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※ただし魔法は尻から出る  作者: クロネコスキー


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第5話 水泥棒は逃げられない

「働く?」


「そうだよ。水を飲んだ。金がない。なら働く。簡単な話だろう」


簡単だった。


とても簡単だった。


異世界は、魔法よりも労働の方が分かりやすい。


「いや、働くのはいいんですけど、何をすれば」


「それはこっちで決める。アンタが決めることじゃないよ」


「ですよね」


「ほら、さっさとついてきな」


そう言うと、おばちゃんはくるりと後ろを向き、ドスドスと歩いて行く。


なんてせっかちなんだ。


いや、俺に選択肢がないだけかもしれない。


ここで逃げたらどうなるだろう。


魔法を使えば、逃げられるかもしれない。


フライで空に飛ぶ。


ファイヤーで威嚇する。


ウォータージェットで煙幕ならぬ水幕を張る。


できることはある。


あるのだが、問題は全部尻から出ることだ。


村のど真ん中でそれをやれば、井戸代どころの騒ぎではない。


変な旅人から、危険な変質者に昇格クラスチェンジしてしまう。


いや、昇格ではない。


降格だ。


かなりの降格だ。


俺は慌てておばちゃんの後を追った。


村に来た時には水が飲みたくてまったく気づかなかったが、周りにいる村人が俺をジロジロと見ている。


畑仕事をしていた男。


家の前で豆のようなものを選別していた女。


木の棒を持って走っていた子供。


みんながこちらを見ている。


普段は旅人なんか来ないんだろう。


俺が珍しい存在なんだ。


そうだ。


珍しいだけだ。


決して尻が出ているからではない。


いや、違う。


確実に尻が出ているからだ。


村人の視線が、俺の顔ではなく少し下に集まっている。


さっきから、俺の背中ではなく、そのさらに下を見ている。


これだけ目立っていたなら、井戸を勝手に使ったことがばれるのもしょうがない。


というか、井戸を使う前からばれていた可能性すらある。


「見た? あの人のズボン」


「見た見た。お尻丸出しなんだけど」


「旅人って、ああいう格好をするものなの?」


「するわけないだろ。あれはたぶん、何か失敗したんだよ」


「もしかして、お尻が出ていることに気づいてないんじゃないの?」


「それはないでしょ、あっはっはっはっは」


聞こえている。


めちゃくちゃ聞こえている。


だが、聞こえていないふりをした。


世の中には知らない方が幸せなこともある。


そして、知っていても知らないふりをした方が、人間として保てることもある。


俺は前を歩くおばちゃんの背中だけを見た。


おばちゃんは一度も振り返らない。


たぶん、俺が逃げないと分かっているのだろう。


逃げられるものなら逃げたい。


しかしいまの俺は、財布もなく、食料もなく、寝床もなく、尻の隠れる服もない。


この村から追い出されたら、また森である。


狼である。


尻から火である。


それよりは、働いて井戸代を払う方がまだマシだ。


そう考えた瞬間、俺は気づいた。


異世界に来たら、冒険者ギルドで登録して、魔法で無双して、美女に囲まれる予定だった。


しかし現実の俺は、井戸の水を勝手に飲んで、恰幅の良いおばちゃんに捕まり、尻を村人に見られながら労働へと連行されている。


どこで間違えたのだろうか。


いや、分かっている。


スキル選択画面で説明を読まなかったところだ。


俺は小さくため息をついた。


その息は、普通に口から出た。


それだけで、少し安心した。


おばさんのうしろを、俺は駆け足で追いかけていた。


正直、走りたくはなかった。


右腕はまだ少し痛いし、ズボンの尻部分は焼け焦げているし、村人の視線は背中ではなく、その少し下に集まっている気がする。


だが、前を歩くおばさんの足が速い。


見た目は恰幅の良いおばちゃんである。


なのに、妙に歩くのが速い。


俺が少しでも遅れると、背中だけで「置いていくよ」と言われている気がした。


実際には言われていない。


だが、あの背中にはそういう圧があった。


