夢から醒めて
夜だった。
村の集会所には、小さな灯りだけが揺れている。
静かだった。
人の気配はほとんどない。
机の上に、手記が置かれていた。
昏睡した悪魔祓いたちのものだ。
ルカはそれを手に取り、ページをめくる。
嫌な文章だった。
ルカは無意識に息を止める。
指先がわずかに強く紙を押した。
隣でクロードが地図を広げる音がした。
紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「夢へ落ちる瞬間に接触してる。なら本体は近い」
ルカは視線を地図へ移した。
村の周囲には森と花畑、川が広がっている。
どれも決め手に欠けて見えた。
「夢側から探るしかないな」
ルカが言った瞬間、すぐにクロードが被せるように言う。
「囮は俺がやる」
ルカは即座に顔を上げた。
「いや。俺がやる」
一瞬だけ、空気が止まる。
クロードの眉がわずかに動いた。
露骨に嫌そうな顔になる。
「お前また無茶する気か」
「違う。今度は大丈夫だ」
ルカは真っ直ぐに言い返した。
声は落ち着いていた。
以前のような揺れは、もうない。
クロードはルカを見たまま、すぐには返さなかった。
ほんの数秒の沈黙が落ちる。
それから、諦めたように息を吐いた。
「……分かった」
呆れと納得の間の声だった。
「じゃあ、俺が起こすから」
ルカは小さく頷いた。
その瞬間だった。
「深度次第では、帰還不能になります」
クレアが静かに口を開いた。
「戻るタイミングを誤らないで下さい」
ルカはもう一度だけ頷く。
クレアはそれ以上何も言わなかった。
ルカは椅子に腰を下ろしたまま、ゆっくりと息を吐いた。
背もたれに体重を預け、天井を一度だけ見上げる。
「……行く」
短く呟く。
すぐ隣で、クロードが槍の位置を確かめた。
起こすための距離を保ったまま、壁にもたれる。
クレアは少し離れたところで、二人を見ていた。
―――
ルカは静かに目を閉じる。
呼吸がゆっくりと深くなっていく。
意識が沈む。
音が、ひとつずつほどけていくように消えていった。
気づけば、境目が分からなかった。
風が頬を撫でる。
目を開くと、そこは花畑だった。
白い花が、どこまでも揺れている。
柔らかな陽射し。
暖かい風。
痛みも、恐怖もない。
ただ、穏やかだった。
ルカは周囲を見渡す。
花畑の奥に、人影があった。
一人の男が、そこに座っている。
見覚えのある外套。
見覚えのある横顔。
膝の上には、小さなスケッチブック。
白い花畑を、静かに描いている。
ルカの記憶の中の姿と、ほとんど変わっていない。
それが、かえって現実味を失わせていた。
「久しぶりだな」
穏やかな声だった。
懐かしいはずの声なのに、少しだけ遅れて届く。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……ああ」
ルカは短く答える。
男は筆を止めずに、花畑へ視線を向けたまま言った。
「ここは静かだ」
「苦しくない」
「戻ってこなくてもいい」
その言葉は、優しすぎた。
ルカは男を見る。
少しだけ目を細めた。
「……アンタは、そんなこと言わない」
風が吹いた。
白い花が一斉に揺れる。
その時だった。
花畑の中心だけ、揺れ方がわずかに違って見えた。
風に合わせて周囲の花は揺れている。
なのに、そこだけほんの僅かに遅れる。
ざわり、と。
何かが脈打ったような錯覚が走った。
ルカは目を細める。
視線が自然とそこへ向かった。
白い花の奥。
そこだけ空気が揺らいで見える。
陽炎のように歪み、景色がぼやけていた。
「……っ」
胸の奥がざわつく。
ルカは息を止めた。
ここだ。
そう思った瞬間だった。
足元がわずかに沈む。
ルカは反射的に視線を落とした。
地面が蠢いている。
白い花の下から、黒い手が伸びていた。
一本ではない。
二本、三本。
次々と現れた腕が、泥のように足へ絡みつく。
冷たい。
足首を掴まれた感触と同時に、体が下へ引かれた。
花畑の下へ沈んでいく。
『行かないで』
耳元で声がした。
一つではない。
幾つもの声が重なっている。
眠り続ける村人たちの声だった。
『ここなら苦しくない』
『もう痛くない』
『ずっと一緒にいられる』
黒い腕がさらに増える。
服を掴み、肩へ絡みつき、逃げ道を塞いでいく。
白い花が揺れた。
花畑そのものが、ルカを引き留めようとしているようだった。
『もう頑張らなくていい』
声が耳にまとわりつく。
