神の国から来た使節、そして祈り
アヴィスの初めての単独依頼から五日後
[947年、257日、朝]
依頼書を先に見つけたのは、カルゼンだった。
A等級。商人馬車の襲撃および誘拐。ラグノス郊外、西の街道。負傷者多数の可能性があるため、治癒師の同行必須。
トリカは依頼書を読みながら、眉をひそめた。
「……アヴィスを連れていくつもり?」
「そうだ」
「早すぎない? ひとりで依頼に出たの、五日前だよ」
「だからだ」
カルゼンはトリカを見た。
短い視線だった。けれどトリカは、その中に含まれたものを読み取った。
このままずっと隣にいるだけでは、何も変わらない。
どうせ経験するなら、俺たちがそばにいるときのほうがいい。
「……怪我したら?」
「怪我をさせない」
トリカは依頼書をもう一度見下ろした。尻尾が一度、ゆっくり揺れて、止まった。
「分かった」
—
宿へ戻ると、アヴィスは窓辺に座っていた。
手首を見下ろしていた。シルヴァエリンでトリカが買ってきた髪紐だった。葉の形をした小さな飾りがついた紐で、髪につけるにはどうにも落ち着かず、今は手首にかけて持ち歩いていた。
陽の当たり方によって、飾りの色が少しずつ変わって見えた。
明るいところでは若葉のような色を帯び、影に入ると深い緑へ沈んでいく。
カルゼンが依頼書を差し出した。
アヴィスは静かに受け取って読んだ。
誘拐。
負傷者。
治癒師の同行必須。
文字をひとつずつ目で追っていき、途中で少し止まった。
「……一緒に行くんですか?」
「そうだ。行けるか」
カルゼンが尋ねるのは、珍しいことだった。
アヴィスは依頼書から目を上げた。そして、うなずいた。
「……はい」
トリカがアヴィスの隣に座って言った。
「危ないと思ったら、すぐ後ろに下がって。治療だけすればいい。他のことは私たちがやるから」
アヴィスはもう一度うなずいた。
手首の髪紐を一度、そっと手で包み、それから放した。
準備を終えて部屋を出るとき、アヴィスはローブの内側を静かに手で確かめた。
短剣は、そこにあった。
—
ラグノスの西の街道は、人通りが少なかった。
大きな道から外れるほど木々が増え、車輪の跡が深く刻まれた土の道が続いていた。遠くから、鳥の声だけが聞こえた。
カルゼンが前で道を確かめ、トリカはアヴィスの隣にぴったりとついて歩いた。
三人の足音のほかには、これといった音はなかった。
アヴィスは歩きながら周囲を見た。
森の匂いがした。
エルデルとは違う森だった。
エルデルには、いつも地の奥から何かが流れてくるような気配があった。けれど、この場所の木々はただ木々だった。
それでも足元には、命が淡く流れているのが分かった。
ラグノスの中では、石と人の熱気に隠れてほとんど感じられなかったものが、こうして外へ出ると、また息を吹き返すようだった。
ほどなくして、カルゼンが止まった。
道の脇に、馬車が一台、捨て置かれていた。
荷物が散らばり、木箱のひとつは角から壊れて、中身をこぼしていた。馬車を引いていた荷獣の姿はなかった。
カルゼンが周囲をゆっくり見回した。
足跡。引きずられた跡。折れた枝。
アヴィスには、彼が何を見ているのか半分も分からなかった。ただ、カルゼンがそれらから何かを正確に読み取っていることだけは分かった。
「五から七。北へ移動している」
トリカが低く言った。
「早いね」
「そう遠くはない」
カルゼンは槍を握り直した。
トリカがアヴィスのほうを見た。
「アヴィス、ここで……」
「一緒に行きます」
トリカが言葉を止めた。
アヴィスは視線を下げなかった。
「怪我人がいるなら、早く行かないといけないですよね」
トリカとカルゼンが短く目を合わせた。
先に身を翻したのは、カルゼンだった。
「後ろにいろ」
—
北へ少し入ると、木々のあいだから低い声が聞こえてきた。
カルゼンが手で、止まれと合図した。
木の隙間から見える空き地。
商人らしい人々が何人か、縄で縛られ、木の前に立たされていた。盗賊たちがその周囲をうろついている。
アヴィスは木の陰に立って、その光景を見た。
