表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

守ったはずだった

 「返事するな!」

 クロードの鋭い声に、ルカははっと息を呑んだ。

 喉まで込み上げていた返事を、奥歯を噛んで無理やり飲み込む。

 その横では、母親が涙を流しながら森の奥へ手を伸ばしていた。

「そこにいるの……!」

 震える指先の先。

 暗い木々の隙間に、人影が立っていた。

 異様に細長い影だった。

 枝のように痩せた腕が不自然な角度で垂れ下がり、じっとこちらを見ている――ように見える。

 だが、顔だけは認識できなかった。

 見えたと思った瞬間には、もう形が違う。

 子供にも、大人にも見えるはずなのに、目を凝らすほど、ただの黒い影へ戻っていく。

「お母さん」

 その声だけが、不気味なほど優しかった。

 呼ばれた母親の身体がぴくりと震える。

 一歩。

 また一歩。

 引き寄せられるように前へ出ようとする。

 ルカは咄嗟にその肩を掴んだ。

「行かせません!」

「離して!」

 女は泣きながら激しく身を捩る。

「あの子が呼んでるの……!」

 縋るような声だった。

 本当にそこに我が子がいると信じ切っている声だった。


 その時だった。

「ルカ」

 森の奥から、再び声が響く。

 胸の奥が軋んだ。

 反射的に顔を上げる。

 暗闇の向こうで、黒い影がゆらりと揺れていた。

「こっちだ」

 その声を、ルカは知っていた。

 遠い昔の記憶。

 一人で膝を抱えていた自分へ、そっと手を差し伸べてくれた人の声だった。

 懐かしかった。

 胸の奥に沈んでいた記憶が引き上げられていく。

 あの時と同じ声。

 同じ優しさ。

 そこへ行けば、もう一度会える気がした。

 足が、わずかに前へ出そうになる。

 ――違う。

 ルカは強く奥歯を噛み締めた。

 これは違う。

 あの人が、こんな場所で自分を呼ぶはずがない。


 腰の剣を引き抜く。

 銀色の刃が夜気を裂き、冷たい光を放った。

 黒い影が揺れる。

 まるで愉快そうに笑ったように見えた。

「ふざけるな」

 ルカは剣先を真っ直ぐ向ける。

「勝手に使うな」

 吐き捨てた、その瞬間だった。

 黒い影が揺らめく。

 速い。

 気づいた時には、もう影は目の前にいた。

「下がれ!」

 クロードの怒声が飛ぶ。

 同時に、槍が一直線に突き出された。

 鋭い一撃だった。

 空気を裂きながら放たれた穂先が、黒い影を正確に捉える。

 だが。

 影の輪郭が水面のように歪んだ。

 穂先はわずかに掠めただけで、その身体を貫くことはできない。

 ルカは影から距離を取った。

 影の中心が大きく脈打った。

 どくん、と。

 まるで生きた心臓のように。

「……核か」

 クロードが低く呟く。

 次の瞬間、森の気配が変わった。

『寒い』

 声が響く。

『痛い』

 ひとつではない。

『助けて』

『置いていかないで』

 無数の声が重なり合い、頭の奥へ直接流れ込んでくる。

 鼓膜ではなく、脳へ囁かれているみたいだった。

 ルカは思わず顔を歪めた。

 胸の奥を掻き回されるような不快感に、息が詰まる。


 母親がその場へ崩れ落ちた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 影がゆっくりと腕を伸ばす。

 狙いは母親だった。

 ルカは反射的に前へ出る。

 剣を構える。

 遠い。

 届かない。

「ルカ!」

 クロードの叫びが響く。

 間に合わない。


 そう悟った瞬間、ルカは迷いなく左手を剣で裂いた。

 鋭い痛みが走る。

 傷口から溢れた血が滴り落ち、湿った土の上へ赤い染みを広げた。

「――こっち見ろ!」

 叫ぶ。

 影の動きが止まった。

 母親へ伸びていた腕が、ぴたりと静止する。

