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残るもの

 ノエルが去ったあとも、森には重い静けさが残っていた。

 ルカはその場に立ったまま、すぐには動けなかった。

 胸の奥に残る余韻が、まだ戦闘の続きのように身体を縛っている。

 息を吐こうとして、うまくいかない。


 しばらくして、木々を掻き分ける音が近づいた。

 現れたのはロザリア達だった。

「信号弾、見えたけど」

 エドが周囲を見回し、すぐに眉をひそめる。

「……何だ今の気配」

 その問いに答えるように、クレアが短く言った。

「逃がしました」

 それだけで状況は伝わるのか、ロザリアは小さく息を吐く。

「接触したのね」

 クレアは頷く。

「対象は、この先へ移動した可能性が高いです」

 ロザリアは地図を広げ、指先で現在地を確認したあと、森の先を見た。

「この先に廃教会があるわ」

 視線が少しだけ鋭くなる。

「潜伏するなら、そこが自然ね」

 空はすでに夕暮れを過ぎ、夜の色に沈み始めていた。

 森の奥は昼よりも、さらに不気味に見えた。

 ロザリアは空を一度見上げると、静かに言った。

「夜の憑依型って、結構面倒なのよねぇ」

 軽い口調のはずなのに、内容は軽くない。

「視界悪い中で突っ込むのは、おすすめしないわ」

 クレアは短く頷いた。

「朝まで待機します」

 一拍置いて、続ける。

「襲撃は夜明け後」

 その判断に、誰も異を唱えなかった。


 森の静けさだけが、そのまま夜へ落ちていった。


―――


 その夜。

 一行は森の開けた場所で、簡易的な野営をしていた。

 焚火が、静かに揺れている。

 交代で見張りをすることになった。

 エドは横になると、すぐに寝息を立て始める。

 ノクトは木に背を預けたまま、焚火の火をぼんやりと見ていた。

 クロードは少し離れた場所で、槍の手入れをしている。

 金属を拭く動作は一定なのに、その目だけはどこか落ち着いていなかった。

 ノエルの言葉が頭に残っているのが、ルカにも分かる。

 けれどクロードは、それを振り払うように、黙々と手を動かしていた。


 明日に備えなければならない。

 それだけが、今のルカに残された答えだった。


 エドの寝息を聞きながら、ルカは外套に包まる。

 焚火の熱が、ゆっくりと遠のいていく。

 目を閉じても、さっきの森の光景がすぐには消えなかった。


―――


 誰かに肩を叩かれた。

 薄く目を開く。

「交代だ」

 ノクトの声だった。

 焚き火はすでに小さく、火の色も弱っている。

 ルカはゆっくりと体を起こす。

 その横で、クレアはすでに目を開けていた。

 眠っていなかったのか、それとも最初から眠るつもりがなかったのか分からない。

「異常なし」

 ノクトはそれだけ言うと、簡単に背を向けた。

 焚き火の明かりから外れ、寝床へと消えていく。

 入れ替わるように、クロードが焚き火の前に腰を下ろした。

 だが、その動きはどこか重かった。

 見張りは終わったはずなのに、肩の力は抜けていない。

 むしろ、火の前に来てからの方が、表情は固くなっている。

 焚き火の揺れる光が、横顔の影を濃くする。

 ルカは声をかけた。

「……寝ないのか」

 クロードはすぐには答えなかった。

 ただ、炎を見ている。

 視線が動かない。

 火の揺れに合わせているようで、何も追っていない。

 やがて、小さく息だけが漏れた。

「……眠れると思うか?」

 問いというより、独り言に近い声だった。

 ルカは言葉を詰まらせる。

 クロードはそれ以上何も言わない。

 その横顔は、任務へ向かう道中よりもずっと硬かった。

 少し迷ったあと、ルカは口を開いた。

「……あまり焦るな」

 クロードの視線が動く。

 焚き火越しに、真っ直ぐルカを見た。

「焦って当然だろ」

 低い声だった。

「何もできなかったんだから」

 ルカは一瞬、言葉を失う。

 クロードはすぐに視線を火へ戻した。

「前回もそうだ」

「今回だって、結局何もできなかった」

 拳がわずかに握られる。

「目の前にいたのに」

 吐き捨てるような声だった。

 ルカは眉をひそめる。

「相手が悪すぎた」

 自分でも、苦し紛れだと分かる言葉だった。

 だがクロードは即座に返す。

「だから何だよ」

 思った以上に鋭い声だった。

「相手が強かったら仕方ないって言うのか」

 ルカは口を閉じる。

 違う。そういう意味じゃない。

 そう思っているのに、言葉が形にならない。

 クロードもそれ以上は何も言わなかった。

 ただ焚き火を見つめたまま、沈黙が落ちる。

 焚き火の薪が、小さく爆ぜた。

  

