学院の初日、そしてマナ
[947年、265日、朝]
トリカがアヴィスの周りをうろうろしはじめたのは、朝食を終えてからだった。
「待って、前髪がはねてる」
トリカが手を伸ばし、アヴィスの前髪を整えた。
アヴィスは大人しくされるがままになっていた。
「もう大丈夫です」
「まだ。マントも見ないと」
トリカはアヴィスのマントの襟をきれいに直し、前合わせを整え、一歩下がってアヴィスを眺めた。
そして、尻尾を大きく一度揺らした。
「どうしてもかわいいね」
「……」
「本当だよ。何をどうしてもかわいい」
トリカはまた一歩近づき、今度はアヴィスの髪をそっと撫で下ろした。
尻尾は止まらず、ぱたぱた揺れていた。
カルゼンが荷物をまとめながら言った。
「遅れる」
「もう少しだけ」
「もう遅れている」
トリカは名残惜しそうにアヴィスをもう一度眺め、それから結局、カルゼンのほうへ引っ張られるように動いた。
扉の前で足を止め、アヴィスを振り返る。
「いってらっしゃい。つらかったら、そのまま帰ってきてもいいからね」
「……はい」
「昼ご飯はちゃんと食べて」
「はい」
「分からないことがあったら聞くんだよ」
「トリカ」
カルゼンが呼んだ。
「……分かった、行く」
トリカはしぶしぶ体を向けた。
尻尾は、扉が閉まるまで揺れていた。
部屋の中が静かになった。
アヴィスはしばらく閉じた扉を見つめ、それから鞄を持った。
この一週間、ひとりで何度も開いていた本。
マナ理論基礎。
神学概論。
読んでも半分しか分からなかった。分かったと思ったことも、本当に合っているのかは分からなかった。
それでも、読まないよりはましだと思った。
アヴィスは部屋の扉を開け、外へ出た。
—
エイロス学院は、朝から人が多かった。
新学期の初日だった。
正門の前を学生たちが行き来していた。ほとんどがアヴィスより年上に見えた。ローブをまとった者、分厚い本を両手に抱えた者、三人、四人で固まって歩く者たち。
アヴィスはそのあいだを、静かに歩いた。
教授推薦での入学だったため、入学試験も学費もなかった。
それは楽なはずだった。
それなのに、かえって気になった。
きちんとついていけなかったら、セリウス教授に迷惑をかけるのではないか。
その考えが、朝から頭の中を回っていた。
今日の授業は、剣術とマナ理論。
講義室の前で、アヴィスは少しだけ足を止めた。
それから扉を開け、中へ入った。
—
マナ理論の講義室は、思っていたより広かった。
階段状に席が並び、前のほうの半分はすでに学生で埋まっていた。
アヴィスは後ろの隅の席を見つけて座った。
教授は背が低く、頭の薄い人間の男だった。
声は小さかったが、講義室の端までよく届いた。
彼は黒板にマナの流れを描きながら、説明をはじめた。
マナの分類。
内部マナと外部マナの違い。
マナの流れの方向性と速度。
アヴィスは書き取りながら聞いた。
この一週間で読んだ内容が、あちこちに出てきた。
全部理解できたわけではなかった。
けれど、まったく知らない言葉ばかりでもなかった。
ある程度は、聞き取ることができた。
講義が一時間ほど続いたころ、教授が言った。
「では、実際にやってみましょう。マナを手のひらの上へ引き上げてください。小さな光で構いません」
学生たちが手のひらを広げた。
あちこちで光が生まれた。
大きさも、色もそれぞれ違っていた。
小さな白い光。
黄みを帯びた光。
青く揺れる光。
学生たちが、ごく自然にやっていることだった。
アヴィスは戸惑った。
あ。
自分のマナを引き上げる。
どうすればいいのか、感覚そのものがなかった。
自然のマナなら、足元を流れるものを感じて引き寄せることができた。
けれど、自分の中にあるマナを手のひらへ上げるというのが、どういう感じなのかまったく分からなかった。
教授が講義室をゆっくり回りながら、学生たちを見ていった。
アヴィスの前で足を止めた。
「マナ理論だけを受けて、魔法の授業は取っていないのですか?」
静かで、少し意外そうな声だった。
「……はい」
「初めて学ぶのですね」
アヴィスはうなずいた。
教授はしばらくアヴィスを見てから、手を差し出した。
「一度やってみましょう。手を出してください」
アヴィスはそっと手を上げた。
教授の手が、アヴィスの手の上に軽く重なった。
そして、マナが流れ込んできた。
温かかった。
自然のマナとは違う種類の流れだった。
もっと細かく、もっと密度がある感じがした。
アヴィスはそのマナを感じた。
そして自然に、指先へ集めた。
光が小さく咲いた。
教授が手を離した。
光はアヴィスの手のひらの上にしばらく留まり、それから散っていった。
教授は何も言わなかった。
