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第3章 - 悪魔との契約

周囲の状況に無知であることを選ぶ奴らはドブネズミだ。弱者や苦しんでいる人々を認めようとしない臆病者だ、とずっと思っていた。そうした連中に関われば自分の生活が脅かされると恐れているからだ。だが、現実には無知だったのは私の方だった。一時的とはいえ、ノーラの声を再び聞いた今、ようやく気づいた。誰よりも卑劣なドブネズミは、この私だったのだ。ノーラがあの虐待親の家で苦しんでいたことを知っていたはずなのに……。彼女は、おそらく私よりもずっと過酷な人生と戦っていた。それなのに、彼女は毎日のように愚痴をこぼす私とは違い、決して弱音を吐かなかった。彼女は痛みに立ち向かう道を選び、一人で苦しみ、友人たちを自分の痛みで煩わせない道を選んだのだ。彼女を聖女だと思い込んでいたのも無理はない。私の無知こそが、彼女を死なせた原因だ。私の弱く、無惨な自意識こそが、彼女を死に追いやったのだ。あの地獄から彼女を連れ出す勇気が、プロポーズする勇気が、私にさえあれば……。

今頃はもっとましな場所にいて、愛する女と共に、これ以上ないほど幸せに過ごしていたかもしれない。だが、私は彼女の隣にはいない。ノーラを思い出させる声が響く、この何もない黒い海の中で溺れている。彼女が生きていることを願いながら、現実はそうではない。私の愛した女は死んだのだ。この声の主が何者であれ、そいつは彼女の声を真似ることで、彼女を、そして死者を愚弄している。

かつての私は臆病者で、ただ苦しみを受け入れることしかできなかった。痛みは日常の一部になっていた。だが、もうこれ以上、誰にも私を傷つけさせない。この怪物が、愛した女性を嘲笑うことを、私は決して許さない。

「彼女を愚弄する貴様は何者だ?」私は胸をかきむしり、神にさえ挑む覚悟で言い放った。「お前の問いには答えた。次は俺の問いに答えろ。さもなければ、契約など無しだ」私は毅然として要求した。

冷たく、不快な声が返ってきた。「なぜ、ここから立ち去れると思っている?」

「お前が主導権を握っているとでも思っているのか、小僧?」声が虚無全体に響き渡った。

その瞬間、私は奴の自信の中に明らかな矛盾を見つけた。もし本当に絶対的な支配権を持っているのなら、なぜ奴は待っている? なぜ私に口を利かせている? この声の力は強大だ。想像を絶するようなことも可能だろう。それなのに、奴はこうして交渉に応じている。私は何か重要な「切り札」を見落としている気がした。この存在は明らかに強く、この虚無において絶対的な権威を持っているはずだ。それなのに、わざわざ私に接触を図ろうとしている。私と話す理由など一つもないはずなのに。ひょっとすると、私の中に、こいつに主導権を奪わせない「何か」があるのか。あるいは、この化け物は自分では成し得ない何かを私に求めているのか。

「それほど強大な存在なら、なぜ俺の体を力ずくで奪わない?」私は問い詰めた。

答えの出ない疑問が、一気に脳内を埋め尽くした。この存在は、正面から戦って勝てる相手ではないことは分かっていた。自分では頭が切れる方だと思っていたが、奴の知性は私のそれを遥かに凌駕している。

身体を押し潰すような激しい水圧を感じた。その直後、笑い声が聞こえた。千もの枯れた声が四方八方から反響し、続いて、ゆっくりとした正確な拍手の音が響いた。その音には、相手を完全に見下すような嘲りがこもっていた。私の問いが、奴を心底驚かせた証拠だった。

「賢いな、小僧。これほどちっぽけな生き物のわりには、よくできている」奴は、出来の悪い生徒を褒める教師のような、偽りの慈悲に満ちた口調で言った。

「貴様を乗っ取ることを妨げるものなど、何一つない。小僧、貴様は道具だ。我らに仕えるためだけに存在する道具に過ぎぬ。丁重に扱わねば、貴様の精神も肉体も、我らの強大すぎる力の前に崩れ去ってしまうからな」

「脆弱な人間よ。我らが存在するだけで、貴様の魂と体は霧散してしまうだろう。こうして言葉を交わせていられるだけでも、十分に称賛に値する」

その時、交渉における決定的な「欠陥」に私の意識が集中した。この全能の化け物が誰であれ、契約を成立させるためには私を必要としている。私が最後のピースなのだ。言葉を発しようとした瞬間、声に遮られた。

