壊れる者
任務地までは、半日ほどの距離だった。
森沿いの街道を、一行は進んでいく。
空は曇っていた。
日差しは弱く、森の影がやけに濃く見えた。
前を歩くロザリアが、資料を片手に口を開く。
「今回の対象は、元悪魔祓いノエル」
「契約悪魔との接触後、消息不明」
淡々とした声だった。
「現在、悪魔祓い襲撃事件の容疑者よ」
少し間を置いて続ける。
「契約悪魔は、憑依型」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
ノクトが静かに口を開く。
「……身体強化系か」
ロザリアが頷く。
「完全憑依されると、一気に厄介になるわ」
資料を閉じる音が、小さく響いた。
「だから、その前に止める」
ルカは一瞬だけクレアを見た。
クレアは相変わらず無表情のまま、前を向いている。
その横で、クロードが槍の点検をしていた。
柄を握り直し、穂先を確かめる。
エドがそれを横目で見て、口元をゆるめた。
「珍しく静かだな」
クロードは少し黙った。
それから、小さく口を開く。
「……次は、挽回しないと」
クロードは視線を前に戻したまま続ける。
「前回、何もできなかった」
短い言葉だった。
エドは少しだけ困ったように笑う。
「真面目かよ」
軽い言い方だった。
だがクロードは、それを否定しなかった。
―――
襲撃現場は、森外れの廃集落だった。
崩れた家屋が並び、乾いた血が地面に黒く残っている。
ノクトが周囲を見回す。
「……戦闘跡がある」
ロザリアは言葉を返さず、その場にしゃがみ込んだ。
血痕に指先を軽く触れる。
「新しくはないわね」
その声を聞きながら、ルカは足を止めた。
視線の先。
壁際に、一人倒れていた。
悪魔祓いの制服。
だが――
首から上が、なかった。
風が一度だけ通り抜ける。
それきり、音が途切れたように静かになる。
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
ロザリアが静かに立ち上がった。
「……やってるわね」
軽い言葉のようでいて、視線は周囲の痕跡から外れない。
ルカは無意識に唾を飲み込む。
「範囲が広いわ」
ロザリアは森の奥へ視線を向ける。
「二手に分かれましょ」
その言葉に、クレアは短く頷いた。
「私達は東側を確認します」
ロザリアはエドとノクトに視線を移す。
「了解。私達は西側ね」
エドとノクトがそれぞれ武器を握り直す。
「何かあったら信号弾」
ロザリアが軽く手を振る。
三人は森の奥へ踏み出す。
枝が揺れ、足音が薄くなり、すぐに姿が見えなくなる。
―――
東側の森は、異様に静かだった。
鳥の声はない。
風さえ、どこか遠い。
湿った土の上に、薄い血痕だけが続いている。
ルカはその跡を目で追いながら歩いていた。
前を行くクロードの背中は、やけに早く見えた。
クレアの声が落ちる。
「候補生クロード」
クロードの足が止まるのを、ルカは横目で見た。
空気が一瞬だけ重くなる。
「前へ出過ぎです」
クロードが振り返る。
「……すみません」
短く言って、距離を少し戻す。
ルカはその背中を見たまま、息を潜めるように歩く。
その時だった。
草木が擦れる、乾いた音。
クロードが反射的に槍を構える。
ルカもすぐに視線を向けた。
森の奥。
木々の隙間が、ゆっくりと開くように揺れる。
そこから現れたのは、長い黒髪の女だった。
黒い外套。
その手には巨大な鎌。
指先から肘まで黒い羽が、腕にまとわりつくように覆っている。
人間の形をしているのに、どこかが決定的に違う。
ルカは息を呑んだ。
女は、クレアを見た。
わずかに口元が動く。
「……久しぶり」
静かな声だった。
クレアは視線を逸らさないまま、短く返す。
「ええ」
ノエルの視線が、次にルカ達へ流れた。
軽く、値踏みするような目だった。
「新人連れてるんだ」
「随分、偉くなったのね」
クレアは表情を変えない。
「貴女こそ」
少し間を置いて、続ける。
「随分変わりました」
ノエルは小さく笑った。
