ですか?」
魔法師はアヴィスをもう一度見てから、首を横に振った。
「さあ……」
アヴィスは背中に汗が滲むのを感じた。
そのとき、横で包帯を巻いていた中年の男がのんびりと割り込んだ。
「あ、それってもしかして祈りじゃないですか?」
全員の視線がそちらへ向いた。
男は包帯を整えながら言った。
「セラフィン聖国のほうに祈りってものがあるって聞いたんですよ。魔法とは違うやつ。神の力を借りるやつだとか何とか」
魔法師が首をかしげた。
「そんなものがあるんですか?」
「噂に聞いただけですけどね。聖国がとにかく閉じてる場所なんで。直接見た人はいなくて」
男は肩をすくめた。
「まあそういうことじゃないかと。魔法と違うなら、それでしょ?」
魔法師はもう一度アヴィスを見てから、はっきりした結論を出せないまま視線を外した。
職員がアヴィスに聞いた。
「祈りなの?」
アヴィスはしばらく黙っていた。
魔法だと言ったのに見破られた。祈りが何なのかも分からなかった。何と答えればいいか分からなかった。
「……よく分かりません」
職員はその答えを聞いてしばらくアヴィスを見てから、笑ってうなずいた。
「まあ、できてればいいか」
—
路地の向こうでトリカが小さく呟いた。
「祈り?」
カルゼンの目つきが少し変わった。
彼は何も言わなかった。
—
依頼がほぼ終わるころだった。
治療所の職員のひとりがアヴィスの隣へ近づいてきた。
「お疲れ様」
「……ありがとうございます」
「でも本当にひとりで来たの? 保護者は?」
「……はい」
職員はアヴィスを一度見てから、手を伸ばしてアヴィスの頭を撫でた。
「よくできました、よくできました」
アヴィスは固まった。
別の職員も近づいてきた。
「まあ、本当に小さい。髪、本当にきれい」
また別の手がアヴィスの髪を少し触った。
アヴィスはどうしていいか分からず立っていた。
—
向こう側でトリカがその場面を目撃した。
尻尾が逆立った。
「ちょ、ちょっとあれ……」
トリカが前へ出ようとした。
「落ち着け。男たちが触ってるわけじゃないだろ」
カルゼンが止めた。
「私は認めない!」
その後何度かのやりとりのあと、トリカが飛び出そうとしたとき。
小さな手がトリカの袖を掴んだ。
トリカが振り返った。
アヴィスだった。
いつの間にか治療所を出て、路地の入り口に立っていた。トリカの袖を掴んだまま、静かにいた。
トリカとカルゼンが同時に固まった。
アヴィスはふたりを交互に見た。
黙っていた。
トリカがぎこちなく笑った。
「あ、えっと……私たちがここにいたのは……」
アヴィスは答えなかった。
そのまま先に歩き始めた。
「……帰りましょう」
カルゼンとトリカは顔を見合わせてから、後をついていった。
トリカが小さく囁いた。
「いつから気づいてたの……」
カルゼンは答えなかった。
—
宿へ帰る道で、トリカがアヴィスの隣にくっついた。
「どうだった? 大変だった?」
しばらく沈黙が流れた。
「……少し」
「よくやったじゃない」
アヴィスは答えなかった。それでも歩みがほんの少し軽かった。
宿の部屋に入り、鞄を下ろしながらアヴィスが小さく言った。
「心配しなくて大丈夫です。思ったより平気でした」
ひとりだった。道にも迷ったし、子ども扱いもされたし、冷や汗もかいた。
それでも、やり遂げた。
トリカが満面の笑みを浮かべた。
「そうでしょ?」
カルゼンは椅子に座りながら短く言った。
「よくやった」
アヴィスはその言葉を聞いて、少しカルゼンを見てから視線を下げた。
頬が少し赤くなった。
窓の外に夜が降りていた。
カルゼンとトリカは、自分たちがついていったことをアヴィスが知らないと思っていた。
アヴィスは何も言わなかった。
その夜、窓の外の軒先で、かすかに光る小さなリスが静かに座っていたかと思うと、ゆっくりと消えた。
誰も見ていなかった。




