第4話 井戸の水はタダじゃない
結局、俺は誰も助けることなく、誰にも助けられることなく、ただ歩いて街に着いた。
街というか、これは村だな。
まず、城壁というか外壁がない。
周りにあまり危険のない村なのか、柵で囲まれているのは畑くらいだ。
そのためか見張りもいないし、門番の人に「誰だお前は!? どこからやってきたんだ?」と聞かれる定番イベントも起きない。
がっかりだ。
いや、聞かれたら聞かれたで困る。
どこから来たのかと聞かれても、森から来ましたとしか言えない。
それはもう、不審者の答えである。
見張りがいないことに感謝するべきなのかもしれない。
村の入口らしき道に入ると、土を固めただけの道の両側に、木と土壁でできた家が並んでいた。
家の前には薪が積まれている。
畑で作業している人もいる。
鶏のような鳥も歩いている。
鶏のような、と言ったのは、尻尾がやけに長くて、羽が青いからだ。
だが、今の俺にとっては鳥の種類などどうでもいい。
水だ。
とにかく水が欲しい。
じつはこっちに来てから、飲まず食わずなんだ。
いや、たしかに水を出すことはできるよ?
ウォータージェットも使った。
着地にも成功した。
水属性魔法は間違いなく使える。
だが、飲めるかどうかは別問題だ。
魔法で出した水が安全なのか分からない。
そもそも、俺の魔法は知っての通り、尻から出る。
尻から出た水、飲みたいか?
飲める飲めない以前に、心が拒否する。
人間には、理屈では越えられない壁がある。
尻から出た水を自分でコップに受けて飲む。
その壁は、かなり高い。
俺はまだ異世界に来て二日目だ。
人間の尊厳という貯金は、すでにかなり削られている。
これ以上は慎重に使いたい。
そんなわけで、渇きに苦しみながら俺はここまで頑張って歩いてきたってわけだ。
村のなかには井戸の一つや二つ、あるだろう。
普通の水。
普通の場所から出た水。
俺がいま求めているのは、それだけだった。
村の中を進んでいくと、早速行く手に井戸を見つけることができた。
石で丸く囲われた、いかにも井戸という感じの井戸である。
横には木桶と縄。
周りに人はいない。
水の匂いがする気がした。
いや、たぶん気のせいだ。
でも、それくらい俺は水を求めていた。
「助かった……!」
俺はあわてて駆け寄って、井戸の中を覗いた。
暗い穴の底に、水面が見える。
ある。
水だ。
普通の水だ。
俺は横にあった木桶を放り込み、急いで水を引き上げた。
縄が手に食い込む。
腕の傷が少し痛む。
だが、そんなことはどうでもいい。
桶が上がってくる。
中には水が揺れている。
俺はそれを両手ですくい、口に運んだ。
冷たい。
「プハーっ! 生き返る!」
本当に生き返った気がした。
水が喉を通って、胃に落ちていく。
体の内側から、乾いた土に雨が染み込むような感覚がある。
大げさではない。
人間、水がないと死ぬ。
そして俺は、いま初めて異世界で普通の水を飲んだ。
ありがとう、井戸。
ありがとう、異世界の地下水。
ありがとう、尻から出ていない液体。
俺は夢中で水を飲んだ。
一杯。
二杯。
三杯。
途中で顔も洗った。
水が顔に当たるだけで、少し人間に戻った気がする。
いや、尻の穴が開いたズボンを履いている時点で、完全には戻っていないのだが。
それでも気分はかなり良くなった。
「よし……これでなんとか――」
「あんたかい、勝手に井戸を使ってるって言う変な旅人は」
背中に、低い声が刺さった。
俺は固まった。
水を飲むことに夢中になっていたせいで、後ろから人が近づいてきていることに気づけなかった。
ゆっくり振り向く。
そこには、恰幅の良いおばちゃんが立っていた。
デン、という効果音が見えるくらいの立ち方だった。
腕を組み、足を開き、こちらを睨んでいる。
村に門番はいなかった。
だが、もっと強そうなものがいた。
「あ、えっと、こんにちは」
「こんにちはじゃないよ。アンタ、何をしてるんだい」
「水を、飲んでました」
「見れば分かるよ」
「ですよね」
おばちゃんの目が、俺の顔から服へ、服から腰へ、腰から尻へと移動した。
そこで一瞬止まる。
やめてほしい。
そこはいま、村の観光名所ではない。
「あんた、その格好で村に入ってきたのかい?」