心臓が速く鳴った。
手が自然とローブの内側へ向かう。
短剣を抜いた。柄を強く握る。刃が、木々のあいだから差し込む陽射しを受けて、小さく光った。
アヴィスは息を整え、構えた。
逃げない。
何かをしなければならない瞬間が来たら、今度は逃げない。
そのとき、カルゼンが動いた。
速かった。
あまりにも、速かった。
空き地へ踏み込んだ瞬間から、終わるまで、アヴィスにはほとんど追えなかった。
槍がどう動いているのかさえ、まともには見えなかった。ただ、盗賊たちが反応する間もなく、一人ずつ倒れていくのだけが見えた。
ひとり。
瞬きをすれば、ふたり。
もう一度瞬きをすれば、三人。
空き地を横切るカルゼンの動きには、無駄がなかった。
余計な動きも、迷いもない。
ただ、最初から最後まで正確だった。
トリカも動いていた。
アヴィスの前に立ち、アヴィスへ向かうものを防いでいた。
足が速く、手が速く、武器は短く鋭かった。
盗賊のひとりがカルゼンを避け、アヴィスへ目を向けた瞬間、トリカがその前を塞いだ。
アヴィスが見るよりも先に、もう塞がれていた。
尻尾が上がった。
アヴィスの視界を、柔らかく、けれど確かに覆った。
短く鈍い音が、いくつか聞こえた。
尻尾が下りた。
トリカは何事もなかったような顔で、アヴィスを見た。
「大丈夫?」
アヴィスは声が出なくて、ただうなずいた。
空き地は静かになっていた。
カルゼンが槍を下ろして立っていた。息ひとつ乱れていない顔で。
アヴィスは手の中の短剣を見下ろした。
一度も使わなかった。
いや、使う機会がなかった。
短剣を抜き、構え、息を整え、逃げないと決めた。その短い時間のあいだに、カルゼンはすでにすべてを終わらせていた。
アヴィスはその事実を、ゆっくりと、少し呆然と受け止めた。
そして短剣をローブの内側へ戻した。
—
縛られていた商人たちを解放した。
四人だった。
中年の人間の男がふたり。エルフの女がひとり。そして、見たことのない服を着た人がひとり。
白い光を帯びたような服だった。袖には小さな紋様が刺繍されている。アヴィスが見たことのない紋様だった。
商人たちのうち、ふたりが怪我をしていた。
腕を斬られた人間の男と、逃げようとして足首をひねったエルフの女だった。
アヴィスは近づき、順に治療した。
光が広がり、傷が閉じていく。
速くはなかったが、確かだった。
「ありがとうございます。本当に」
人間の男が頭を下げた。エルフの女も続いて頭を下げた。
アヴィスは小さくうなずき、立ち上がった。
そのとき、白い服を着た人がアヴィスを見ていた。
ほかの商人たちとは違っていた。
驚いた顔でも、安堵した顔でもなかった。
何かを見分けた人の目だった。
静かで、確信を含んだ目。
「失礼ですが」
低く、落ち着いた声だった。
「治癒師でいらっしゃいますか」
「……はい」
「詠唱がありませんね。魔法陣も」
アヴィスは答えなかった。
その人はしばらくアヴィスの手を見て、治療の終わった場所を見て、またアヴィスを見た。
「驚きました」
言葉そのものより、その声に含まれた重みのほうが先に届いた。
形式だけの感嘆ではなかった。
本当に驚いた人が、努めて穏やかに話している声だった。
「故郷で見たものに、似ています」
アヴィスはその言葉に、かすかに引っかかった。
似ている、という言葉に。
同じではなく、似ているという言葉に。
「……故郷、ですか?」
彼は袖の紋様に、そっと手を触れた。
「セラフィン聖国です。そこで、これに似たものを見たことがあります。祈りと呼ばれるものです。神へ願い、自分のものではない力を集める方法なのです」
アヴィスは、その名を聞いたことがあった。
道の上で商隊の人々が話していた名。
神に仕える国。
閉ざされていて、外の者はほとんど入ることができないという場所。
治療所で魔法師が不思議そうにしていたとき、誰かが口にした名。
そのときは通り過ぎただけだったのに、今はどこかに引っかかった。
自分のものではない力を集める方法。
