第13話 直ったズボンが邪魔をする
喉が渇いた。
めちゃくちゃ喉が渇いた。
異世界の村で迎えた朝、俺が最初に思ったことは、魔法でも冒険でも美少女との出会いでもなかった。
水が飲みたい。
ただ、それだけだった。
藁小屋の寝心地は、正直よくなかった。
背中が痛い。
腰も痛い。
藁が服の隙間に入ってチクチクする。
だが、森で狼に襲われながら眠るよりは百倍マシだ。
屋根がある。
壁もある。
狼がいない。
それだけで、だいぶ文明である。
問題は、昨日の夜に食べたボソの実だった。
ベラにズボンを預けたあと、腹が減ってどうしようもなくなり、収納からこっそりボソの実をひとつ取り出して食べた。
腹は膨れた。
膨れたのだが、口の中の水分をすべて持っていかれた。
あれは果物ではない。
口の中に砂漠を作るための何かだ。
名前の通り、ボソボソしている。
一晩寝たことで、そのボソボソが喉の奥にまで広がった気がする。
「水……」
俺は藁の上から起き上がった。
体がパキパキ鳴る。
三十八歳の体に藁小屋は少し厳しい。
いや、少しではない。
かなり厳しい。
だが、そんなことより水だ。
村には井戸がある。
昨日飲んだ、普通の水。
尻から出ていない水。
あれを飲めば、生き返る。
俺は小屋の戸を開けかけて、そこで固まった。
井戸。
銅貨三枚。
昨日、俺は勝手に井戸を使ってベラに捕まった。
旅人が井戸を使うには、銅貨三枚が必要。
そしていまの俺の手持ちは。
ゼロ。
昨日、薬草と薪を集めて初めて稼いだ銅貨は、宿代と裁縫代としてベラに全部回収された。
見事なまでにゼロである。
財布の中身がない、ではない。
そもそも財布がない。
「……また、銅貨三枚か?」
喉は渇いている。
だが金はない。
水はすぐ近くにあるのに、飲めない。
異世界、思ったより水回りが厳しい。
一応、俺は水魔法が使える。
ウォータージェットも使った。
尻から水を出すことはできる。
できるのだが。
飲みたくない。
まだ、そこまでは行きたくない。
人間には越えてはいけない線というものがある。
俺は異世界に来てから、その線を何本も踏み越えている気がするが、できれば水だけは普通のものを飲みたい。
「アンタ、朝っぱらから何を固まってるんだい」
背後から声がした。
俺はビクリとした。
振り返ると、ベラが立っていた。
手には木の杯を持っている。
「ベラ……お姉さん」
「いま、間があったね」
「ありません」
「まあいいよ。ほら」
ベラは木の杯を俺に差し出した。
中には水が入っていた。
透明な水。
普通の水。
尻から出ていない水。
「え、いいんですか?」
「何だい、その顔は。毒でも入ってると思ってるのかい」
「いや、そうじゃなくて、その、俺、持ち合わせが」
「昨日、宿代は取っただろう。うち――木杯亭に泊まった客に、朝の水一杯くらいは出すよ」
木杯亭。
この店、そういう名前だったのか。
入口の看板に木の杯みたいな絵があったのは、そういうことらしい。
俺は杯を受け取った。
「ただし」
ベラが指を立てる。
「勝手に井戸を使ったら別だよ。あれは村の井戸だからね。旅人は銅貨三枚。忘れたとは言わせないよ」
「忘れてません」
忘れられるわけがない。
水を飲んだだけで借金が発生した記憶は、そう簡単には消えない。
俺は木の杯に口をつけた。
少し冷たい水が喉を通る。
うまい。
めちゃくちゃうまい。
昨日も思ったが、普通の水がこんなにありがたいものだとは思わなかった。
日本にいた頃、蛇口をひねれば水が出た。
コンビニに行けばペットボトルの水が買えた。
あの生活は、かなりのチートだったのかもしれない。
「助かりました」
「ボソの実でも食べたんだろう?」
「分かるんですか?」
「口の中が乾くからね。あれは腹は膨れるけど、水なしで食べるもんじゃないよ」
先に言ってほしかった。
いや、昨日すでに一度食べて分かっていたのに、夜にまた食べた俺が悪い。
ベラは俺を上から下まで見た。
正確には、腰のあたりを見た。
「それと、これだ」
そう言って、ベラは畳んだズボンを差し出した。
俺のズボンだった。
昨日まで、尻の部分が焼け焦げ、穴が開き、村人の視線を集め続けた問題のズボンである。
それが、きちんと縫われている。
尻の部分には布が当てられ、糸でしっかり補強されていた。
しかも、そこだけ少し分厚い。
「おお……」
思わず声が漏れた。
ズボンだ。
ちゃんとズボンになっている。
穴がない。
尻が出ない。
人間に戻れる。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはいいけどね、また破ったら裁縫代は別だからね」
「気をつけます」
「本当に気をつけな。アンタのズボン、尻のところだけ何があったんだってくらい傷んでたからね」
「いろいろありまして」
「その“いろいろ”は、聞かないでおいてあげるよ」
ありがたい。
聞かれても困る。
説明したらもっと困る。
俺は藁小屋の中でズボンを履いた。
腰紐を締める。
布が尻を覆う。
それだけのことなのに、すごく安心する。
人間は服を着る生き物だ。
俺はこの二日で、その当たり前を骨身に染みて理解した。
「よし」
俺は立ち上がった。
スースーしない。
村人の視線を気にしなくていい。
堂々と道を歩ける。
これで俺も、ただの怪しい旅人くらいには戻れたはずだ。
お尻丸出しの怪しい旅人から、ただの怪しい旅人へ。
昇格である。
いや、昇格と言っていいのかは分からない。
だが、大きな前進だ。
そう思った瞬間だった。
俺は、ふと気づいた。
魔法はどうなる?
火は尻から出る。
水も尻から出る。
風も尻から出る。
収納も、尻の近くが入口と出口になる。
鑑定も、尻から光が出る。
では、その尻が布でしっかり覆われたらどうなる?
俺は試しに、藁小屋の隅に落ちていた藁を見た。
小さな一本である。
鑑定魔法を使う必要はない。
見れば分かる。藁だ。
だが、試すにはちょうどいい。
俺は小屋の外にベラがいないことを確認し、尻に魔力を集めた。
鑑定。
小さく念じる。
次の瞬間、脳裏に情報が流れ込んできた。
---
麻布。
古い布。
縫い目は補強されている。
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「ズボンを鑑定してどうする」
思わず声が出た。
鑑定したかったのは藁だ。
だが、尻から出るはずの光が、目の前の藁まで届かず、ズボンの布に当たったらしい。
結果、俺は自分のズボンを鑑定した。
異世界チート能力の使い道として、かなり地味である。
いや、地味というか悲しい。
だが、分かった。
布は邪魔になる。
当たり前だ。
普通の魔法使いだって、杖の先に布をかぶせたら魔法が出にくいだろう。
俺の場合、その杖の位置が非常に問題なだけである。
直ったズボンは、俺を人間に戻してくれた。
そして、魔法使いとしての俺を封じた。
人間らしさと魔法の使いやすさは、同時には手に入らないらしい。
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