胸が痛んだ。
ほんの一瞬だけ、足が止まりそうになる。
ルカは奥歯を強く噛んだ。
「それでも」
足に絡みつく腕を掴み、力任せに引き剥がす。
黒い泥が弾けるように散った。
「起きろ!」
叫びと同時に、白い花畑が大きく揺れた。
現実へ引き戻すように、景色がひび割れる。
白が砕ける。
景色が崩れる。
遠くで誰かが叫んでいた。
声だけが、やけにはっきりと近づいてくる。
―――
「ルカ!」
クロードの声だった。
ルカは勢いよく目を開く。
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
全身が鉛のように重かった。
それでも、意識ははっきりしている。
「村外れ……花畑……!」
掠れた声を絞り出す。
クロードは即座に立ち上がった。
「行くぞ」
迷いのない声だった。
二人は集会所を飛び出した。
夜の村を駆ける。
冷たい風が頬を打った。
月明かりに照らされた道を抜ける。
人影はない。
村は眠ったように静まり返っていた。
その先だった。
村外れに、一面の花畑が広がっている。
白い花が風に揺れていた。
月光を受けた花弁が、淡く光って見える。
夢で見た景色と同じだった。
綺麗だった。
息を呑むほどに。
静かで。
穏やかで。
どこか、帰りたくなくなるほど。
不意に、クロードが足を止めた。
「……いたな」
その視線の先。
花畑の中心で、何かが脈打っていた。
白い花に埋もれるように横たわる肉塊。
繭にも見えた。
生き物にも見えた。
弱々しく収縮と膨張を繰り返している。
その表面が微かに裂けた。
隙間から、声が漏れる。
「どうして」
掠れた声だった。
「皆、幸せだったのに」
風が吹く。
白い花が揺れる。
「苦しくなかった」
「何も、失わずに済んだ」
その声は責めるようでもなく、怒るようでもなかった。
ただ理解できないと訴えているようだった。
クロードは槍を構える。
一切の迷いはない。
「だから駄目なんだろ」
クロードが踏み込んだ。
一閃。
槍が、肉塊の中心を貫いた。
その瞬間だった。
花畑全体が大きく揺れた。
白い花が波のようにざわめく。
やがて端から崩れ始めた。
花弁が灰のように砕け、夜風へ溶けていく。
肉塊の表面にも亀裂が走った。
音もなく裂ける。
悲鳴はない。
ただ静かに形を失い、月明かりの下で黒い泥へと崩れていった。
クロードは槍を引き抜く。
一度だけ穂先を払った。
「終わったな」
ルカは短く頷いた。
―――
村に、人の声が戻っていた。
泣き声と、笑い声と、名前を呼ぶ声が入り混じっている。
ついさっきまでの静けさが嘘みたいに、空気がざわついていた。
目を覚ました人々が、少しずつ現実へ戻っていく。
「ありがとう……!」
泣きながら、ルカへ頭を下げる女がいた。
それに続くように、抱き合って泣いている家族もいる。
けれど。
その中で、一人の老人だけは、椅子に座ったまま動かなかった。
その姿だけが、喧騒から切り離されているようだった。
「……どうして」
掠れた声だった。
老人は震える手を、ゆっくりと握りしめる。
「やっと、妻に会えたのに」
ルカの表情が止まる。
老人の頬を、涙がゆっくりと伝った。
拭おうとする動きはない。
ただ零れていく。
「もう一度だけで、よかったんだ……」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
ルカは言葉を失う。
視線を落とす。
どう返せばいいのか分からないまま、ただ俯いた。
その沈黙を断ち切るように、声が落ちた。
「現実は、優しくありません」
クレアの声だった。
淡々としている。
いつもと変わらないはずの声音。
けれど、その言葉だけがやけに重く落ちた。
ルカは顔を上げる。
クレアは老人から視線を外していた。
けれど。
その横顔だけ、少し疲れて見えた。
―――
村を出る頃には、空が白み始めていた。
背後からは、目を覚ました村人たちの声が途切れ途切れに届いてくる。
笑い声。
泣き声。
安堵の声。
混ざり合ったそれらが、朝の空気に溶けていく。
ルカの胸の奥には、小さな棘のような感覚が残っていた。
本当に、これでよかったのか。
救えたはずのものと、救えなかったものの境目が、まだ曖昧なままだった。
隣を歩いていたクロードが、ふと口を開く。
「納得いかない顔してんな」
ルカはすぐには答えなかった。
白み始めた空の下、冷たい風だけが二人の間を通り抜けていく。




