残された名前
夜明け前。
森には薄い霧が立ち込めていた。
白く滲んだ木々の奥に、古びた廃教会が静かに姿を見せる。
崩れた鐘楼。
割れたステンドグラス。
半ば朽ちた外壁には黒い染みが広がり、朝の薄明かりの中でも異様な気配を隠しきれていなかった。
肌にまとわりつくような空気。
肺の奥へ入り込むたび、息が浅くなる。
ルカは無意識に喉を鳴らした。
その沈黙を切るように、クレアが静かに口を開く。
「対象確認後、私とロザリア試験官が前へ出ます」
感情を抑えた、いつも通りの声だった。
「貴方達は補助を」
その視線がルカへ向く。
「杭は、近づいてきた悪魔へ使って下さい」
ルカは小さく頷いた。
「……はい」
返事をしながらも、視線は廃教会から離せなかった。
あの中に、ノエルがいる。
―――
ロザリアが、ゆっくりと教会の扉へ手をかけた。
軋む音。
重い扉が押し開かれる。
次の瞬間。
むせ返るような血の匂いが、教会の奥から流れ出した。
「……っ」
ルカは思わず眉をひそめる。
喉の奥へ張り付くような臭気だった。
薄暗い教会の中へ視線を向ける。
祭壇の前。
そこに、いくつもの生首が並べられていた。
綺麗に円を描くように配置されている。
まるで、何かの儀式みたいだった。
割れたステンドグラスから、朝の薄い光が差し込む。
その淡い光が、生首の輪だけを静かに照らしていた。
誰かが、小さく唾を飲み込む。
その音だけが、妙に大きく聞こえた。
祭壇の奥に、ノエルが一人立っていた。
黒い外套は床へ脱ぎ捨てられている。
森で見た時は肘までだった黒い羽が、今は鎖骨の辺りまで広がっていた。
首には、いくつもの契約痕が刻まれている。
皮膚へ黒い紋様が食い込むみたいに浮かび上がっていた。
ノエルが、ゆっくりと顔を上げた。
薄暗い教会の中で、その目だけが妙に鮮明に見える。
「来たんだ」
静かな声だった。
ロザリアが一歩前へ出る。
手の中で鞭が低く鳴った。
「迎えに来たのよ」
軽い口調。
いつもの調子に近い。
けれど、その目はまったく笑っていなかった。
視線は鋭く、少しも油断していない。
その隣で、クレアは何も言わない。
ただ静かに、黒い杭を握っていた。
クレアとロザリアが、慎重に距離を詰めていく。
床へ散らばった血を踏む音だけが、小さく響いた。
ルカ達は入り口付近で待機する。
教会の空気そのものが、張り詰めていた。
息を吸うことさえ、躊躇うような静寂。
次の瞬間。
ノエルの姿が、視界から消えた。
「っ!」
激しい金属音が教会へ響く。
鎌と杭が正面からぶつかり、火花が散った。
クレアの身体が後ろへ滑る。
床を削る音。
そこへ間髪入れず、ロザリアの鞭が空間を裂いた。
鋭い風切り音。
だが、ノエルはそれを回転するような動きで避ける。
黒い羽が、視界の端で揺れた。
速い。
目で追えているはずなのに、動きが繋がらない。
影が揺れるたび、空気そのものが軋むようだった。
その異様な気配に気を取られた瞬間だった。
天井裏から、何かが落ちる音。
「来るぞ!」
エドの叫びと同時に、黒い影が頭上から降ってきた。
小型悪魔だった。
獣みたいに歪んだ身体。
濁った目。
裂けた口から、粘つくような息を漏らしている。
床へ着地した瞬間、甲高い鳴き声が教会へ響いた。
一体だけじゃない。
壁の隙間。
崩れた天井。
光の届かない暗がり。
黒い影が、次々に這い出してくる。
「……っ」
ルカが息を呑む。
その直後、ノクトの矢が飛んだ。
鋭い音と共に、一体の頭を正確に貫く。
悪魔が崩れ落ちるより早く、クロードが前へ出た。
槍が低く構えられる。
次の瞬間、横薙ぎの一閃。
迫っていた悪魔達が、まとめて吹き飛ばされた。
床へ叩きつけられた悪魔が、不快な悲鳴を上げる。
その隙に、ルカはクレアから渡された杭を掴んだ。
床へ突き立てる。
硬い音。
刻まれた紋様が、淡く光を帯びた。
次の瞬間。
近づこうとしていた悪魔達の動きが、目に見えて鈍る。
まるで見えない壁に怯んだみたいに、足が止まった。
「……効いてる!」
エドが叫ぶ。
クロードは迷わず、その隙へ踏み込んだ。
槍が一直線に突き出される。
一体の悪魔を貫き、そのまま後方の影ごと押し潰した。
ルカは息を吐く間もなく、もう一本の杭を取り出した。
教会の奥では、クレアとロザリアがノエルと激しくぶつかり合っている。
