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ハムスターになった王子は自らの愚かさを知る  作者: まきぶろ


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3


 エレノアに連れられて、私はグランヴェル公爵家の馬車に乗せられた。

 乗せられた、といっても、王子として丁重に案内されたわけではない。エレノアの両手にすっぽりと包まれたまま、外套の陰に隠されるようにして馬車へ運ばれたのである。

 いつもなら、王家の紋章が入った馬車に乗り、御者や護衛が頭を下げ、必要なら従者が踏み台まで用意して王城に戻る。私はそれを当然のように受け入れていた。

 けれど今の私は、人一人の手のひらにすっぽり包まれてしまうほどの銀色の小さな毛玉である。

 王族としての威厳も、身分も、名前も、何一つ通じない。


 エレノアの手のひらから落ちれば怪我をする。馬車の床に転がれば踏まれるかもしれない。逃げ出したとしても猫か鳥か、名も知らない獣に食われるだろう。

 人間でいる時には、世界がこれほどまでに命を脅かしてくるものだとは思わなかった。

 何もかもが恐ろしくなってしまった私はエレノアの手のひらの中で、なるべく大人しく丸くなっていた。

 ここで暴れて落ちるのは避けたい。かといって、あまりに大人しくしすぎると気味悪く思われてしまうのではないか。いや、普通のハムスターがどれほど大人しく、どれほど暴れるものなのか私は知らない。そもそも王子として、ハムスターの習性に精通している必要などなかったのだから。


 しかし今、私の生存はそのハムスターとしての振る舞いにかかっている。今エレノアに捨てられてしまっては、どう命を繋げばいいのか分からない。つまり、ハムスターとしてエレノアの好感度を稼がねばならない。

 人生とは分からないものだ。

 馬車が揺れるたび、エレノアの指がほんの少し私を支えた。強く握り締めるのではない。逃げられないように拘束するのでもない。ただ、落ちないように添えるだけの指だった。

 その扱いの丁寧さが、また胸に刺さる。

 彼女は、嫌悪感を露わにしてもいいはずだった。

 ハムスターが私だと分からないとして……普通なら、なぜネズミがそこに、自分の机にいたのかと思うだろう。

 それなのにエレノアは何も嫌そうな顔をしない。

 殺されそうになっていた私をただ拾い上げ、外に逃がそうとし、私がしがみつけば連れて帰ることにしてくれた。

 その沈黙が優しさなのか、冷静さなのか、それとも何か別のものなのか、私には分からなかった。

 分からないからこそ、不安だった。


     *


 グランヴェル公爵家の屋敷は、王城ほど大きくはないが、隅々までよく整えられている。王子の体であった時に訪れた時のままだ。

 門をくぐる時、衛兵がエレノアに深く頭を下げる。彼らはおそらく、主人の娘が馬車の中で手のひらに王子を抱えているとは夢にも思っていないだろう。当のエレノアもそんな事思ってはいないだろうが。


 使用人たちもまた、エレノアが連れて帰った小さな生き物を見て、一瞬だけ驚いた顔をした。だが、誰も声を上げなかった。さすが公爵家の使用人である。主人が小動物を持って帰宅しても、動揺して騒がないよう訓練がされているらしい。


「小さな籠を用意してくださる? 扉に掛金があるような」


 エレノアが侍女にそう告げた。


「清潔な布と、水、それからナッツを数種類と……ドライフルーツもあればいいかしら」

「かしこまりました」


 侍女は一礼してすぐに去っていく。

 私はエレノアの手の中で、何とも言えない気持ちになっていた。


 籠。水。ナッツにドライフルーツ。

 どれも、どう考えてもハムスター用の単語である。

 いや、今の私に必要なのは確かにそれだ。水は飲みたい。ナッツも、先ほどから腹が空いている気がする。だが、王子として育ってきた私が、まさか公爵令嬢の部屋で籠とナッツを用意される日が来るとは思わなかった。


 エレノアの部屋に通されると、ほどなくして小ぶりな籠が運ばれてきた。

 籠といっても粗末なものではない。金属部分は磨かれていて、床には柔らかな布が敷かれ、小さな水皿と餌皿が用意されている。餌皿には、ひまわりの種らしきものや他のナッツ類、それにドライフルーツも入っていた。

