表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハムスターになった王子は自らの愚かさを知る  作者: まきぶろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

4



 翌朝、私は小さな籠に入れ変えられて学園へ向かった。

 言葉にすると簡単だが、実際にはなかなかに屈辱的な状況である。

 王族たる私が、登校する婚約者の手荷物として運ばれているのだ。しかも王家の紋章入りの書類鞄でも、儀礼用の宝飾の入ったケースでもなく、小動物用の籠である。


 籠の中には柔らかな布が敷かれ、水皿と餌皿が固定されていた。昨夜から世話をしてくれた侍女が、移動中に揺れても危なくないようにと工夫してくれたらしい。ありがたい。ありがたいのだが、ありがたがっている自分が少々情けない。


 馬車の揺れに合わせて、私は布の上でころりと転がりそうになった。

 慌てて籠の柵にしがみつく。

 王子として生まれてから、馬車の揺れをここまで死活問題として感じたことはなかった。人間の体なら、多少揺れたところで体幹に力をこめて姿勢を保てば済む。だが今の私には、馬車の床板の振動すら小さな嵐や地震のようなものだった。

 そして、その嵐の外側で、エレノアはいつも通り静かに座っていた。


 膝の上に私の籠を置き、揺れが強くなるたびにそっと手を添える。特別に甘やかすでもなく、過剰に心配するでもなく、ただ落ちないように、倒れないように支えているだけの手だった。

 その手が、やはり不思議だった。

 彼女は、何のゆかりも無いハムスターを助け、連れ帰り、餌を与え、そして今は、私が転がらないように籠を支えている。


 彼女はこのハムスターが私だとは知らないのだから、これはただの善意である。

 正直私は、彼女がこんなに小動物に優しい人だとは思っていなかった。

 私は籠の中からエレノアを見上げた。

 彼女は窓の外を見ていた。朝の光に照らされた横顔は、相変わらず乱れがない。豊かでゆるく波打つ黒髪は侍女の手によってきっちりと整えられている。睫毛の影が白い頬に落ち、口紅を刺していないのに唇はほとんど感情を示さず閉じられている。