杭と鎌がぶつかるたび、鋭い火花が散った。
その度に、視界の端で黒い影が揺れる。
だが、そちらへ意識を向けている余裕はなかった。
小型悪魔が次々に這い出してくる。
低い唸り声。
床を引っ掻く爪の音。
気を抜けば、一瞬で押し潰される数だった。
ルカは杭を握り直す。
クレア達へ近づけさせない。
戦闘の邪魔をしない。
今、自分達がやるべきことは、それだった。
次の瞬間、周囲の悪魔が一斉に襲いかかってくる。
エドが前へ踏み込み、双剣を振るった。
銀色の軌跡が走る。
飛び込んできた悪魔の身体が、そのまま横へ裂け飛んだ。
「多っ!?」
叫びながらも、エドの動きは止まらない。
その頭上を、ノクトの矢が鋭く通り抜ける。
一体。
また一体。
正確に急所を射抜き、悪魔を床へ崩れ落としていく。
その時。
羽音が、頭上で不気味に響いた。
黒ずんだ翼を生やした悪魔が、天井近くからノクトへ飛びかかってくる。
だが、クロードが即座に割り込む。
鋭い踏み込み。
槍の一撃が、悪魔を壁へ叩きつけた。
昨日みたいな、無茶な突撃じゃない。
ちゃんと見えていた。
誰を守るべきか。
どこを支えるべきか。
ルカは床へ杭を打ち込む。
刻印が光り、悪魔達の進路がわずかに乱れた。
そこへ、ノクトの矢が通る。
悲鳴。
崩れる影。
少しずつ。
確実に、押し返していた。
―――
鎌と鞭がぶつかる鋭い音が、教会の奥から響く。
その度に、空気が震えた。
悪魔を牽制しながら、ルカはそちらへ視線を向ける。
ノエルの視線が、クレアとロザリアの間をゆっくり動いていた。
「……面倒ね」
小さく吐き捨てるように呟く。
その声には、苛立ちが滲んでいた。
次の瞬間。
ふいに、ノエルがこちらへ向く。
ルカ達へ。
背筋を、嫌な感覚が走った。
「なら」
ノエルを覆う黒い羽が、うねるように広がった。
「先に、そっちを潰す」
「ルカ!!」
クレアの鋭い声が響く。
だが、その時にはもう遅かった。
ノエルの姿が掻き消える。
次の瞬間には、目の前だった。
「っ――」
速い。
反応が、僅かに遅れる。
傷も、まだ完全には塞がっていない。
身体が追いつかない。
黒い鎌が振り上げられる。
狙いは、首。
避けきれない。
刃が、皮膚へ触れた。
その瞬間。
ノエルの動きが止まった。
距離が近い。
刃が触れる寸前のまま、時間だけが切り取られたように静止する。
そこで初めて、ノエルはルカの顔を見た。
僅かに、目が見開かれる。
「あんた……」
ルカは息を呑んだ。
ノエルの声は、掠れていた。
「兄さんが描いてた子に、少し似てる」
一瞬。
空気が、完全に止まる。
その隙を、誰よりも早くクレアが切り裂いた。
放たれた杭が、ノエルの影を貫く。
「っ……!」
ノエルの動きが、わずかに止まる。
その一瞬を逃さず、ロザリアの鞭が走った。
黒い鞭がノエルの身体に絡みつき、そのまま強引に動きを封じる。
ノエルが暴れた。
教会の床が軋み、空気が歪む。
だか、拘束は緩まない。
ノエルの唇が、わずかに歪んだ。
「……兄さん」
クレアが杭を構える。
狙うのは核。
振り下ろそうとして――ほんの一瞬、動きが止まった。
だが次の瞬間には、もう振り抜かれていた。
杭が、ノエルの身体へ打ち込まれる。
鈍い衝撃。
ノエルの身体が、大きく震えた。
黒い羽が宙に散る。
崩れるように、光を失っていく。
クレアは刺さった杭を引き抜いた。
ノエルの身体が、力を失ってその場に崩れ落ちる。
それと同時に、小型悪魔たちも砂のように形を崩していった。
音が消えた。
静寂。
誰も、すぐには動けなかった。
―――
クレアは、その場に立ち尽くしていた。
杭を握ったまま、指先だけが微かに震えている。
やがて、力が抜けるように膝が崩れ、その場に座り込んだ。
それきり、動かない。
その時。
ノエルの胸元から、小さなネックレスが滑り落ちた。
ルカは、ゆっくりとそれを拾い上げる。
指先で開く。
中に収められていたのは、一枚の写真だった。
穏やかに笑う青年と、その隣で笑う幼いノエル。
その顔を見た瞬間。
ルカの呼吸が、喉の奥で止まった。
記憶が、不意に浮かぶ。
『楽しみに、待ってるよ』
ルカと交わした、あの約束。
悪魔祓いの声。
ルカは無意識に唇を開いた。
「……セドリック」
小さく、名前だけが漏れた。