 至れり尽くせりである。

 婚約者として訪問して客間に迎えられる時より、ハムスターとしての受け入れの方が手際が良いのではないかと思うほどだった。


「狭いでしょうけれど、今は我慢してくださいまし」


 エレノアはそう言い、掛金を外して私を籠の中へそっと下ろした。

 足元の布は思ったより柔らかかった。ほっとした瞬間、自分が本気で布の質に安堵していることに気づき、私は内心で頭を抱えた。私は何をしているのだ。王子だぞ。王子が籠の敷布の質に感謝するな。

 しかし、体は正直である。

 床が柔らかいのはありがたい。私の短い手足は勝手にふみふみと布を揉み始めた。

 それを見て満足したらしいエレノアは籠の扉を閉め、水皿の位置を少し直した。それから餌皿を指先で軽く押し、私が近づきやすい場所へ置き直す。


「お腹が空いているでしょう」


 私は餌皿を見た。地べたに這いつくばって、さらに顔を突っ込んで動物として餌を食べるなんて。

 いや、食べたい。

 しかし、ここで迷わず種を齧るのはどうなのだ。私は王子だ。ついさっきまで人間だったのだ。己の尊厳を保つためにも、せめてもう少し葛藤すべきではないか。

 そう思ったのに、前足はすでに皿を乗り越えて種を掴んでいた。

 小さな両手で器用に種を持ち、香ばしい匂いに耐えられなくなりかり、と齧る。

 美味い。

 悲しいことに、美味い。私はしばらく固まった。

 こんなことで幸福感を覚えてはいけない気がする。だが、恐怖と混乱で酷使された小さな体に、種のほのかな甘みと香ばしさはあまりにも優しかった。


「賢い子ですこと」


 エレノアが静かに言った。私は種を持ったまま顔を上げる。

 こんな優しい声なんて、聞いた事がない。

 いや、考えすぎかもしれない。エレノアは元々、感情を大きく表に出す方ではない。子どもの頃からそうだった。喜ぶ時も、怒る時も、悲しむ時も、いつだって表情の変化はわずかで、それは冷たくすら思えた。

 だから今、微笑んでいるのは私が淑女の仮面をかぶる必要のない小動物しかいないからだ。

 でなければ、婚約者であった私が、エレノアがこんなに優しく微笑む顔を見た事がないわけがない。


 命の不安がなくなった私はハッと思い出した。

 そうだ、自分が、何故かハムスターになってしまったがレオンハルトであると伝えなければ。

 しかしそこまで考えてふと首を傾げた。……この体で一体どうやって伝えればいいのだろうか?


 試しに、足元に落ちている小さな布切れに指で文字を書けないかと思った。だがハムスターの前足というものは、種を持つには適していても、文字を書くにはまったく向いていない。床を掻いてみても、ただ布がよれるだけだった。

 エレノアはそれを見て、わずかに首を傾げる。


「寝床が気に入りませんの?」


 違う。字を書こうとしているのだ。

 私は必死に首を振った。つもりだったが、たぶん小さく体を揺らしただけに見えただろう。


「ちゅ、ちゅちゅ」

「ふふふ。そうなの」


 エレノアは何処か面白がるように頷いた。

 何を納得したのだ。

 私には分からない。

 彼女はそれ以上追及せず、窓辺の椅子に腰を下ろして本を開いた。ああ……行ってしまった。見ていなければ文字を書いて意思疎通を図る事も出来ない。

 部屋に静寂が落ちる。

 紙をめくる音。外から聞こえる鳥の声。遠くで誰かが廊下を歩く音。私が動くたびにかすかに擦れる布の音。


 その静かな時間の中で、私は少しずつ落ち着いていった。

 落ち着いてしまうと、今度は考えたくないことが次々に浮かんでくる。

 あの聖女の声。


『ドブネズミになるはずだったのに』


 あれは、聞き間違いではない。

 彼女は確かにそう言った。いつもの柔らかな聖女の声ではなく、もっと冷たく、苛立った声で。

 では、あの魔法陣は何だったのか。

 私が触れた時に発動したあれは、ハムスターになる魔法だった。いや、聖女の言葉からすると、本当はドブネズミになるはずだったのだろう。だが、なぜそんなものがエレノアの机に仕込まれていたのか。