井戸からそう遠くない場所に、大きな建物が見えてきた。


ほかの家より少しだけ横に広く、入口の上には不思議な意匠マークの看板がいくつかぶら下がっている。


ひとつは飲み物が入っているようなグラスの絵。


ほかにも丸がひとつのものや、ふたつのものがある。


丸が何を意味するのかは分からない。


料理の皿なのか、宿泊人数なのか、それともこの世界では丸が何かすごく大事な意味を持っているのか。


前者はおそらく食堂か酒場だと思う。


だが、丸が二つある方は何だ。


まさか「尻を出した旅人お断り」みたいな意味ではないだろうな。


いや、さすがにそんな看板が常設されている村は嫌だ。


「何してんだい? さっさと入りな。グズグズするんじゃないよ」


看板を見て考え込んでいたら、怒られてしまった。


俺は慌てて木製のドアを開ける。


中へ入ると、木のテーブルと椅子がいくつか並んでいた。


奥にはカウンターがあり、その向こうには棚がある。


棚には壺や木の杯のようなものが置かれていて、壁際にはよく分からない干し草や袋も積まれている。


食堂。


あるいは酒場。


たぶんその両方だ。


異世界の村の酒場といえば、冒険者たちが昼間から酒を飲み、依頼書が貼られ、受付嬢がいて、俺に「見ない顔ね」とか言ってくる場所のはずである。


しかし、店内には誰もいなかった。


客がいない。


受付嬢もいない。


冒険者もいない。


昼間から酒を飲んでいるヒゲ面のおっさんもいない。


いるのは、俺を捕まえたおばさんだけだ。


いや、おばさん一人の圧で、だいたい五人分くらいの存在感はある。


「そこに立ってると邪魔だよ。こっちに来な」


「はい」


俺は言われるまま、カウンターの前まで進んだ。


椅子に座っていいのか迷ったが、勝手に座ってまた何か料金が発生したら怖い。


この世界では井戸の水にも使用料があるのだ。


椅子にも座席料があるかもしれない。


俺は立ったまま、なるべく尻の穴が見えない角度を探した。


そんな角度が存在するのかは分からないが。


「で、アンタはどこの村から逃げてきたんだい?」


いきなりだった。


「えっと……」


村から逃げてきたわけではない。


そもそも俺は村の名前どころか、この世界の国名すら知らない。


正直に言えば、違う世界から来ました、である。


だが、そんなことを言って信じてもらえるとは思えない。


目の前のおばさんは、どう見ても「異世界から来ました」と言われて「まあ大変だったね」と受け止めてくれるタイプではない。


どちらかと言えば、「寝言は寝てから言いな」と言って、井戸代に迷惑料を追加してきそうなタイプだ。


「何だい? 言いたくないのかい」


おばさんはカウンターに肘をつき、俺を下から見上げるように睨んだ。


「まあいいさ。隠してたところで、お尋ね者ならそのうち手配が回ってくるだろうしね。アンタ、そんなんじゃないだろうね?」


「違います違います違います」


俺はブンブンと首を横に振った。


お尋ね者。


嫌な言葉だ。


異世界転生二日目で、水泥棒からお尋ね者にランクアップするのは避けたい。


しかもいまの俺は、尻に穴の開いたズボンを履いている。


人相書きに特徴として書かれたら、かなり終わる。


「尻の破れた旅人。身長は普通。年齢はそこそこ。逃亡時、尻から火を出す可能性あり」


そんな手配書、出されたくない。


「じゃあ、名前は?」


「名前、ですか」


「名前ぐらいは言えるんだろうね」


「あー……、ヤマダ……ヤマダです」


本名は山田大輔だ。


だが、いきなりフルネームを言っても、この世界の人には長いかもしれない。


というか、ダイスケまで言うべきか迷った。


だが、いまの俺に必要なのは身分証明ではなく、まず井戸代の支払いである。


「ふーん。変わった名前だね」


やっぱり変わっているらしい。


「私はベラって言うんだ。覚えときな」


「ベラさんですね」


「ベラでいいよ。アンタにさん付けされると、何か余計に怪しい」


理不尽だ。


敬意を払って怪しまれることがあるのか。


だが、ここで反論しても得はない。


「それでヤマダ、アンタは何ができるんだい?」


それは俺が知りたいことだった。

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