 綺麗な顔だ、と私は今さらながら思った。

 婚約者なのだから、彼女の顔など何度も見てきた。幼い頃から知っている。芸術家の作った人形のように整った顔立ちで、貴族令嬢らしく上品で、いつも背筋を伸ばしている。

 けれど、こうして小さな獣の目線から見上げると、彼女はずっと遠い人に見えた。

 静かで、凛としていて、何を考えているのか分からない。

 そして、私などよりずっと強い。


 そのことに気づいてしまうと、私は自分がひどく小さく思えた。いや、実際に小さいのだが、そういう意味ではなく。

 私は、公平であろうとした。

 王族として正しく振る舞おうとした。

 そのつもりだった。

 だが今こうして籠の中で、エレノアの膝の上に乗せられていると、その「正しさ」がどれほど薄っぺらいものだったのか、少しずつ思い知らされていく。


 疑われた側にだけ説明を求めること。

 訴えた者の涙を、事実の前提に置くこと。

 その危うさを、私は人間の姿では気づけなかった。

 ハムスターになって、床を逃げ回って、箒で叩き潰されそうになって、本性を見てようやく気づきかけている。

 これは、何とも情けない話だった。


     *


 学園に着くと、予想通り視線が集まった。

 グランヴェル公爵令嬢が小動物入りの変な籠を持って登校しているのだ。目立たないはずがない。

 まして昨日、彼女がその小動物を連れ去った後に殺したのではないか、という噂が流れたばかりである。廊下では、あちらこちらで小さな囁き声が起こった。


「本当に連れてきた……」

「噂は違ったのね」

「でも、どうしてわざわざ」

「あれを生贄に殿下に呪いをかけたと疑われていたからだろう」

「昨日から体調不良で休まれてますものね」


 どうやら私は、一般生徒には体調不良で休んでいるという事になっているらしい。確かに、王子が行方不明とはおいそれと発表できないだろう。

 ひそひそと交わされる声は、籠の中の私にもよく聞こえた。


 人間だった頃なら、そんな小声は意識しなければ拾えなかっただろう。だが今は耳が良い。良すぎる。ハムスターとは随分耳が良いんだな。聞きたくないものまでやたらと届く。

 エレノアは何も聞こえていないような顔で歩いている。


 いや、聞こえていないわけがない。

 彼女は聞こえている。

 その上で、表情を変えないだけだ。

 それが分かるようになったのも、たぶん私が彼女のすぐ近くで、息遣いや指先のわずかな動きまで見るようになったからだろう。

 彼女は冷たいわけではない。

 ただ、感情の動きを表に出さない。それは家族令嬢としてされた教育の賜物だろうか。……私の婚約者として自らに課している事か。

 表に出さなければ、傷ついていないことになるわけではないのに。


 そのことを、私は昨日から何度も考えていた。

 教室に入ると、空気がぴんと張り詰めた。

 クラスメイトたちの視線が、エレノアの手元の籠へ集まる。ライネルとエリアスもいた。二人とも、昨夜から私の行方不明に関して散々城で調べられたのだろう。何しろ、私は警備が厳重なはずの学園内で姿を消したのだから、学園での護衛も兼ねているライネルがよりげっそりしているのは気のせいではないだろう。とても疲れた顔をしている。

 だがエレノアを見る目には、警戒と不信が濃い。ハムスターを生贄に私に害をなしたとかいう噂をまさか信じているわけではないだろうが。


 ないよな?

 でもまぁ、彼らは私がまさかハムスターになってこの籠の中にいるとは分からないだろう。

 いや、知らないにしても、もう少し冷静にものを見てほしいという気持ちはある。一昨日の聖女はかなり化けの皮が剥がれていたと思う。思うが、今までの私を思えば人のことは言えないか。


 エレノアは自分の席まで歩き、机の上に私の入った籠を置いた。


「ご心配の方もいらしたようですので」


 彼女はいつもの声音で言った。


「昨日の騒ぎの元となった小動物は、この通り生きておりますわ」


 私は籠の中で、なるべく健康そうにクルクルと動いてるみせた。

 健康そうなハムスターとは何だ、という疑問はある。とりあえず背筋、いや背骨を伸ばし、丸い前足を揃えて立ち上がって見せた。王族の威厳を出したかったが、おそらくただの行儀の良いハムスターにしか見えなかっただろう。

 それでも、私が生きていることは伝わったらしい。

 教室にざわめきが広がる。


「本当に生きてる」

「じゃあ殺したって話は……」

「でも、殿下のことは? 体調を崩すように呪いをかけたのはエレノア様じゃないの?」


 視線が揺れる。

 疑いが完全に晴れたわけではない。だが少なくとも、「エレノアがハムスターを殺した」という噂は、この場で崩れた。

 聖女は教室の前方にいた。

 私と目が合った瞬間、彼女の表情がほんのわずかに強張る。

 だがそれも一瞬だった。次に口を開いた時、彼女はもう、心優しい聖女そのものでしかなくなる。


「よかった……」


 胸に手を当て、安堵したように微笑む。


「わたくし、昨日からずっと気になっていたのです。エレノア様がお連れになった後、どうなったのかと……」

「それは何よりですわ」


 エレノアは淡々と返した。聖女は少し困ったように目を伏せる。


「ごめんなさい。わたくしが怖がったせいで、エレノア様にもご迷惑をおかけしてしまって……」


 完璧だった。

 彼女は自分が噂を広めたとは言わない。エレノアを責めたとも言わない。ただ、自分が怖がったせいで迷惑をかけたと謝るだけだ。

 すると周囲は自然と、彼女が善良な被害者であると思い込んでしまう。

 昨日までの私なら、きっと同じようにそう思っただろう。

 聖女は悪くない。少し考えすぎて、怖がっただけだ。彼女を守ろうとした周囲が少し過剰だっただけだ、と。

 今は違う。

 私は籠の中から、彼女の指先を見ていた。

 白く細い指。胸の前で控えめに組まれたその手が、昨日は私を指差して「どんな怖い病気を持ってるか分からない動物を、そのまま逃してしまうんですか」と追い詰めたのだ。

 きっとその同じ手で、あの呪いを机に仕掛けたのだろう。

 そして本来なら、エレノアを指差すはずだったのだ。ドブネズミになったエレノアを。

 そう考えると、私は籠の中で身震いした。

 その時、教師が教室に入ってきた。


「グランヴェル公爵令嬢」


 教師は少し気まずそうな顔をしていた。


「城から、確認したいことがあると使者が来ています。少し職員室までよろしいですか」

「ええ」


 エレノアはあっさり頷いた。そして籠へ視線を落とす。


「ここで大人しくしていてくださいまし」


 そう言って、籠をぽんぽんと優しく触ってから教室を出て行った。

 私は籠の中からエレノアを見送った。見送るしかできなかった。

 彼女は何も言わない。ただ、私を見る目がほんの一瞬だけ、優しく細められた気がした。

 教師とともに教室を出ていく背を見送りながら、私は胸の奥がざわつくのを感じる。


 次の時間は移動教室だったらしく、エレノア以外の生徒の姿も次々と消えていく。

 一人……いや一匹教室に置いて行かれた私は、忙しなく落ち着かない気持ちを発散するように小さな籠の中を歩き回る。その途中、朝エレノアが閉めたはずの籠の掛金が少し緩んでいるのに気が付いた。