 ……答えはひとつしかない。

 あれは、エレノアを狙ったものだった。そして、それを仕掛けたのは……。

 そう考えた瞬間、体が冷えた。


 もし私があの机に手を入れなければ、あの魔法にかかっていたのはエレノアだったのではないか。

 エレノアが、ドブネズミに。

 聖女が悲鳴を上げる。

 駆除するよう誘導されて、ライネルが箒を振るい、エリアスが教本を振りかぶる。

 その光景が頭の中で重なり、私はぞっとした。

 つい先ほど私に向けられた殺意まじりの「駆除」は、本来エレノアに向けられるはずだったのかもしれない。

 それに加担させられる者たちは、誰一人気づかなかっただろう。

 エレノアが小さな醜い生き物に変えられたとして、それがエレノアだと誰が分かるのか。聖女が怯えた顔で「ネズミがいる」「恐ろしい病気を持っているかもしれないから逃してはいけない」と叫べば、ライネルは迷わず箒を持っただろう。エリアスは衛生管理と危険性を口にしながら、冷静に駆除を主張しただろう。


 そして私は。

 私は、そこにいたらどうしただろう。

 聖女が怯えている。教室に害獣がいる。

 婚約者の机から出てきた不潔な生き物。

 何も知らない私なら──。


 そこまで考えて、私はかじっていたひまわりの種を落とした。小さな音を立てて、種が布の上に転がる。

 エレノアが本から視線を上げた。


「どうかしまして?」


 私は何も答えられない。いや、言葉にしようとしても「ちゅー」としか音にならないのだが。

 ハムスターだからではない。たとえ人間の姿だったとしても、この瞬間にまともな言葉を返せたか分からなかった。

 私は今、自分の公平というものが、どれほど危うい場所に立っていたのかを思い知り始めていた。


 片方が泣いて訴えた。

 周囲が同調した。

 なら、疑われた側は説明するべきだ。

 そう思っていた。


 だがその前提が嘘だったら?

 訴えた側こそが加害者だったら?

 私は、嘘をついた者に刃を渡し、疑われた者にその刃を受け止めさせようとしていたのではないか。

 エレノアはしばらく私を見ていたが、やがて静かに本へ視線を戻した。

 その沈黙は、私にとって居心地の悪いものだった。


     *


 夜になっても、私は人の姿には戻らなかった。

 寝れば元に戻るのではないか。そんな淡い期待もあったが、目を閉じても、小さな体が睡魔に耐えきれずにうとうとしても、私の体は銀色のハムスターのままだった。

 夜も更けて、籠の中に丸くなりながら、私は籠の中から部屋の明かりが落とされるのを眺めていた。

 婚約者とはいえ、結婚する前に一夜を同じ部屋で過ごすことになるとはなんて不埒な。いや、不可抗力だとは思うのだが、どうにも落ち着かない。


 エレノアは寝支度を終えると、私の籠に布を半分だけかけた。完全に覆うのではないのは、呼吸や採光を考えたのだろう。水皿も確認し、餌皿も少し位置を直してから、彼女は静かに言った。


「おやすみなさい」


 私は思わず顔を上げた。

 おやすみなさい。

 ただそれだけの言葉だった。けれど、今の私にはひどく不思議に聞こえた。

 彼女は私を責めなかった。不潔な害獣を野放しにする迷惑な人物扱いされても、恨み言一つ言わなかった。ただ偶然現れたハムスターを助け、籠を用意し、餌を与え、眠る前に声をかけた。


 私は彼女に何を返しただろう。

 説明を求めるつもりで、ほぼ決めつけている手紙。

 胸の奥が重くなる。

 眠ろうとしても、なかなか眠れなかった。

 小さな体は疲れている。恐怖と逃走と混乱で、限界に近いはずだった。だが、頭の中だけがやたらと冴えている。


 もし、聖女の言葉を聞かなければ。

 もし、ハムスターにならなければ。

 私は今頃、手紙を読んだエレノアの返事を待っていただろうか。

 あるいは、彼女を呼び出して、冷静な顔で同じ内容の忠告を言っていただろうか。

 聖女に辛く当たっているという話がある。

 事実ではないのなら説明してほしい。

 だが、そう疑われている以上、君にも振る舞いを見直す必要がある。


 私はその言葉を、誠実な助言のつもりで言ったはずだ。

 けれど今思えば、それは最初から彼女にだけ負担を押しつける言葉だったと今なら分かる。


 盗んでいないなら、鞄を見せられるだろう。

 違うなら、証明できるだろう。

 疑われたくないなら、違うと証明してみろ。

 それは本当に公平なのか。

 籠の中で、私は丸くなった。

 もやもやと形になりかけているが、答えはまだ出ない。

 ただ、胸の奥に小さな棘が刺さって抜けなくなっていた。


     *


 翌朝、廊下の向こうが騒がしかった。


 私は布の隙間から顔を出した。眠りは浅かったが、体は少し回復しているらしい。ハムスターの体というのは不思議だ。あれほど追い回され、死を覚悟したというのに、種を食べて布の上で寝ると、ある程度元気になってしまう。

