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 地下水路は思っていたより広かった。

 足元には冷たい水が流れ、石壁には苔が張り付いている。

 天井からは一定の間隔で雫が落ち、その音だけが暗闇へ反響していた。

 ランタンの灯りは頼りなく、周囲の闇をわずかに押し返しているだけだった。


「妙に広いな」

 クロードが辺りを見回しながら言った。

「昔の治水設備でしょう」

 クレアが答える。

 三人は慎重に進んだ。

 しばらく歩いた時だった。

「これ……」

 不意にルカが足を止める。

 ランタンを掲げると、壁一面に落書きが残されていた。

 丸や線。

 歪な人の顔。

 子供が描いたのだろう、意味の分からない絵がいくつも並んでいる。

 その中に混じるように、文字があった。

『かえりたくない』

 ルカの視線が止まる。

 少し離れた壁にも書かれている。

『ここがいい』

 さらに奥にも文字が残されていた。

『おかあさんより』

 その先は続いていなかった。

 クロードが眉を寄せる。

 誰も何も言わなかった。

 ただ、地下水路に響く水音だけが妙に大きく聞こえる。


 さらに奥へ進む。

 通路の端には古びた玩具が転がっていた。

 泥で汚れているが、子供の持ち物だったのだろう。

 ルカは視線だけを向け、そのまま歩を進める。

 やがて足元に白いものが落ちているのが見えた。

「……毛か」

 しゃがみ込み、それを拾い上げる。

 長く柔らかな白い毛だった。

「近いな」

 クロードが低く呟く。

 ルカも黙って頷いた。

 痕跡はまだ新しい。

 三人は警戒を強めながら、さらに地下水路の奥へと進んだ。


―――

 