「その、まあ、いろいろありまして」
「いろいろあったら尻を出して歩くのかい」
正論だった。
何も言い返せない。
「井戸って、勝手に使っちゃいけないんですか?」
俺は話題を変えることにした。
変え方としては最悪だったかもしれない。
おばちゃんの眉がさらに上がった。
「当たり前だろう。うちの村が管理してる井戸なんだ。村のもん以外が勝手に使っちゃいけないことを知らないなんて、一体どこから来たんだい?」
おばちゃんは呆れ返ったような声で言う。
井戸に使用料。
考えたこともなかった。
日本にいた頃は、蛇口をひねれば水が出た。
公園の水道なら、たぶん無料で飲めた。
もちろん水道代や税金の話をし始めれば無料ではないのだろうが、少なくともその場でおばちゃんに捕まって金を請求されることはなかった。
異世界の水、厳しい。
「いや、その、どこからって言われても……」
正直に答えれば、異世界から来ました、である。
いや、ここも異世界だから、地球から来ました、になるのか。
どちらにせよ通じない。
下手をすれば頭のおかしい人扱いされる。
すでに尻を出している時点で、かなり危ないのに。
「その尻を見る限り、どこかから家出してきたんだろう?」
おばちゃんが勝手に言った。
「え?」
「それで慣れない野営で寝ぼけでもして、焚き火に尻を突っ込んだ。大火傷しないで済んだだけ運が良かったと思うんだね」
すごい。
だいぶ違うが、そこまで遠くもない。
俺は焚き火に尻を突っ込んだわけではない。
尻から焚き火を出した側だ。
しかし、結果として尻のあたりが焼けているのは同じである。
なんだか勝手にストーリーが作られていくが、常識のない俺にとってはありがたいかもしれない。
ここは乗るべきだ。
「ええ、そうなんです。すごいですね」
「ふん、このアタシを見くびってもらっちゃ困るんだよ。若い頃から、変な旅人は山ほど見てきたからね」
若い頃から変な旅人を山ほど見てきたおばちゃん。
経験値が高すぎる。
「それはともかく」
おばちゃんが手を出した。
「井戸の使用料、払ってもらおうか」
「え、使用料?」
「そうだよ。旅人は一回につき銅貨三枚と決まっている。ほら、さっさと出して」
銅貨三枚。
この世界のお金の価値は分からない。
分からないが、問題はそこではない。
俺は銅貨を一枚も持っていない。
銅貨どころか、財布もない。
服もないに近い。
あるのは魔法と、焼けたズボンと、失いかけの尊厳だけだ。
支払い能力としては最悪である。
「いや、それがですね、持ち合わせが……」
おばちゃんの目が細くなる。
その目は、会社で経費精算の領収書をなくしたときの経理担当に少し似ていた。
まずい。
このままだと、無銭飲食ならぬ無銭飲水である。
いや、水を飲んだだけなのだが、この村ではそれが立派な料金発生行為らしい。
そもそも、こっちの世界のお金なんて持っていない。
だが、良い言い訳がふとひらめいた。
「ズボンが燃えたときに、どうも財布を落としてしまったみたいで、いま、お金を持ってないんですよ。何か他の方法で支払うことはできませんか?」
言ってから、自分でもなかなか自然な言い訳だと思った。
ズボンが燃えた。
財布を落とした。
旅人。
野営失敗。
つながっている。
完璧ではないだろうか。
俺は営業職だった男だ。
こういう場面で、相手に受け入れやすい説明を即座に作る能力は、それなりにある。
問題は、説明の材料が「尻を焼いた」しかないことだが。
おばちゃんの俺を見る目が厳しくなっていく。
「まったく、勝手に井戸を使っただけじゃなくて、お金も持ってないのかい?」
「すみません」
「財布を落としたって言うけどね、アンタみたいな格好で村に来た旅人が、そう都合よく財布だけ落とすかね」
「その、かなり慌てていたので」
「尻を焼いて慌てたってわけかい」
「はい」
そこだけ聞くと、俺は相当どうしようもない人間である。
いや、実際どうしようもない状況なのだが、言葉にされるとつらい。
おばちゃんは大きくため息をついた。
「だったらその分、働いて貰うしかないね」
水を飲んだだけで、俺は労働者候補になった。
異世界は日本人に優しくない。
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