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考えろ

 大きな岩が天井から落ちてきた。

 轟音と共に地下水路全体が激しく揺れる。

 水位は今も上がり続けていた。


「候補生ルカ」

 クレアが静かに言った。

 青白い顔だった。

 だが、その目だけは少しも揺れていない。

「候補生クロード」

 濁流の音に掻き消されそうになりながらも、その声は不思議なほどはっきり聞こえた。

「思った選択をしていただいて結構です」

 クロードが顔を上げる。

「この状況ですと、試験の合否には影響しないと思われます」

 岩が落ちる。

 地面が震える。

 それでもクレアは続けた。

「これまでの課題で考えてきた」

 一拍置く。

「悪魔祓いとしての行動を取って下さい」

 クロードの表情が歪んだ。

「ふざけないでください」

 低い声だった。

 怒りとも焦りともつかない、押し殺した声。

「クレア試験官はどうする」

 クレアは答えなかった。

 ただ二人を見ている。

 試験官として。


 ルカは唇を噛んだ。

 クレアの右足を押さえる岩は、時間をかければ退かせそうだった。

 だが、その時間がない。

 悪魔は逃げる。

 子供達の避難もまだ終わっていない。


 ルカは一度だけ目を閉じた。

 耳に入るのは濁流の音と、岩が軋む音だけだった。

 そして目を開く。

 悪魔は少年を咥えたまま遠ざかろうとしていた。

「……俺は悪魔を追う」

 クロードが息を呑む。

 ルカは視線を逸らさない。

 今は悪魔を逃がせない。

 そう決めた。

「クロード」

 それだけ言った。

 クロードの顔がぐしゃりと歪む。

 次の瞬間、拳が壁へ叩きつけられる。

 鈍い音と共に石片が飛び散った。

「……っ」

 何も言わない。

 言えないのだろう。

 やがてクロードは振り返った。

 子供達の背を押しながら、出口へ向かう。


 ルカは悪魔へ視線を戻した。

 濁流はさらに勢いを増している。

 時間はもう残されていなかった。

 地下水路の奥へ向かって駆け出す。

 少年を咥えた悪魔の背を追う。

 水が跳ねた。

 足場は悪い。

 崩落も続いている。

 それでも止まれない。

 悪魔はまだ見えている。

 今なら追いつける。

 だが頭の片隅には、別の光景がこびりついていた。

 岩の下のクレア。

 流れ込む濁流。

 水位さえ下がれば。

 その考えだけが離れない。

 助ける方法はないのか。

 ルカは走りながら必死に探す。


 その時だった。

 視界の端に古い鉄扉が映る。

 崩れかけた石壁。

 錆びついた金属。

 地下水路の管理施設。

 そんな言葉が脳裏を過った。

 だが、悪魔はまだ前にいる。

 ルカは奥へ向かって走り続けた。


―――


 悪魔が振り返った。

 金色の瞳がルカを捉える。

「何故追う」

 ルカは答えない。

 ただ、悪魔の背を追う。

「元の場所へ戻してどうする」

 答える余裕などなかった。

 前だけを見る。

「また苦しむだけだ」

 その言葉すら耳に入らなかった。


 悪魔が急に方向を変える。

 ルカは迷わず踏み込み、一気に距離を詰めた。

 剣が閃く。

 だが悪魔も跳んだ。

 鋭い爪が肩を裂き、熱い痛みが走る。

 それでも気にしない。

 さらに踏み込み、今度は脇腹を切り裂いた。

 血が飛ぶ。

 悪魔が唸った。

 迫る爪が腕を掠める。

 避けられた。

 だが避けなかった。

 少年を傷つけない位置だけを選び、それ以外は押し通す。

 悪魔が後退する。

 ルカは追った。

 早く。

 一秒でも早く。

 間に合わなくなる前に。

 

