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死者の声

「今朝、見つかりました」

 掠れた村長の声が、重たい空気の中へ沈んだ。

 広場の中央には、粗末な布を掛けられた人影が横たわっている。

 村人たちは遠巻きに立ち尽くしていた。

 誰も近づこうとはせず、互いに目を合わせることすら避けている。

 ただ、張り詰めた沈黙だけが広場を覆っていた。


「……見るか?」

 隣でクロードが低く言った。

 ルカは無言のまま頷く。

 村長は震える手で布の端を掴むと、ゆっくりとそれをめくった。

 その瞬間、ルカの呼吸が止まった。

 横たわっていたのは、中年の男だった。

 胸元は大きく裂け、抉れた肉の奥から乾いた血が黒くこびりついている。

 服は血で固まり、傷口は目を背けたくなるほど無残だった。

 なのに。

 顔だけは、不自然なほど穏やかだった。

 苦痛に歪んだ様子はない。

 まるで、幸せな夢でも見ながら眠っているみたいだった。


「昨夜、森へ入った者です」

 村長は死体から目を逸らしたまま、震える声で言った。

「死んだ妻の声が聞こえたと……そう言って、家を出ました」

 その言葉に、周囲の村人たちが一斉に俯く。

 広場は静まり返っていた。

 泣く者はいない。怒鳴る者もいない。

 ただ、重苦しい沈黙だけがそこにあった。

 もう何度も、同じ光景を繰り返してきたのだと分かる空気だった。

「典型的な誘導型だな」

 クロードが低く呟く。

 死体を見る目は冷静だった。

「感情に触って誘い込むタイプの悪魔だ」

 ルカは返事をしなかった。

 視線が死体から外れない。

 胸を抉られて死んだはずなのに、まるで救われたみたいな顔で眠っている。

 気づけば、強く握った拳へ爪が食い込んでいた。


「本件を、悪魔祓い最終試験第一課題とします」

 静かな声が広場へ落ちた。

 ルカが顔を上げる。

 黒い外套を纏った女――クレアが、死体の傍らへ立っていた。

 感情の見えない横顔だった。

 目の前に無残な死体があっても、表情は一切変わらない。

 ただ事実だけを確認し、淡々と告げているような声だった。

「対象は、“死者の声”を用いる悪魔です」

「候補生には、発生源の特定及び討伐を行ってもらいます」

 死体を前にしても、クレアだけは一度も目を逸らしていなかった。

「現在までに三名が消息不明」

 静かな声が続く。

「発生は夜間に集中しています」

「試験官」

 クロードが口を開いた。

 クレアが視線を向ける。

「発生源は森側で確定ですか」

「高確率で」

 短い返答だった。

 クロードは小さく息を吐く。

「なら、夜を待つべきだな」

「推奨します」

 淡々としたやり取りだった。


 その時だった。

「あ……」

 小さな声が、広場の端から漏れる。

 全員がそちらを振り向いた。

 若い女だった。

 やつれた腕が胸元を強く掴み、涙で濡れた顔のまま、村の外れを見つめている。

「……聞こえる」

 掠れた声だった。

 女はふらりと一歩前へ出る。

「お母さん」

 震える唇から、縋るような声が零れた。

「帰ろうって……」

 その視線の先にあるのは、森だった。

 昼間だというのに薄暗い木々の奥。

 風に揺れる枝葉の隙間が、まるで口を開けて待っているみたいに見えた。


 ルカは反射的に足を踏み出す。

 だが、その腕を強く掴まれた。

「行くな」

 クロードだった。

「離せ」

「死体見ただろ」

 低い声が耳元へ落ちる。

「胸抉られて終わりだぞ」

 ルカは顔をしかめた。

「でも――」

「助けたいなら、まず戻ってくる方法考えろ」

 クロードの目は真っ直ぐだった。

「感情で突っ込むな」

 掴む手に力が入る。

「次はお前がそこに転がる」


 正論だった。

 分かっている。

 頭では、ちゃんと。

 それでも。

 森へ向かって歩いていく女の背中は、あまりにも危うかった。

 泣きながら、誰かの声へ引かれるみたいに歩いていく。

 誰も止めない。

 止められないのか、もう諦めているのかも分からなかった。

 このまま放っておけば、あの女は二度と戻ってこない。

 そんな予感だけが、ルカの胸を強く締めつけていた。


「候補生」

 静かな声が背後から落ちた。

 ルカが振り向く。

 クレアは森の方を見据えていた。

「声をかけられても、返事はしないでください」

 淡々とした声だった。

 止めもしない。

 かといって、背中を押すわけでもない。

 ただ、生き残るために必要なことだけを告げている。

 その冷静さが、逆にルカの胸を焦らせた。

 女の背中は、もう森の入り口へ辿り着こうとしている。

 ルカは奥歯を強く噛み締めた。

「……っ、クロード!」

 掴まれていた腕を勢いよく振り払う。

「おい!」

 背後でクロードの声が飛ぶ。

 だが、もう止まれなかった。


 ルカはそのまま森へ駆け込む。

 湿った土の匂いが鼻を刺した。

 冷たい空気が肺へ流れ込む。

 暗い木々の奥へ、女の背中が消えていく。

「待ってください!」

 湿った地面を蹴り、ルカは必死に追いかけた。

 枝葉を掻き分け、ようやく女の背中へ手が届く。

 肩を掴まれた女が、はっと振り返った。

 涙で濡れた顔だった。

「離して……!」

「ダメです!」

 ルカは咄嗟に声を張る。

 女は首を振った。

「だって、あの子がいるの!」

 掠れた声だった。

 それでも、その瞳だけは必死に何かへ縋っている。

「帰ろうって……一人は嫌だって……!」

 その瞬間だった。

「お母さん」

 森の奥から、幼い声が響く。

 女の身体がびくりと震えた。

 ルカの背筋にも冷たいものが走る。

 暗闇の奥。

 木々の隙間の向こう。

 何かがいる。

 姿は見えない。

 それでも、確かに“いる”。


「こっちだよ」

 優しい声だった。

 帰っておいでと誘うみたいな声。

 女が激しく身を捩る。

「聞こえたでしょ!?」

 涙を流しながら、それでも嬉しそうに笑っていた。

「あの子なの……!」

 ルカは言葉を失う。

 あまりにも自然な声だった。

 本当に、死んだ子供がそこにいるみたいに。


「ルカ」

 不意に、別の声が森の奥から響く。

 ルカの足が止まる。

 暗闇の向こう。

 木々の隙間に、誰かが立っていた。

 姿はよく見えない。

 それなのに。

 その声を、ルカは知っていた。


 遠い記憶の奥に沈んでいた声だった。

 小さい頃。

 まだ幼かった自分へ、確かに向けられたことのある声。

「こっちだ」

 優しい声だった。

 ただ、手を差し伸べるみたいに呼んでいる。

 胸の奥がざわつく。

 懐かしさに似た感覚が、思考を鈍らせていく。

 気づけば、ルカは唇を開きかけていた。


 返事を――しそうになった、その瞬間。

 背後で枝を踏み抜く音が響く。

「返事するな!」

 追いついたクロードの鋭い声が、森へ叩きつけられた。

 はっと意識が戻る。

 同時に。

 暗闇の奥で、何かが笑った気がした。

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