 地下水路は、やがて大きな空洞へと繋がっていた。

 足を踏み入れた瞬間、ルカは思わず息を呑む。

 そこには失踪した子供達がいた。

 十人以上はいるだろう。

 ぼんやりと天井を見上げている子もいる。

 膝を抱えて座っている子もいる。

 それだけの人数がいるというのに、不気味なほど静かだった。

 誰も騒がない。

 誰も笑わない。

 誰も泣かない。

 ただそこにいるだけだった。

 そして側には、一体の獣型の悪魔が横たわっていた。

 大人の数倍はありそうな巨体。

 白い毛並みは雪のように美しい。

 だが、地面へ投げ出された前脚には異様なほど鋭い鉤爪が並び、その姿にわずかな不気味さを与えていた。

 子供達はその身体へ寄りかかるように集まっている。

 まるで親に縋る子供達のようだった。

 やがて悪魔がゆっくりと目を開く。

 金色の瞳がこちらを向いた。

 その瞬間、ルカは違和感を覚える。

 瞳の中に、さらに瞳があった。

 金色の虹彩の奥で、小さな瞳が幾重にも重なり合うように揺れている。

 見つめられているはずなのに、何人もの視線を同時に向けられているような感覚だった。

 背筋に冷たいものが走る。


「いたな」

 クロードが槍を構えた。

 だが悪魔は立ち上がろうとしなかった。

 ただ静かにこちらを見ている。

 無数の瞳を宿した金色の目が、三人を順番に見つめていた。

「子供達を返せ」

 ルカが言う。

 悪魔は少しだけ首を傾げた。

「返して、どうする」

 低い声だった。

 巨体から発せられたとは思えないほど静かな声。

 悪魔は続ける。

「元の場所へ戻すのか」

 ルカは言葉を失った。

 父親から暴力を受けていた少年。

 育児放棄されていた少女。

 孤児院から姿を消した子供。

 調査で聞いた話が脳裏を過る。

 悪魔は子供達へ視線を向けた。

「ここは暖かい」

 白い毛並みに寄り添う子供達は誰も反応しない。

「ここは苦しくない」

 ただ当たり前のように、その身体へ身を預けている。

「ここは一人じゃない」

 その言葉だけを聞けば、子供達が求めていた居場所そのもののようだった。

 クロードが低く息を吐く。

「だからって」

 槍を構え直す。

「お前に渡す理由にはならねぇ」

 悪魔の目が細くなった。


 しばらくの沈黙が落ちる。

 やがて悪魔はゆっくりと立ち上がった。

 白い毛並みに身体を預けていた子供達が離れる。

 巨大な身体は子供達を踏まないよう位置を変え、そのまま静かに向き直った。

 金色の瞳がルカ達を見据える。

「この子達は、帰りたいと言ったか」

 答えを待つつもりはないのだろう。

 白い巨体が地面を蹴った。

「来るぞ!」

 クロードが迎え撃つ。

 激しい衝突音が空洞へ響いた。

 ルカも横へ回り込む。

 悪魔は応じるように身を翻し、自然と子供達から離れていった。

 その隙を逃さず、クレアが動く。

 ルカは戦いながら視線だけを向けた。

 クレアは子供達の元へ駆け寄る。

「こちらへ」

 静かな声。

 子供達は抵抗しなかった。

 言われた通り立ち上がり、言われた通り歩く。

 そこに自分の意思はほとんど感じられない。

 クレアは子供達を戦闘に巻き込まれない位置へ誘導していく。


 その間にも、クロードは一気に踏み込んだ。

 槍が唸りを上げる。

 狙いは前脚。

 だが悪魔も速かった。

 白い巨体が横へ跳び、鋭い穂先を紙一重でかわす。

 次の瞬間、鉤爪が振り下ろされた。

 クロードは半歩だけ後ろへ退く。

 爪が石床へ突き刺さった。

 轟音と共に石が砕け、破片が辺りへ飛び散る。

「ルカ!」

 呼ばれる。

 言葉を待つ必要はなかった。

 ルカはすでに動いている。

 悪魔の側面へ回り込み、剣を振るった。

 白い毛並みが裂ける。

 鮮血が飛んだ。

 悪魔が唸り声を上げる。

 巨体が反転した。

 今度はルカへ爪が迫る。

 だが、その軌道へ割り込むように槍が走った。

 クロードの一撃だった。

 穂先が肩口を掠める。

 悪魔はたまらず後退した。

 二人は追う。

 クロードが槍で進路を塞ぐ。

 悪魔が避ける。

 その先へ、待っていたようにルカの剣が走る。

 一撃。

 また一撃。

 白い毛並みに新たな傷が刻まれていく。

 逃げ場を潰しながら、少しずつ。

 確実に。

 悪魔を追い詰めていった。


 不意に悪魔の視線が揺れた。

 金色の瞳が何かを探すように動く。

 そして向いた先。

 避難した子供達だった。

 その中に、まだ幼い少年が一人いる。

 他の子供達と違い、完全には感情を失っていない。

 虚ろな目をしている。

