答えのないもの
視界が揺れていた。
声が、遠い。
何か叫んでいるのは分かるのに、意味までは届かない。
血の匂いだけが、やけに鮮明だった。
「止血急げ!」
誰かの声が弾ける。
次の瞬間、脇腹に焼けるような痛みが走った。
息が詰まる。
何かを考えるより先に、意識が曖昧になる。
視界の向こうで、白い天井がゆっくりと流れていく。
「ルカ!!」
ダリオの声だった。
そこで、意識が途切れた。
―――
目を開けた瞬間、脇腹に激痛が走った。
「っ……!」
思わず息が漏れる。
視界に映ったのは、見慣れた白い天井だった。
薬品の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
医務室。
そう理解した瞬間、身体を起こそうとして、すぐに力が抜けた。
「馬鹿!!起き上がるな!」
怒鳴り声が飛ぶ。
椅子が勢いよく鳴って、ダリオが立ち上がっていた。
「お前なぁ……!」
「あと少し深かったら、普通に死んでたぞ!」
その顔には、隈が落ちている。
明らかに、まともに眠っていない顔だった。
ルカはぼんやりと瞬きをした。
「……何日」
「三日」
即答だった。
「丸三日寝てた」
ルカは天井を見上げる。
三日。
思っていたより、ずっと長い。
脇腹の痛みが、生きているという事実だけを残酷に突きつけてくる。
ダリオは大きく息を吐いた。
「心臓に悪いんだよ」
怒鳴っているようでいて、どこか力が抜けていた。
声の端が、わずかに震えている。
ルカは小さく目を伏せた。
「……すみません」
「ほんとだよ」
即答だった。
ダリオは呆れたように言いながら、視線を逸らす。
けれど、その横顔はどこか張り詰めていたものが抜け落ちたようでもあった。
「……ほんと、勘弁してくれ」
小さく漏れた声だけが、やけに優しかった。
ダリオは小さくため息をつくと、椅子を引いた。
「……ちゃんと休めよ」
それだけ言って、報告書を手に取り、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
一人になると、急に静かだった。
医務室の時計だけが、小さく音を刻んでいる。
その規則的な音が、やけに遠く感じた。
ルカは目を閉じる。
浮かんでくるのは、ヴァルシオンの金色の目だった。
その奥に、イサナの涙が重なる。
『この人しか、もういないの……!』
声だけが、何度も頭の奥で繰り返される。
何が正しくて、何が間違っているのか。
考えるほど、分からなくなる。
「……討てなかった」
小さく零れた声は、誰にも届かず、静かな部屋へ溶けた。
―――
扉が開く。
クロードだった。
ルカの顔を見た瞬間、わずかに肩の力が抜ける。
「……生きてたか」
「何とか」
クロードはベッド横の椅子へ腰を下ろした。
その動きはいつもより少しだけ重い。
珍しく、疲れが顔に出ている。
ルカはぼんやりと視線を向けた。
「槍どうなった」
クロードの目が、一瞬だけ落ちる。
「……駄目になった」
短い沈黙。
やがてクロードが口を開く。
「悪かった」
低い声だった。
ルカは瞬きをする。
「何が」
「お前、死にかけてただろ」
クロードは視線を壁へ逃がす。
「止めきれなかった」
ルカは少しだけ黙る。
「クロードのせいじゃない」
「でも、俺弱かったしな」
珍しく、自嘲の色が混じっていた。
ルカは視線を落とす。
「俺こそ、ごめん」
ぽつりと零れた。
「勝手な行動をした」
クロードは何か言いかけて、やめる。
一拍置いて、クロードはゆっくりと首を振った。
部屋には、時計の音だけが淡々と響いている。
やがてクロードは小さく息を吐いた。
「あと、クレア試験官が」
「合否は保留だってよ」
ルカはわずかに視線を上げる。
「保留?」
「沙汰待ちだと」
クロードは面倒そうに頭を掻いた。
「まあ、あんなの普通の課題じゃねぇよ」