 我ながら驚きである。動物の体というのはこんなにも生命力に満ち溢れているのか。

 廊下の向こうから、使用人たちの声がかすかに届いた。


「王子殿下が、昨夜からお戻りになっていないそうよ」

「王城は大騒ぎだとか」

「グランヴェル家にも問い合わせが来たらしいわ」


 私は籠の中で身を固くした。

 当然だ。

 王子が連絡もなしに突然姿を消したのだ。王城が騒ぐのは当然である。

 問題は、その王子が今、公爵令嬢の部屋でハムスターとして飼われかけているということだ。正直に説明しても、信じてもらえる気がしない。


 ほどなくして、エレノアが部屋へ戻ってきた。朝の身支度を終えた彼女は、いつも通り隙がなかった。薄い色のドレスも、結い上げた髪も、表情も、昨日の騒ぎなど何もなかったかのようにいつも通りに整えられている。

 その少し後、兄であるヴィクトルが入ってきた。

 ヴィクトルはエレノアによく似た涼しい目元をしているが、妹よりも少しだけ表情に遊びがある。社交の場で浮かべるような貼り付けたような笑みをしている時など、ああ、兄妹なのだなと分かる。


「朝から王城は大騒ぎのようだな」


 ヴィクトルはそう言って、妹の向かいに腰を下ろした。


「殿下が行方知れずなら当然か」

「大変ですわね」


 エレノアは紅茶を一口飲んだ。驚くほど落ち着いている。

 いや、落ち着きすぎではないか。

 もう少し慌ててもよいのではないか。婚約者である王子が行方不明なのだぞ。もっとこう、心配そうに眉をひそめるとか、不安げに王城へ問い合わせるとか、そういう反応があってもよいのではないか。

 そう思いかけて、すぐにやめた。

 私がそれを期待する資格はない。

 ヴィクトルは、妹の落ち着きぶりを見ても驚かなかった。


「まぁ、あの聖女様に鼻の下を伸ばしてる姿を見せられては、心配してやる気にもならないか」

「ぢゅっ?!」


 ヴィクトルのその言葉に、私は思わず反射的に声を上げた。

 何だそれは。わ、私が聖女に鼻の下を伸ばしていただと……?!

 心当たりがない、と反論をしたいが言葉は鳴き声になるだけで意味をなさない。


「ちゅーちゅ! ちっちちゅ!」


 強く異論だとアピールする私に対して、ヴィクトルはただ視線をずらし、籠の中の私をちらりと見るとあまり興味なさそうに尋ねた。


「それは?」

「昨日、学園で拾いましたの」


 エレノアは何事もないように答える。


「外へ放そうとしたら、指にしがみついて離れませんでしたわ」

「難儀なものに懐かれたな」


 ヴィクトルが面白そうに笑う。

 私は籠の中で身を縮めた。懐いてはいない。生存のためにしがみついただけだ。いや、結果としてかなり懐いたような動きだったかもしれないが、違う。私は王子だ。ハムスターとして公爵令嬢に懐いたわけではない。