「その通りだ、小僧。我らは貴様を必要としている。だが、対等としてではない」声は冷徹で、退屈そうにさえ聞こえた。「我らが貴様を求める理由は単純だ。貴様は我らの力を受け止めるための完璧な『器』なのだ。我らの全能の重みに耐えうる、唯一の器だ」

「俺が……必要だって?」声がわずかに震え、身体がさらに重くなるのを感じた。

静まり返った虚無を、おぞましい音が切り裂いた。何千もの錆びついた鉄の門が一斉にこじ開けられるような、金属質の軋み。直後に、その声は響いた。

「そうだ」

私の記憶にある限り、誰かに心から必要とされたことなどなかった。私はいつも、隅に追いやられる側の人間だった。私を必要だと言った数少ない連中も、例外なく裏の目的を持っていた。私はただ、奴らの目的を達成するための操り人形に過ぎなかった。用が済めば、ゴミのように捨てられた。私は完璧な人間ではないが、それでも一人の人間だ。尊敬され、愛され、大切にされたかった。そんな贅沢は、一度として与えられなかった。理屈では分かっていたが、この化け物が「私を必要としている」という事実に、私は必要とされている悦びを感じてしまった。だが、心の奥底では分かっていた。奴らには邪悪な裏の目的があることを。何も考えずにその申し出を受け入れれば、今よりもさらに悲惨な事態になるだろう。

この化け物を出し抜くつもりなら、相手が何者かを知らなければならない。そうでなければ、自分の誓いを果たすことなどできない。

「それほど強力なら、なぜ俺が必要なんだ? 全能の存在なら、何でも自分でできるだろう?」私は、挑発的な笑みを浮かべながら問いかけた。

奴らを出し抜くなら、内面を読ませるわけにはいかない。感情を掴ませるわけにはいかない。

「全能の存在なんだろう? 自分で全部やってのければいいじゃないか」私は笑みを崩さず、もう一度尋ねた。

一瞬、気が遠くなるような沈黙が流れた。自分が完全な虚無の中に漂っていることを思い出させる、不吉な沈黙。奴らの権威を疑ったことで、怒りを買ったことを直感した。 次の瞬間、恐ろしい、一生忘れられない光景を目にした。完全な闇の中から、何千もの血塗られた赤い瞳が私を睨みつけていた。そして、あの声が聞こえた。

「下等な人間が、我らに異を唱えるか。」その咆哮はあまりに巨大で、天上の神々を直接怒らせてしまったかのように感じた。

認めるのは癪だが、その瞬間、彼女の姿が脳裏をよぎった。彼女の笑顔、手の温もり、柔らかな唇。その時、私は死を恐れてはいなかった。むしろ、終わってほしいと願っていた。死後の世界なら、安らぎが見つかるかもしれないと。この化け物を凝視しながら、恐怖は感じなかった。なぜなら、道は二つしかないからだ。こいつに完全に殺されるか、もう一度生きるチャンスを与えられるか。その中間に、選択肢などない。

奴らが私を欲しがっていることは明白だった。彼女の声を真似し、私をここまで連れてきた。これほど古き存在でありながら、なお私と交渉を続けようとしている。それは私の考えが正しいことを証明していた。奴らは、焦っている。奴らの目的を暴くには、絶好の機会だった。

「あんたたちにも、感情があるんだな?」私は怒りに屈することなく問いかけた。

私が次の言葉を発する前に、奴は報復に出た。

「感情だと? 我らに感情を説くか、小僧。道徳的優位に立とうとしている貴様が、病床に伏せる実の母親を見捨てておきながら、皮肉なものだ。愛を自己憐憫と引き換えにしたのは貴様の方だ。我らを裁けるほどの感情など、貴様には残ってはいまい」

残念ながら、その化け物の言う通りだった。私は病床の母を見捨てたのだ。ノーラに夢中になるあまり、生まれた時からずっとそばにいてくれた人を忘れていた。

母の名はキャサリン。すべての人から見捨てられたゴミ溜め、スラム街で生まれた。犯罪者、強姦魔、殺人鬼。社会のクズどもがすべて投げ込まれる場所。高いビルに囲まれた監獄のような場所で、母は育った。祖父母には会ったことがないが、彼女の話を聞く限り、優しい人たちではなかったようだ。 キャサリンもまた、ノーラと同じように蹂躙された被害者だった。彼女は最初から私を堕ろすこともできた。私を排除する方法など、いくらでもあったはずだ。だが、彼女はそうしなかった。私を産み、育て、守る道を選んだ。

