神学と祈り、そして新しい学期
[947年、258日、早朝]
アヴィスは目を覚ました。目を開けると、部屋の中はまだ暗かった。
窓の向こうで、ラグノスの空がようやく明るみはじめていた。夜と朝のあいだ、どこか曖昧な光だった。
アヴィスはしばらく天井を見つめ、それから静かに体を起こした。
水を飲みに行こうとして、足を止めた。
カルゼンが、机の前に座っていた。
眠ったようには見えなかった。昨夜と同じ服だった。机の上には折りたたまれた紙が何枚か置かれ、その横で水の杯がほとんど空になっていた。
窓から差し込む早い光が、机の上に薄く広がっていた。
カルゼンはアヴィスが起きたことに気づき、顔を上げた。
「早いな」
「……カルゼンは、寝ていないんですか?」
カルゼンは答えなかった。
代わりに、机の上の紙をアヴィスのほうへ押し出した。
「これだ」
アヴィスはそっと紙を手に取った。
エイロス学院の開設科目一覧だった。
その下に、手書きのメモがあった。カルゼンの字だった。
神学科目。
担当教授、セリウス。
聖国出身。
聖国とのつながりがある可能性。
アヴィスはそのメモを、ゆっくり読んだ。
「……一晩中、これを調べてくれたんですか?」
「ギルドに知り合いがいる」
短い答えだった。
カルゼンは水の杯を持ち上げ、残りを飲み干した。
アヴィスは紙を握ったまま、カルゼンを見た。
ありがとうと言わなければいけない気がした。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
昨夜、方法を探してみると言ったときも。
今、この紙を見ているときも。
カルゼンは、ただ当然のようにそうしていた。
「……ありがとうございます」
結局、そう言った。
カルゼンは一度だけうなずき、席を立った。
「トリカを起こせ。朝飯を食べて、学院へ行く」
—
トリカは紙を見るなり、目を丸くした。
「カルゼンが、一晩中調べたの?」
「……」
「カルゼンが?」
「そうだ」
カルゼンは短く答え、視線を別のほうへ向けた。
トリカはカルゼンをしばらく見て、アヴィスを見て、またカルゼンを見た。
それから、きゅっと口を閉じた。
いつもなら何か言っていたはずだった。けれど今回は、ただ笑うだけだった。
声も出さず、尻尾だけを大きく揺らしながら。
カルゼンは見ていないふりをした。
アヴィスは胸の奥で温かいものが静かに広がるのを感じながら、手首の髪紐を一度そっと包み、それから放した。
—
エイロス学院は、数日前より少しだけ見慣れていた。
石の階段を上り、正門を抜け、今ではいくらか慣れた廊下を歩く。
初めて来た日、足音が大きく響くような気がして慎重に歩いていたときとは違い、今日はただ歩いた。
ヘルマンの部屋の前で、ノックをした。
「どうぞ」
部屋の中は相変わらず、紙と硝子瓶でいっぱいだった。
ヘルマンは振り返って三人を確認したが、今回は先に座れとは言わなかった。
「何の用ですか」
アヴィスが前へ出た。
話し出す前に、少しだけ息を整えた。
「祈りについて知りたいです」
ヘルマンの目が、わずかに変わった。
「祈り」
「はい。セラフィン聖国の祈りです。昨日、聖国出身の方に会いました。私の力が祈りに似ていると言われたんです。それがどういうものなのか、どうして似て見えるのか、知りたいです。それから、できるなら聖国にも行ってみたいです」
部屋の中が、しばらく静かになった。
ヘルマンは指を組み、しばらくアヴィスを見た。
研究者の、何かを測るような目だった。
やがてゆっくり立ち上がり、書棚のほうへ歩いていった。
「祈りは、私の専門分野ではありません」
「……分かっています」
「ですが、ちょうど知り合いがいます」
—
セリウスの研究室は、学院の奥深くにあった。
ヘルマンの部屋とは違い、扉には何も貼られていなかった。
ただの古い木の扉だった。
廊下の突き当たりから、二番目。ヘルマンがノックした。
返事はなかった。
ヘルマンがもう一度ノックした。
「……お入りください」
声は低く、ゆっくり届いた。
急ぐ気配のまったくない声だった。
扉が開いた。
部屋の中は、思っていたより簡素だった。
本はあったが、散らかってはいなかった。窓辺からは光が多く差し込んでいた。その光の中に、人が座っていた。
白い髪だった。
年を重ねているようには見えたが、正確な年齢は分からなかった。目元には皺があった。目は静かで、深かった。
見ていると、なぜか心が少し落ち着いていくような目だった。
服は質素だった。
「久しぶりですね、ヘルマン」
「ええ。今日は紹介したい学生がいまして」
セリウスは三人を順に見た。
カルゼン、トリカ、アヴィス。
視線はアヴィスで止まった。
長く留まるほうだったが、不快ではなかった。
ただ、見ているだけだった。
「お名前は?」
「……アヴィスです」
「アヴィス」
セリウスはその名を、一度静かに繰り返した。
そして、ゆっくり席を立った。
背は高くなかった。それでも、部屋の中には確かな存在感があった。アヴィスはなぜか、姿勢を正したくなった。
「ヘルマンから話を聞けばよいですか。それとも、あなたが直接話してくれますか」
アヴィスは少しだけヘルマンを見た。
ヘルマンはうなずいた。