「無駄に死なせる趣味はありませんもの」


 エレノアの声は平坦だった。ヴィクトルは少しだけ目を細める。


「それにしても、殿下はご自分の振る舞いがどう見られているか、まだ分かっておいででないようだな」


 私は籠の中でむっとした。またそれか。

 違う。聖女に心を寄せているわけでも、エレノアをないがしろにしているわけでもない。ただ、公平であろうとしているだけだ。そのような偏向的に見る方が間違っている。

 私は守る力を持った者が弱い者を守る、義務を果たしているだけだ。

 エレノアはカップを置いた。


「殿下は、公平であろうとしているだけだと思ってらっしゃるのでしょう」


 そうだ。

 私は思わず前のめりになった。

 そうなのだ。分かっているではないか。さすが十年も婚約者であるエレノアだ。彼女ならば、私の意図をきちんと理解して──。


「もっとも、結果は同じですけれど」


 私は固まった。ヴィクトルが片眉を上げる。


「クク、手厳しいな」

「事実ですもの」


 エレノアは淡々と答えた。


「一方的に被害を訴える者がいて、『無実なら問題ないはずだろう?』と疑われた側にだけ証明を求める。それを公平と呼ぶのは、ずいぶん都合のよい話ですわ」


 私は何も言えなかった。

 今の私は何を言っても「ちゅう」としか鳴けない。だが、たとえ人の姿だったとしても、すぐには反論できなかったと思う。

 エレノアは怒っていない。

 少なくとも、声は荒げていない。表情も乱していない。ただ事実を述べているだけのように見える。

 だからこそ、言葉が真っ直ぐ刺さる。

 私が公平だと思っていたものを、彼女は別の角度から見ている。

 そしてその角度から見れば、私の行いはきっと、公平などではなかった。


「殿下は、聖女殿にうつつを抜かしているのだろう? 咎めなくていいのか?」


 ヴィクトルが問う。

 私はそれは違う、と反論したかった。それは「ちゅう……」という鳴き声にしかならなかったが。


「恋だの何だのは、わたくしには分かりませんし、どうでもよろしいことですわ」

「あの聖女に、虐められてるなどと事実無根の噂をばら撒かれているのに?」

「治癒魔法を独占している教会にも、正面から文句など言えませんし」


 何?! それも初耳だぞ?!

 また飛び出てきた新しい情報に固まる私なんて気付かないまま、エレノアは静かに言った。


「政略の婚約に、夢見がちな愛情など求めておりませんもの」


 そこまで言ってから、彼女は物憂げにため息をついて見せた。


「ただ、人を見る目がないのは困りますわね」


 小さな胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 違う、と言いたかった。

 私は聖女にうつつを抜かしてなどいない。彼女を愛しているわけではない。彼女を守ろうとしたのは、王族として当然の責任だと思ったからだ。

 だが、それがエレノアにとってどれほど意味のある違いなのか。

 聖女の訴えを受けて、婚約者にだけ説明を求める王子。


 私は確かに聖女に恋愛感情は抱いていない。しかし一方の訴えを聞き入れて婚約者を疑っていたのは事実だ。

 それが「恋ではない」と言ったところで、何が変わるのだろう。

 私は籠の中で丸くなった。

 ヴィクトルが、ふ、と小さく笑う。


「怒らないのか」

「怒って解決するなら、そういたしますわ」

「では?」

「見極めるだけです」


 エレノアはそう言って、再びカップを手に取った。

 見極める。

 その言葉が、妙に重く響いた。何を。誰を。

 ……私を、だろうか。


 私はエレノアの横顔を見つめた。


 彼女は本当に何を考えているのか分からない。分からないが、少なくとも何も考えていないわけではない。むしろ、私などよりずっと先を見ているのではないかと今さらながら思った。

 その考えは、王子としての自尊心を少しだけ傷つけた。


 だが同時に、妙な安堵もあった。

 エレノアは確かでない噂話で傷つく事もないし、泣き落としにも、怒号にも、噂にも、そう簡単には流されない。


 私はそれを頼もしいと思いかけて、すぐに恥じた。

 頼もしいなどと思う資格が、今の私にあるのか。

 私は彼女を守るどころか、疑いを向けていたのに。


     *


 その日、エレノアは学園へ向かった。

 私は屋敷に残された。いや、正確には、エレノアの部屋の籠の中に残された。

 侍女が時折様子を見に来るたび、私は普通のハムスターらしく振る舞うよう努力した。水を飲み、種を食べ、布を整え、丸くなる。何が普通かは分からないが、とりあえず王子らしさを出してはいけない気がした。

 だが、待っている時間は長かった。

 何もできないというのは、これほど苦しいものなのか。

 王子であった時、私には次から次へやるべき事が舞い込んできた。判断するべき事はいくらでもあった。

 勿論側近の二人以外にも部下はいる。必要に応じて調査や作業を命じたり、人手を揃え、資料を集め、必要なら父王や大臣に協力を仰いで大規模な事業も行っていた。


 今は何もできない。

 人が指先一つで開けられる籠の扉すら開けられない。

 正確には、少し力を込めて身悶えすれば隙間から出られるかもしれないが、出たところで何ができるのか。公爵家の廊下でハムスターが走り回ったところで、捕まえられて籠に戻されるのが関の山だ。


 それに、聖女のこともある。

 もし聖女が本当にエレノアを狙っていたのなら、今日の学園でまた何か起こるかもしれない。

 私は籠の中を歩き回った。

 右へ。左へ。水皿の横を通り、餌皿の前で止まり、また戻る。

 歩幅が短いので大した距離ではない。だが気持ちだけは王城の廊下を端から端まで考え事をしながら行き来しているようだった。


 夕方近くになって、ようやくエレノアが戻ってきた。

 私は籠の柵に前足をかけて立ち上がった。

 エレノアはいつも通りだった。髪も服も乱れていない。表情も崩れていない。

 だが、帰宅したエレノアを追いかけてきたヴィクトルが彼女を見るなり眉をひそめた。


「随分遅かったな」

「少々、呼び止められておりましたの」

「今度は何があった?」

「わたくしが、昨日のハムスターを連れ去って……殺したのではないかと」


 私は息を呑んだ。

 殺した。

 誰が。

 ……エレノアが、私を?