自然からマナを引き寄せる自分のやり方と、何が同じで、何が違うのか、アヴィスにはまだ分からなかった。
けれど、その人が似ていると言ったとき、それが間違った言葉だとは思えなかった。
「……もう少し、伺ってもいいですか?」
アヴィスが尋ねると、その人は少しだけ間を置いて、静かにうなずいた。
「お名前は?」
「アヴィスです」
「私はダルセンと申します。聖国の出身ですが、今はラグノスへ立ち寄り、交易をしています」
ダルセンはアヴィスをもう一度見た。
その目には、まだ何かを見分けようとする気配があった。
「祈りは、聖国の中でも神官だけが扱うものです。外で、これに似たものを見ることになるとは思いませんでした」
それ以上の言葉はなかった。
説明というより、ただ事実を告げたようだった。
アヴィスも、それ以上は尋ねなかった。
聞きたいことがなかったからではない。
今この場で、すべてを聞けるものではないと、ぼんやり分かっていたからだった。
—
帰り道は静かだった。
商人たちをラグノスの入口まで送り届け、三人はまた大きな道を歩いた。
陽は午後へ傾いていた。影が少しずつ長くなっていく。
トリカがアヴィスの隣で言った。
「さっき、短剣抜いたでしょ」
アヴィスはうつむいた。
「……はい」
「見たよ」
「……使うことはありませんでした」
「それでいいの」
トリカは笑った。尻尾が揺れた。
アヴィスは少しだけ立ち止まりかけ、それから前を向いて言った。
「……カルゼンは、本当に強いんですね」
前を歩いていたカルゼンは、振り返らなかった。
トリカが口元を上げ、低く笑った。
「味気なかった?」
「……少し」
トリカが声を大きくして笑った。
カルゼンは相変わらず前だけを見て歩いていた。
それでも、歩く速さがほんの少し、本当にほんの少しだけ、遅くなったように見えた。
アヴィスはその背中を見てから、足元へ視線を落とした。
祈り。
セラフィン聖国。
自分のものではない力を集める方法。
似ているという言葉が、まだ頭から離れなかった。
—
宿へ戻り、三人がそれぞれ席についたあとも、アヴィスはしばらく何も言わなかった。
手首の髪紐を、指でいじっていた。
特別な理由があるわけではなかった。ただ、いつの間にか手がそこへ向かう癖がついていた。
トリカが水の入った杯を差し出した。
アヴィスはそれを受け取り、静かに飲んだ。
少ししてから、口を開いた。
「……聖国に、興味が出ました」
トリカが顔を上げた。
カルゼンも静かにアヴィスを見た。
「今日、あの人が言っていたことのせいです。祈りが何なのか、私の力がどうしてそれと似て見えるのか。知りたくなりました」
アヴィスは手首の髪紐を一度見下ろし、それからまた顔を上げた。
沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、カルゼンだった。
「セラフィンには、誰でも入れるわけではない」
「分かっています」
「外部の者には極めて閉鎖的な国だ。普通の方法では、入国そのものが難しい」
「……それでも」
アヴィスは視線を下げなかった。
カルゼンはしばらくアヴィスを見た。
それから、窓の外へ視線を移した。ラグノスの夕暮れが、建物のあいだに沈みかけていた。
「……方法を探してみる」
トリカが瞬きをした。
アヴィスも、一瞬カルゼンを見た。
カルゼンはそれ以上何も言わなかった。ただ、そう言っただけだった。
もう何か考えがあるように。
あるいは、たとえ今はなくても、見つけ出すつもりでいるように。
アヴィスは小さくうなずいた。
「……ありがとうございます」
トリカはカルゼンをちらりと見て、アヴィスを見て、それから何も言わず、尻尾だけを一度ゆっくり揺らした。
部屋の中が静かになった。
アヴィスはまた、手首の髪紐を見下ろした。
葉の飾りが、室内の灯りを受けて静かに光っていた。
祈り。
その言葉は、まだ胸の奥のどこかに残っていた。
リオンの名前がしばらくそうだったように、簡単には消えない形で。
ラグノスの夜が、窓の向こうへ静かに降りていた。