けれど、その目だけは笑っていない。
「変わらないと、やってられなかったから」
空気が、そこで一段重くなる。
ルカは無意識に、剣へ手を伸ばしていた。
「候補生ルカ」
クレアの声が落ちる。
指先が、途中で止まる。
「貴方は前線禁止ですよ」
視線は前を向いたまま。
それでも言葉だけが、はっきりと届く。
「補助に徹して下さい」
ルカは一度だけ息を止めた。
「……はい」
悔しさを押し込めるように、ルカは剣から手を離した。
クレアはノエルを真っ直ぐ見ていた。
「戻って下さい」
静かな声だった。
「まだ、間に合います」
ノエルの表情が、少しだけ止まった。
それから、息を吐くように笑った。
「……今さら?」
掠れた声だった。
「兄さんが死んだ時」
「誰も止まらなかったのに」
ルカはその言葉に、無意識に視線を上げた。
兄さん。
その単語だけが、やけに耳に残る。
ノエルは続ける。
言葉は、淡々としているのに重かった。
「次の任務」
「その次の任務」
一つずつ、確かめるように並べていく。
「皆、何もなかったみたいに進んでった」
鎌を握る手に、わずかに力が入る。
「壊れる奴も」
「死ぬ奴も」
そこで一度、息が止まる。
「消耗品みたいだった」
クレアは答えない。
ただ、視線だけを外さない。
ノエルは少し笑った。
悲しさを隠せていない笑いだった。
「それでも続けろって?」
「貴女らしい」
その言葉が落ちた瞬間だった。
ノエルの姿が、視界から消える。
ルカが息を吸うより早く、クレアが動いていた。
杭が放たれる。
火花が散り、金属同士がぶつかる重い音が森に響いた。
速い。
ルカの目では、動きの全部を追えない。
次の瞬間、ノエルの鎌がクレアの喉元をかすめていた。
クレアは無駄な動きを一つもせずに、それを避けると、そのまま影へ杭を打ち込む。
ノエルは避けることなく、そのまま地面ごと強引に踏み抜いく。
土が砕け、音が遅れて響く。
ルカは息を呑んだ。
視線の先で、戦いはすでに次の段階に入っている。
自分が割って入れる領域じゃない。
今の自分がやるべきことは。
ルカは腰の信号弾へ手を伸ばす。
迷いはなかった。
そのまま空へ向けて撃ち上げる。
赤い光が、森の上空で弾けた。
クロードが一歩踏み出そうとしていた。
「下がって下さい!」
クレアの声は短く、鋭かった。
その一言で、クロードの足が止まる。
次の瞬間。
ノエルの鎌が、クロードが踏み込もうとしていた地面を大きく抉った。
土が弾け、遅れて重い音が響く。
ルカは息を呑む。
今の一撃が、少しでもずれていたら。
そう考えたところで、背中が冷える。
ノエルの視線が、クロードへ向く。
ほんの一瞬だけ。
すぐに興味を失ったように、その視線はクレアへ戻る。
クロードが、息を詰めるのが分かった。
「……まだ、そんな顔で戦ってるんだ」
ノエルの声は静かだった。
クレアはただ杭を構え直す。
しばらく、沈黙が続く。
2人の呼吸だけが、わずかに空気を揺らしていた。
やがて、ノエルが小さく笑った。
「悪魔は言ったの」
一度、言葉が区切られる。
「魂を集めれば、兄さんを戻せるって」
ルカは、息を止めた。
「だから契約した」
静かな声だった。
ノエルの視線が、クレアを刺す。
「貴女だって、兄さんに戻ってきてほしいでしょ」
クレアは答えない。
ただ、杭を握る手にだけ、わずかに力が入った。
それを見たノエルが、少しだけ目を伏せて笑った。
「……やっぱり、変わらない」
その時だった。
森の奥から、複数の気配が近づいてくる。
ノエルがそちらへ視線を向ける。
わずかに目を細めた。
「まだ、完全じゃないのよね」
小さく息を吐くと、鎌を下ろす。
「今回は退く」
それだけ言って、背を向けた。
次の瞬間には、もうそこにいなかった。
黒い影は、森の奥へ溶けるように消えていく。
ルカは、ようやく息を吸った。
さっきまで止めていたことに、今になって気づく。
肺の奥まで空気が入ってくるのが、少し遅れて理解できた。
空気はまだ重いままだった。
誰もすぐには動かなかった。