「昨日はご自分たちが『不潔な害獣』として駆除しようとしていたのに、今日はわたくしを『可愛いハムスターを殺したかもしれない酷い人』扱いするとは驚きですわ」

「バカバカしい」


 そうだ、馬鹿げている。私はここにいる。籠の中で、情けなくも元気に生きている。昨日だって、聖女たちから彼女が助けてくれたからこうしている。

 それなのに、そんな噂が。

 ヴィクトルが吐き捨てるように言った言葉に同意する。


「馬鹿馬鹿しい噂ほど、よく広まるのです」


 エレノアは穏やかだった。穏やかすぎるほどだった。


「その上、殿下の行方不明と結びつけた言いがかりまでされましたわ」

「どういう事だ?」

「あのネズミを生贄に捧げて、私が殿下の身を損ねるような呪いをかけたのではないかと……想像力が逞しい方もおられるのね」


 私は柵を握る前足に力を込めた。

 それは、つまり。エレノアが私を殺した。あるいは、私の失踪に関わっている。

 そういうことにしたい者がいるという事だ。

 いや、したい者がいるどころではない。聖女に違いない。彼女なら、その噂を直接口にしなくても、周囲に思わせることができる。

 人前で完璧な被害者の顔をしながら、心配そうに目を伏せ、「もしかしたら、こんな事をしたかもしれない」と震えればいい。

 それだけで、周囲はエレノアを疑うだろう。

 無力で、怯えることだけしか出来ない、治癒の力のある少女。そう思っていた聖女の姿が今は別物に見える。


「よく平然としていられるな」


 ヴィクトルが言う。


「平然ではありませんわ。取り乱しても益がないだけです」


 エレノアは手袋を外しながら答えると、籠の前にしゃがんだ。私は彼女を見上げる。

 エレノアは私の目を見て、静かに言った。


「明日は、ご同行願いますわ」


 私は首を傾げた。


「生きていると、お見せしませんと」


 なるほど。

 確かに、私が生きていることを示せば、少なくともエレノアがハムスターを殺したという噂は消える。

 だが、学園に戻るのか。

 ……聖女のいる場所へ。

 ライネルとエリアスがいる場所へ。

 私を駆除しようとした者たちのいる場所へ。

 正直に言えば、嫌だった。

 小さな体が震えそうになる。箒が床を叩く音を思い出す。教本の影が頭上を掠める恐怖を思い出す。聖女が、私が駆除されるのを期待してキラキラと目を輝かせていたのを思い出す。

 だが、それ以上に、エレノアが一人であの学園へ戻ることの方が嫌だった。

 彼女は平然としている。

 噂されても、疑われても、顔色を変えずに対応する。

 けれど、だからといって傷つかないわけではないだろうに。

 彼女の言葉を思い出す。

 平然ではありませんわ。取り乱しても益がないだけです。

 私は籠の柵を握り直した。

 分かった、と伝えたい。

 だが出たのは、またしても「ちゅっ」という軽い鳴き声だった。

 エレノアはそれをどう受け取ったのか、少しだけ目を細めた。


「明日は大人しくしていてくださいましね」


 そう言って、籠の留め具に触れる。かちり、と音がした。

 人の指先ひとつで捻ることができる掛金。

 私はその留め具を見つめた。

 きちんと閉まっているようにも見える。だが、その構造をよく観察すると鼻先で持ち上げるように押して前足で力を込めれば開きそうにも見える。

 そう思った瞬間、エレノアが私を見た。


「……もっとも」


 彼女は淡々と続ける。


「無理かもしれませんけれど」


 何が。大人しくしていることが、か? 私は判断がつかずエレノアを見上げた。


「あなたは人間の言葉なんて分かりませんものね」


 違ったか。

 彼女の表情は相変わらず静かだった。けれど、その静けさの中に、ほんの少しだけ陰が見えた。

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> 私は聖女にうつつを抜かしてなどいない。彼女を愛しているわけではない。彼女を守ろうとしたのは、王族として当然の責任だと思ったからだ。 というよか、パパン(王様)に聖女を大切にしろと口をすっぱくして…
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