私は愚かだった。愛を追い求め、誰かに愛されるという身勝手な夢を追いかける一方で、私を産み育ててくれた人を孤独にさせていた。たった一人の息子は、彼女のそばにいてやらなかった。医療費こそ払っていたが、今思えばもっとできることがあったはずだ。もっと頻繁に会いに行くこともできた。だが、私は自分を滅ぼす道を選んだ。 死ぬ前にもう一度だけ彼女に会い、抱きしめて、謝りたかった……。

言いたいことは山ほどあったが、言葉が出てこなかった。声が出ない。何か小粋で生意気なことを言ってやりたかったが、脳が機能しなくなった。奴らの言葉は、今度は本当に効いた。ノーラの死に対する罪悪感と、キャサリンを見捨てた後悔は、あまりにも重い十字架だった。 私が答えを出す前に、奴は最後のおぞましい光景を見せてきた。

目の前の重苦しい闇の中に、純白の光で描かれた、すべてを見透かすような巨大なニヤけ面がゆっくりと浮かび上がった。そして、奴は契約を持ちかけてきた。

「貴様の気持ちは分かっている。貴様の中の闇は、かつてないほどに深まっている。その痛みを取り去ってやると言ったらどうする? 貴様の心の奥底にある、最も暗い望みをすべて叶えてやると言ったら?」

私は最後の力を振り絞って問いかけた。「……何を与えてくれる?」

奴のニヤけ面が、純白の光を放ちながらさらに広がった。「与えられないものなど、我らにはない」

奴の言葉に引き込まれるのを感じた。痛みを取り除き、ようやく安らぎを得られるという約束。ほんの一瞬、その甘美な嘘に屈しそうになった。

突如として、虚無の押し潰すような暗闇が消えた。私は柔らかな緑の芝生の上、日光の中に立っていた。周囲には穏やかな農場が広がっている。赤い納屋、白い柵、遠くからは家畜の鳴き声が聞こえる。空気は澄み渡り、干し草と温かい土の匂いがした。 そして、彼女を見つけた。ノーラだ。 彼女は質素な綿のドレスを着て、私の記憶にある通りの、混じりけのない満面の笑みを浮かべていた。彼女は手を差し出しながら、私に近づいてくる。これこそが、私がずっと切望していた人生だった。決して手に入らないと思っていた逃避行。私は彼女に向かって一歩踏み出した。

だが、指先が彼女に触れようとした瞬間、世界が崩れ去った。太陽の光は暴力的に消し去られた。 一瞬にして、私は完全な、息の詰まるような闇に包まれた小さな孤立した納屋へと飛ばされた。唯一の明かりは、納屋の入り口だけを照らし出す強烈な街灯の光だけだった。見たくはなかったが、抗えなかった。

私は這うようにして中に入った。空気は埃と、何らかの金属質の匂いで満ちていた。足が凍りついた。 埃まみれの床の中央、街灯の強烈な光の下で、キャサリンが膝をついていた。彼女は物言わぬ遺体を抱き、ゆらゆらと揺れていた。その顔は涙と泥にまみれていた。抱かれているのは、あの質素な綿のドレス。だが、その姿はもう、見る影もなかった。ノーラだった。

「全部、お前のせいだよ」キャサリンは顔を上げずに囁いた。広々とした納屋の中に、虚ろな声が繰り返される。「全部、お前のせいだ」

罪悪感は、虚無の水圧よりも重い物理的な重圧となって私にのしかかった。肺から空気が押し出される。この幻影は、奴からのメッセージだった。「これがお前が失ったものだ。これがお前の弱さが招いた結果だ」と。

私は背を向け、愛した女の遺体を抱く母の姿から逃げ出した。納屋を飛び出し、足をもつれさせながら気づく。足元の床はもう乾いた木ではなく、あの馴染み深い、冷たくて液状の、何もない虚無に戻っていた。

戻ってきたのだ。見渡す限りの黒い闇だけが残っていた。

あの白くニヤけた面が、目の前に浮かんでいる。先ほどよりも巨大になり、闇の中で勝利を確信した光の三日月のように。

「契約を受けるか?」 奴の声が響いた。もはや偽りなどない、冷酷で絶対的な響き。

第3章 終わり


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