その言葉の中に、あの森の光景が一瞬だけ重なる。
ヴァルシオンの圧。
空気ごと押し潰されるような感覚。
ルカは小さく目を閉じた。
―――
数日後。
「だから安静にしろって!!」
医務室に、ダリオの怒鳴り声が響いた。
ルカは廊下に出たまま、わずかに視線を逸らす。
「じっとしてる方が、余計考える」
「だからって抜け出すな!!」
ダリオの声は怒っているのに、どこか必死だった。
ルカは最近、よく医務室を抜け出していた。
横になると、あの森の光景が勝手に浮かぶ。
そのたびに、呼吸が浅くなる。
動いていた方が、見なくて済む。
「少しだけ」
ルカがダリオを見る。
ダリオは大きく息を吐いた。
「傷が痛むなら、すぐ戻れよ」
その言葉だけは、怒鳴り声よりずっと静かだった。
ルカは小さく頭を下げると、そのまま歩き出した。
―――
本部の廊下は静かだった。
夕方の光が、窓から薄く差し込んでいる。
中庭では、クレアがベンチに座っていた。
一人で資料に目を落としている。
ルカの気配に気づくと、静かに視線だけを上げた。
「傷は」
「まあまあです」
クレアはわずかに眉を寄せる。
「医務室を抜け出したそうですね」
ルカは気まずそうに視線を逸らした。
短い沈黙が落ちる。
風が一度だけ、中庭を抜けていった。
やがてルカが口を開く。
「……ヴァルシオン達、どうなりました」
クレアは資料から目を上げずに答えた。
「現在、別班が追跡中です」
「既に痕跡は薄く、難航しています」
ルカは小さく目を伏せる。
「軽率な行動を取りました」
クレアはただ静かにルカを見ている。
「貴方が1人で行動しようとした時、気がついていました」
風が止まったように、空気がわずかに静まる。
「どう判断し、どう行動するか」
「そして、その後どうするか」
一つずつ、確認するように続く声だった。
「それを見る試験でした」
ルカの呼吸が、少しだけ浅くなる。
「試験官として記録はします」
「ですが、その選択自体を断じるつもりはありません」
言い切ったあと、クレアはそこで初めて言葉を止めた。
ルカは何も言えなかった。
その沈黙の中で、クレアがふと口を開く。
「考えは、まとまりましたか」
唐突な問いだった。
ルカは一瞬、言葉を失う。
夜の廊下でした会話が、不意に脳裏をよぎった。
何を言うべきか迷ったあと、ゆっくりと口を開く。
「余計、分からなくなりました」
正直な答えだった。
クレアは否定も肯定もしない。
「人間も、悪魔も」
「思ってたより、ずっと分かんないです」
言い切ったあと、ルカは小さく息を吐く。
クレアはしばらく黙っていた。
それから、クレアは静かに言葉を続けた。
「今回、貴方は命の危険に晒されました」
淡々とした声だった。
「私の介入判断が、遅かったせいもあります」
ルカがわずかに顔を上げる。
クレアは視線を逸らさないまま続けた。
「悪魔祓いを、やめてもいいんですよ」
「誰も責めません」
静かな声だった。
その言葉のあと、クレアはほんの一瞬だけ視線を伏せた。
ルカは少し、考える。
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「……分からないこと、いっぱいあります」
「整理つかないことも」
視線を落としていたが、やがて窓の外へ向ける。
夕陽が、本部の石壁を赤く染めていた。
その色はやけに静かで、現実感だけが強かった。
「でも」
小さく息を吐く。
「考えるのは、やめたくありません」
クレアはしばらくルカを見つめていた。
その表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
「……では」
静かな声が落ちる。
「考えて、
考えて、
考えて下さい」
クレアはゆっくりと視線を窓の外へ向けた。
「悪魔祓いは、その繰り返しです」
夕陽が石造りの廊下を照らしていた。