 静寂が落ちた頃になって、

「……あくまで私個人の考えです」

 クレアが静かに口を開いた。

 クロードが顔を上げる。

「聞き流していただいても構いません」

 クレアは焚き火の揺れを見つめたまま続けた。

「焦りは、必ずしも悪いものではないと思います」

 静かな声だった。

「ただ、一度立ち止まり、自分の力を最も活かせる場所を考えることも必要です」

 クロードは何も言わない。

 言葉を飲み込んでいるのか、ただ受け取れていないのかも分からない。

 クレアは事実だけを重ねるように続ける。

「貴方は、それができる人材だと評価しています」

 焚き火の火が揺れる。

「これまでの課題記録を見た上での判断です」

 言い終えると、クレアは口を閉じた。

 沈黙が戻る。

 クロードは火を見つめたまま動かない。

 ただ、さっきまでの張り詰めた空気は少しだけ薄れているように見えた。

 ルカは肩をすくめる。

「今のお前に必要なのは」

 クロードが視線だけ向ける。

「俺達に見張りを代わらせて、すぐ寝ることだろ」

 一瞬だけ、クロードの表情が崩れる。

 呆れたような、それでいて少し力の抜けた顔だった。

「……うるせぇ」

 だが、その声から先ほどの刺々しさは消えていた。

 クロードは立ち上がる。

「先に寝る」

「ああ」

 短く返す。

 クロードは寝床へ向かい、そのまま横になる。

 焚き火の向こうで、布が擦れる音がした。

 しばらくして、小さく寝返りを打つ気配が落ち着いていく。

 ルカは焚き火へ薪をくべる。

 火が一段、明るくなる。

 森は相変わらず静かだった。

 

 何も話さないまま、時間が少し経った。

 焚き火だけが、一定の間隔で小さく音を立てている。

 クレアは荷物の中から、黒い杭を数本取り出した。

「これを」

 ルカへ差し出す。

 一瞬だけ迷ってから、ルカはそれを受け取った。

 金属特有の冷たさが掌に広がる。

 表面には細かな刻印が刻まれていた。

 ただの武器ではないことが、触れただけで分かった。

「小型悪魔避けです」

 クレアが静かに言う。

「周囲へ打ち込めば、多少近づきにくくなります」

 ルカは杭を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。

「……ありがとうございます」

 クレアは小さく頷いた。

 それから、また静かになる。

 焚き火の火が揺れ、枝のはぜる音だけが間を埋めていた。

 ルカはしばらく黙っていた。

 けれど、頭の中にはずっと同じ言葉が残っている。

『兄さんを戻せるって』

 ルカは小さく息を吐いた。

「……ノエルの話、頭から離れなくて」

 クレアは何も言わず、火を見ていた。

 ルカは少しだけ視線を落とす。

「兄さんって、誰なんですか」

 クレアはすぐには答えなかった。

 わずかに目を細める。

 そして、静かに口を開いた。

「私の新人時代の試験官でした」

 淡々とした声だった。

「ノエルの兄でした」

 ルカは少し目を上げる。

「……亡くなったんですか」

 短い沈黙。

 焚き火が、ぱちりと音を立てた。

 クレアは火を見たまま答えた。

「私の判断で」

 それだけだった。

 けれど。

 その短い言葉が、妙に重かった。

 ルカはその言葉を頭の中で反芻する。

 判断。

 その一言で、人の死が片づけられていることに、違和感が残った。

 しかし、何も言葉が出てこなかった。

 ルカは口を閉じる。

 クレアはそれ以上追わず、淡々と続けた。

「ノエルは、兄を強く慕っていました」

 静かな声だった。

 ルカは焚火を見る。

 揺れる火が、どこか落ち着かなかった。

 少し迷う。

 聞くべきではない気もした。

 それでも、口が先に動いた。

「……蘇らせたいって、思うんですか」

 言ってから、ほんの少しだけ後悔が遅れて来る。


 夜風が、焚き火の熱をかすめていった。

 炎が一瞬だけ揺れて、すぐに元に戻る。

 やがて、クレアは口を開いた。

「考えないと、言ったら嘘になります」

 ルカがわずかに顔を上げる。

 クレアは手元に視線を落とし、静かに続けた。

「ノエルが契約した気持ちも、理解できてしまいます」

 その声は、いつもより少しだけ弱かった。

 ルカは何も言えない。

 言葉を挟めば、何かが壊れてしまいそうだった。

 クレアは一度だけ目を閉じる。

「……ですが」

 そこで言葉が途切れる。

 続きは、出てこない。

 焚き火の音だけが、静かな夜へ響いていた。


 しばらくして、クレアはゆっくりと立ち上がった。

 その動きには、先ほどまでの揺らぎはもう残っていない。

 いつもの、感情の薄い表情だった。

「明日は討伐です」

 静かな声が、夜気の中に落ちる。

「そろそろ、見張り交代の時間ですね」

「ロザリア達を起こして、休みましょう」

 ルカは小さく頷いた。


 ルカは手の中の杭を見つめた。

 冷たい金属の感触が、まだ掌に残っている。


 明日。

 ノエルを討伐する。


 その事実だけが、静かに胸の奥へと沈んでいた。

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