 そして。

 ぐるり、と。

 首だけが異様な動きで回った。

 向けられた先は、ルカだった。

 顔はない。

 目も口も存在しない。

 それなのに。

 笑った気がした。


『……ルカ』

 声がした。

 近い。

 耳元へ直接囁かれたかのような距離だった。

『また一人か』

 胸の奥が強く揺れる。

 懐かしいはずの声なのに、吐き気がした。

『こっちへ来い』

 優しい声だった。

 だからこそ気持ち悪かった。

 思い出を真似ただけの偽物。

 ルカは剣を握る手に力を込め、影を睨み返した。


 クロードが小さく舌打ちする。

「馬鹿が……!」

 吐き捨てるように言いながら槍を構える。

 その瞬間、黒い影が動いた。

 細長い腕が音もなく伸びる。

「右へ飛べ!」

 クロードの叫びに、ルカは反射的に地面を蹴った。

 直後、黒い腕がさっきまで立っていた場所を薙ぎ払う。

 轟音が響いた。

 木の幹が紙みたいに裂ける。

 生まれた隙を逃さず、クロードが踏み込んだ。

 重心を落とし、一気に間合いを詰める。

 槍が走る。

 無駄のない一撃だった。

 狙いは中心。

 脈打つ黒。

 鋭い穂先が、黒い核を深く貫いた。


 その瞬間だった。

 耳の奥が裂けるような悲鳴が溢れ出す。

『嫌だ』

『痛い』

『助けて』

『帰りたい』

 子供の声。

 女の声。

 老人の声。

 男の声。

 幾重にも重なったそれが、頭の中をかき乱す。

「……っ」

 ルカは思わず顔を歪めた。

 視界の中で、黒い影が崩れ始める。

 輪郭がほどけるように歪み、形を保てなくなっていく。

 泥のように崩れ落ち、そのまま森の土へと染み込んでいった。

 あとには、何も残らなかった。


 静寂だけが落ちる。

 風が葉を揺らす音だけが、やけに大きく響いていた。

 ルカは荒い息を吐いた。

「……終わった、のか」

 返事はない。

 その沈黙が、逆に現実を押しつけてくる。

 代わりに。

「あの子……」

 背後で、母親の笑い声が聞こえた。

 ルカの背筋が凍る。

 振り返る。

 焦点の合わない目で、虚空を見つめている。

「あの子がね……帰ってくるって……」

 掠れた声が、風に混じる。

 指先が何かを探すように、ゆっくりと宙を彷徨っていた。

 悪魔は消えた。

 それなのに。

 女はまだ、声を聞いていた。

「……そんな」

 ルカの声が掠れる。

 守ったはずだった。

 確かに、倒した。

 なのに。

 女は壊れたままだった。


 足音が近づく。

 振り向くと、クレアが立っていた。

 黒い外套が夜風に揺れている。

「討伐完了を確認しました」

 淡々とした声だった。

 ルカは唇を噛む。

「まだ終わってないだろ……!」

 クレアは答えないまま、女へ視線を向けた。

 一瞬だけ。

 本当に僅かに、目を伏せたように見えた。

「侵食が深すぎました」

 事実だけを読み上げるような声。

「救助は困難だったと判断します」

「でも、生きてる……!」

「……はい」

 短い肯定。

「ですが」

 クレアは一拍置く。

「元には戻りません」

 ルカは、言葉を失った。

 母親だけが、空虚な声で笑い続けていた。

「……クソが」

 クロードが低く吐き捨てる。

 視線だけ一度、母親に向けて、すぐに逸らした。

 クレアは静かに口を開く。

「……本件の合否は後ほど通達します」

 淡々と続ける。

「候補生は本部へ戻ること」

 それだけ言って、クレアは踵を返す。

 黒い外套が、夜の森へ溶けていった。


 ルカは動けなかった。

 助けたはずだった。

 守ったはずだった。

 なのに。

 胸の奥に、言葉にならないものだけが残る。


 母親の笑い声だけが、静かな森へ響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