 悪魔が最後の突進を仕掛けた。

 ルカも前へ出る。

 互いの間合いが一気に潰れた。

 ルカは全身の力を込めて剣を振り抜く。

 悪魔の身体が大きく揺れ、白い毛並みに赤が広がった。

 数歩よろめく。

 それでも牙は少年の服を離さない。

 まるで守るように。

 ルカは息を吐いた。

 一歩、踏み出す。

 金色の瞳が揺れた。

「何故だ」

 かすれた声だった。

「何故――」

 最後まで聞かなかった。

 剣が振り下ろされる。

 悪魔は静かに崩れ落ちた。 


 轟音のような水音だけが残った。

 ルカはすぐに駆け寄り、少年を抱き上げる。

 呼吸はある。

 無事だった。

 安堵が胸をよぎる。

 だが、それに浸る暇はない。

 振り返る。

 クレアの元へ戻らなければ。

 しかし今から引き返しても間に合わない。

 水位は上がり続けている。

 その時だった。

 先ほど見た鉄扉が脳裏を過る。

 地下水路の管理施設。

 水位さえ下がれば――。

「もしかしたら……」

 ルカは弾かれたように駆け出した。

 崩れた石壁を抜ける。

 やがて錆びついた鉄扉が見えた。

 少年を壁際へそっと寝かせる。

 ルカは管理施設へ飛び込んだ。


 古い石造りの部屋だった。

 壁には錆びた歯車と太い鎖が張り巡らされている。

 そして中央には、巨大な鉄製のハンドルが据え付けられていた。

 ルカは息を呑む。

「水門……」

 駆け寄り、両手で掴む。

 力を込めた。

 だが動かない。

「くそっ……!」

 もう一度。

 回らない。

 長い年月放置されていたのだろう。

 錆び付いている。

 ルカは歯を食いしばった。

 クレアの顔が脳裏をよぎる。

 時間がない。

 剣を抜き、ハンドルの隙間へ差し込む。

 全身の体重をかけた。

 肩の傷が痛む。

 腕も悲鳴を上げる。

 それでも止めない。

「動け……!」

 鈍い音が響いた。

 わずかに。

 本当にわずかにハンドルが動く。

 ルカはさらに力を込めた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 傷口が開き、血の匂いが鼻をついた。

 それでも押した。

 回した。

 止まらない。

 やがて巨大な歯車がゆっくりと回転を始める。

 次の瞬間。

 轟音が地下全体を揺らした。

 どこかで大量の水が流れ出していく。

 地鳴りのような音が響く。


 ルカは管理施設を飛び出した。

 少年を抱え、来た道を全力で駆ける。

 足場は悪かった。

 何度も足を取られそうになる。

 それでも止まれない。

 間に合え。

 ただそれだけを願う。

 崩れた通路を抜ける。

 その途中で、水音が変わっていることに気付いた。

 さっきまで耳を埋め尽くしていた濁流の轟きが弱まっている。

 水位が下がっている。

 ルカはさらに速度を上げた。

 やがて空洞へ辿り着き、思わず息を呑む。

 濁流は引いていた。

 足元に残るのは浅い水だけだった。

「クレア!」

 返事はない。

 ルカは少年を寝かせると、崩れた岩の方へ駆け寄った。

 その下で、クレアは動かない。

 全身はずぶ濡れで、白い肌は死人のように青ざめていた。

 目も閉じられたままだ。


 ルカは膝をつく。

 震える手を首筋へ伸ばした。

 頼む。

 頼むから。

 指先が皮膚に触れる。

 何も感じない気がした。

 息が詰まる。

 ほんの一瞬が、永遠のように長かった。

 だが次の瞬間。

 微かな鼓動が指先へ返ってきた。

 脈だった。

 呼吸もある。

 弱い。

 浅い。

 それでも確かに続いている。

 ルカは大きく息を吐いた。

 全身から力が抜けそうになる。

 その時だった。

 遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえた。

 複数の足音が地下水路に反響しながら近づいてくる。

「クレア試験官!」

 クロードの声だった。

 ルカは顔を上げる。

 足音はさらに近づいてくる。

 もう間に合う。

 そう思った瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


 ルカはもう一度クレアを見る。

 青白い顔。

 意識はない。

 それでも。

 まだ生きている。

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