 それでも、その手だけは小さく震えていた。

 嫌な予感がした。

 悪魔の身体が動く。

「っ!?」

 クロードが目を見開いた。

 悪魔はルカ達を見ていなかった。

 真っ直ぐ少年を見ている。

「止まれ!」

 槍が放たれる。

 だが止まらない。


 クレアが即座に杭を放った。

 黒い杭が悪魔の影へ突き刺さる。

 次の瞬間、巨体が硬直した。

 影が地面へ縫い付けられる。

「止まりなさい」

 静かな声が響く。

 悪魔は動けない。

 ――はずだった。

 だが白い巨体は、なお前へ進もうとした。

 嫌な音が響く。

 肉が裂けた。

 影ごと縫い付けられた部分が引き千切られる。

 白い毛と鮮血が飛び散った。

 それでも悪魔は止まらない。

 まるで痛みなど存在しないかのように身体を捻り、そのまま強引に走り出す。

 次の瞬間。

 巨体が支柱へ激突した。

 鈍い音が空洞に響く。

 石が軋む。

 支柱にひびが走った。

「――っ」

 クレアの表情が僅かに変わる。

 悪魔は止まらない。

 真っ直ぐ子供達の方へ駆ける。

 そして。

 幼い少年へ飛びついた。

 白い牙が服を咥える。

 まるで奪い返すように。

「待て!!」

 ルカは反射的に駆け出した。

 だが悪魔は振り返らない。

 少年を咥えたまま、地下水路の奥へ駆けていった。


 その背を追おうとした瞬間だった。

 頭上から、ぱらぱらと砂が降ってくる。

 ルカは反射的に顔を上げた。

 支柱の根元から小さな石片が剥がれ落ちる。

 石が軋む音が空洞に響いた。

 地下全体がわずかに震える。

 天井へ走っていた亀裂が一気に広がる。

 轟音。

 崩れた石が雨のように降り注ぐ。

「下がって下さい!」

 クレアの声が響く。

 ルカは反射的に振り返った。

 避難させた子供達の上へ、巨大な岩塊が落ちようとしている。

 クレアが黒い杭を放つ。

 岩の影へ突き刺さる。

 次の瞬間、落下軌道が大きく逸れた。

 轟音と共に岩塊が横へ叩きつけられる。

 だが、それで終わりではなかった。

 天井のあちこちで石が砕ける音が響く。

 次々と岩が落ちてくる。

 空洞全体が悲鳴を上げているようだった。


「出口へ!」

 クレアの声が空洞へ響いた。

 ルカはすぐに子供達の方へ駆け寄る。

「走れ!」

 返事はない。

 それでも腕を引けば、子供達は素直に立ち上がった。

 クロードも動いている。

 崩れ落ちる岩を避けながら、出口の方へ子供達を押し出していた。

 ルカも一人の背を押す。

 早く。

 一人でも多く。

 そう思った瞬間だった。

 遠くから低い唸り声が聞こえる。

 思わず振り返る。

 崩れ落ちる岩の向こうに、一瞬だけ白い毛並みが見えた。

「くそっ……!」

 クロードが歯を食いしばる。

 その時。

 空洞の奥から別の音が響く。

 重い水音だった。

 ルカの背筋が凍る。

「地下水……!」

 どこかの壁が壊れたのか。

 濁流が空洞へ流れ込んできた。

 轟音と共に押し寄せた水は、石や瓦礫を巻き込みながら一気に広がる。

「急げ!」

 クロードが叫ぶ。

 子供を抱え上げ、そのまま出口へ向かう。

 ルカも近くにいた子供の手を掴んだ。

 冷たい水が足へぶつかる。

 水位は信じられない速さで上がっていく。

 足元を激しく攫われそうになりながら、ルカは必死に前へ進んだ。


 そこで気付く。

 クレアの姿が見えない。

「クレア試験官!」

 思わず叫ぶ。

 少し離れた場所だった。

 崩れた岩の下で、クレアが子供を庇っている。

 子供は無事だった。

 だが、その代わりにクレアの右足が岩の下敷きになっていた。

 濁流が流れ込んでくる。

 足元の水はすでに膝の高さまで達していた。

 ルカの呼吸が止まる。

 クレアが顔を上げた。

 青白い顔だった。

 それでも、その表情は変わらない。

「候補生ルカ」

 静かな声。

「子供達を――」

 言葉は最後まで続かなかった。

 轟音。

 さらに大きな岩が天井から落ちてくる。

 地下水路全体が激しく揺れた。

 濁流が一気に押し寄せる。

 ルカは思わず足を止めた。


 目の前には子供達。

 岩の下にはクレア。

 そして。

 地下水路の奥では、少年を咥えた悪魔の姿が見えた。

 まだ逃げ切っていない。

 だが、もう遠い。

 このままなら逃げられる。

 クレアを助ける。

 子供達を逃がす。

 悪魔を追う。

 全部はできない。

 ルカは息を呑んだ。

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