アヴィスはもう一度、セリウスを見た。
「私から、お話しします」
そして、最初から話した。
エルデルの森で、記憶のないまま見つかったこと。
治癒の力があること。
詠唱も魔法陣もなく、自然のマナを引き寄せて使うこと。
昨日、ダルセンに会い、祈りという言葉を聞いたこと。
長い話ではなかった。
それでも、こうして初めて会った人に自分のことを話すのは、考えてみればあまりなかった。
セリウスは途中で遮らなかった。
ただ、聞いていた。
アヴィスが話し終えると、しばらく沈黙が流れた。
セリウスが言った。
「手を見せてもらえますか」
アヴィスは手を差し出した。
セリウスは握らなかった。
ただ近くで見た。
手の甲を、指先を、手のひらを。
それからゆっくり後ろへ下がり、窓辺へ歩いていった。
窓の外のラグノスは、朝の光を受けて明るくなっていた。
「祈りとは、神に願い、神の力を借り受ける行為です。自分のものではないものを引き寄せるという点で、あなたのすることと似ています」
「……似ているけれど、同じではないんですか?」
「源が違います。あなたは自然から引き寄せている。祈りは神から借り受けるものです。ですが」
セリウスは少しだけ窓の外を見て、それからまたアヴィスを見た。
「流れのあり方が似ているというのは、ただの偶然とは考えにくい」
部屋の中が静かになった。
トリカの尻尾が、ゆっくり揺れた。
カルゼンは腕を組んだまま、セリウスを見ていた。
アヴィスが恐る恐る尋ねた。
「……聖国へ行くことはできますか? もっと知りたいんです」
セリウスはしばらく黙っていた。
「セラフィンは、簡単に門を開く国ではありません。外部の者が入るには、聖国側に認められた人物の紹介が必要です」
「……その紹介を受ける方法はありますか?」
セリウスはアヴィスを見た。
その目が、少しだけ変わった。
静かなままだったが、そこには何かがもう少し含まれていた。
「今学期、私の授業を受けてみますか」
アヴィスはその言葉の意味を、ゆっくり受け止めた。
「頑張れば……紹介していただけるんですか?」
「保証はできません」
セリウスは少し間を置き、言葉を続けた。
「ですが、あなたなら可能だと思います」
それ以上は説明しなかった。
ただそう言って、また窓辺へ視線を戻した。
アヴィスはうなずいた。
「……やってみます」
セリウスはアヴィスを見て、静かに笑った。
大きく笑ったわけではなかった。
ただ、口元が少し上がっただけだった。
それでも、部屋の中が少し温かくなったような気がした。
—
学院を出る道は、来たときよりも明るかった。
朝がすっかり場所を得たのだ。
石の階段を下りながら、トリカがアヴィスの隣に寄った。
「どうだった?」
「……分かりません。まだ」
「セリウス教授、変わった人っぽくもあるけど、なんだか頼れそうじゃない?」
「……はい」
アヴィスは素直にうなずいた。
理由を言葉で説明するのは難しかった。
ただ、あの人の前に立っていると、心が落ち着いた。
それだけだった。
階段を下りきり、大通りへ入ろうとしたとき、前を歩いていたカルゼンが言った。
「神学だけを受けるつもりか」
アヴィスはカルゼンを見た。
「学院に入るなら、学べるものは多い」
「……何を受ければいいでしょうか」
カルゼンは足を止めずに言った。
「剣術」
トリカが目を瞬かせた。
アヴィスも立ち止まりかけた。
「……剣術ですか?」
「自分を守れるようになれ。体力も必要だ」
「私は短剣もまともに……」
「だから学ぶんだ」
アヴィスは言葉を続けられなかった。
昨日、空き地で悲壮な気持ちで短剣を抜き、使う機会もないまましまった場面が浮かんだ。
反論したかったが、特に言えることもなかった。
トリカがアヴィスの隣で笑いをこらえながら言った。
「カルゼンの言う通りだね。それと、マナ理論も一度受けてみたら? そこで学ぶこと、アヴィスの役に立ちそうだし」
「マナ理論は、魔法を使う人が受けるものじゃないんですか?」
「だから面白いんじゃない」
トリカがぱっと笑った。
アヴィスはトリカを少し見て、それから顔を戻した。
神学。
剣術。
マナ理論。
頭の中で、三つの科目を順に並べてみた。
剣術には自信がなかった。
マナ理論は、魔法を使えない自分が入っていいのか分からなかった。
神学は、まだどういうものかさえ知らなかった。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
エルデルを出てから、ずっと知らないものの中に立っていた。
村も、シルヴァエリンも、ラグノスも初めてだった。
ギルドの登録証も、初めての依頼も、ひとりで向かった治療所も。
全部、知らないまま始めた。
それでも、どうにかなった。
「……やってみます」
カルゼンはうなずいた。
トリカの尻尾が、大きく一度揺れた。
ラグノスの朝は、すっかり明るくなっていた。
人々が通りへ出はじめ、どこかから焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
アヴィスはその匂いを感じながら歩いた。
手首の髪紐が、歩みに合わせて少しずつ揺れた。
次の学期が始まろうとしていた。