アヴィスは手のひらを見下ろした。
「……おお」
不思議だった。
いつも自然のマナを引き寄せるときとは違った。
もっとはっきりしていて、もっと近い感覚だった。
自分のものではないのに、指先でこんなにはっきり感じられるのが不思議だった。
教授が静かに言った。
「マナを扱う感覚自体はあるようですね」
それだけ言って、次の学生のほうへ移動した。
アヴィスはしばらく手のひらを見つめ、それからまた書き取っていたノートへ視線を落とした。
不思議な授業だった。
退屈でもあり、面白くもあった。
—
マナ理論が終わり、昼食を取ったあと、剣術の授業があった。
講義室ではなく、学院の裏手にある広い庭だった。
アヴィスは庭へ入ろうとして、少しだけ足を止めた。
学生のほとんどは男だった。
それも、アヴィスより頭ひとつ、ふたつ分は大きい者たちばかりだった。
木剣を手に、準備運動をしている。
腕は太く、肩も広かった。
アヴィスは静かに隅へ行って立った。
教授は体格のいい男だった。
声が大きく、足取りも重かった。
「今日は基本姿勢を取り、組になって軽く打ち合わせる。体格の近い者同士で組め」
学生たちが動きはじめた。
組ができ、それぞれ木剣を持つ。
アヴィスは周囲を見回した。
似た体格の相手がいなかった。
学生たちもアヴィスを見て、互いに顔を見合わせ、それとなく視線をそらした。
誰も近づいてこなかった。
教授が庭を見回し、アヴィスの前へ歩いてきた。
「組がいないな」
「……はい」
教授はアヴィスを上から下まで一度見た。
「俺が見る。木剣を持ってみろ」
アヴィスは横に立てかけてあった木剣を一本取った。
重かった。
思っていたより、ずっと重かった。
手首がすぐに傾いた。
両手で握っても、先が下へ落ちた。
教授はその様子を見て、しばらく何も言わなかった。
「……ひとりで振る練習だけしろ」
「組まなくていいんですか?」
「それが先だ。まともに持てなければ、次はない」
アヴィスはうなずき、木剣を両手で持ち直した。
教授が基本姿勢を整えてくれた。
足の位置。
手の位置。
肘の角度。
それから、ゆっくり振ってみろと言った。
アヴィスは力いっぱい振った。
木剣は半分ほど進んだところで、手首が折れた。
重心を失い、一歩よろめいた。
どこかで笑い声がした。
大きな笑いではなかった。
低く、小さなざわめきだった。
「かわいい」
「あの子、誰だ?」
「初めて見るな」
アヴィスは顔が熱くなるのを感じながら、もう一度姿勢を取った。
教授はそのざわめきを聞こえないふりをして、アヴィスの隣に立ち、腕の動きをまた直した。
「ゆっくりだ。力で振るものではない」
アヴィスは今度はゆっくり振った。
それでも、先が下がった。
「……重いです」
「慣れる」
教授は短く言って、ほかの学生たちのほうへ歩いていった。
アヴィスはひとり残り、木剣を持って立っていた。
慣れる。
いつ慣れるのかは分からなかった。
とりあえず、もう一度振った。
また下がった。
もう一度振った。
また下がった。
剣術の授業が終わるまで、アヴィスはそれだけを繰り返した。
いや、繰り返すことさえ、まともにはできなかった。
—
学院を出るころには、日が傾いていた。
足が重かった。
腕も重かった。
木剣を持って下ろしただけなのに、手首がじんじんしていた。
マナ理論の授業で書き取ったことも、頭の中で混ざり合っていた。
アヴィスはゆっくり歩いた。
ラグノスの夕方が始まっていた。
屋台から食べ物の匂いがした。
人々が忙しく行き交っている。
アヴィスはそのあいだを歩きながら、何も考えないようにした。
思っていたより大変だった。
ただ大変だったのではなく、思っていたよりもずっと大変だった。
一週間、本を読んだ。
けれど講義は、それよりずっと速く流れていった。
剣術は、始まってすらいない気がした。
今日、ちゃんとできたことがあるのかと聞かれたら、特に何もなかった。
それでも。
教授のマナが指先で感じられた、あの感覚はまだ残っていた。
それだけは、不思議だった。
宿の扉を開けた。
トリカが長椅子に座っていたが、すぐに立ち上がった。
「帰ってきた? どうだった? 大変だった? ご飯は食べた?」
アヴィスは答えなかった。
鞄を床に下ろし、トリカのほうへ歩いていった。
そして、そのままトリカの胸に倒れ込んだ。
トリカは一瞬固まったが、すぐにアヴィスの背を撫でた。
「……よっぽど大変だったんだね」
アヴィスは答えなかった。
トリカの尻尾が、ゆっくり揺れた。
カルゼンは窓辺に座り、アヴィスを一度見てから、視線を別のほうへ向けた。
部屋の中が静かになった。
ラグノスの夜が、窓の向こうへ降りていた。