 家で使っている籠は出入り口も大きく重いが、この籠の出入り口なら掛金を鼻先で押し上げた後に外に出られるかもしれない。


 身の危険はある。けれどそれを天秤の上に置いてでもやらなければいけない事もあった。調べたい事があったのだ。

 この机だ。

 昨日、私が触れて魔法が発動したエレノアの机。

 ここにはまだ、何か残っているかもしれない。

 私は教室の中を見回した。

 すでに授業は始まっている時間らしく、当分生徒たちは教室に戻ってくる事はないだろう。

 今なら。

 私は籠の扉へ前足をかけて、鼻先で掛金を持ち上げながら力一杯押すと、扉は驚くほど簡単に開いた。


 私はそっと籠から抜け出した。

 籠の出口から机の上に着地するのは、思ったよりも大した事はなかった。ふわふわの毛並みがぽてんと衝撃を吸収する。

 しかし机の上から床までの距離は、今の私には断崖のように見える。失敗して落ちれば怪我をするかもしれない。仕方なく、籠の縁から机の端へ移り、そこから尻を下によちよちと椅子の背を伝って降りた。まるで軽業師みたいだ。人間の体ならこんな事は出来なかっただろう。

 小さな体は不便だが、こういう時だけは案外身軽だ。


 机の天板の下に潜り込む事に成功すると、私は小さな体を生かしてエレノアの机の奥へ向かった。

 昨日、私が手を入れた引き出し。

 そこにはもう、私をハムスターに呪具そのものはなかった。発動した時に砕けたのだろう。だが、机の裏側には、薄い焼け跡のようなものが残っていた。


 私は鼻を近づけて、そのうっすらと焼け付いた痕跡を観察する。

 嫌な臭いがした。

 焦げた木の匂いではない。もっと湿った、土の中で腐ったものを掘り返したような、重くて甘い臭い。ハムスターの鼻だからこそ感じ取れるのかもしれない。人間の姿なら、ここまで強くは分からなかっただろう。

 そしてその染み付いた臭いに重なるように細い黒い線が刻まれている。

 一見木目のようでいて、模様ではない。この体は暗いところでも目が良く見えるらしい。

 これは術式だ。

 私は魔法の専門家ではないが、王族として最低限の知識は学んでいる。呪いの類は禁じられた術であり、王城でも扱いには厳しい制限がある。その基本的な構造くらいは分かる。

 やはり、これは呪いだ。

 つまり、この机を使う者へ向けて、術を発動させるもの。

 ……エレノアへ。

 私は息を止めた。昨日、自分が魔法にかかった時から、そうではないかと思っていた。聖女の言葉を聞いた時から、考えたくなくても考えていた。

 だが、こうして証拠を見つけてしまうと、もう結論から逃げようがなかった。


 本来、ドブネズミになるはずだったのは、エレノアだ。そして、それを企んで呪いを仕掛けたのは……分かってはいたが、聖女リリアで間違いない。

 私は偶然、いや、偶然というにはあまりにも愚かな行いで、その呪いに触れた。

 婚約者を疑い、机を勝手に開けた結果、彼女を狙った呪いを自分で受けた。

 皮肉にもほどがある。

 けれど、皮肉だと笑うこともできなかった。

 もし私が触れていなかったら。もしエレノアがこの机を開けていたら。エレノアはあの場でドブネズミになっていたのだろうか。

 そして聖女が悲鳴を上げる。

 ライネルかエリアスが駆け付ける。

 聖女が「害獣だ」と騒ぎ、誰もそれがエレノアだと気づかないまま──。

 私は目を閉じると、昨日、私がこの身で経験した恐怖を思い出して小さな体が震えた。

 ……ああ、呪いを受けたのが私で良かった。エレノアが、ドブネズミなんかになってしまって、誰かに駆除されてしまうような事にならなくて良かった。

 

 静かに私をすくい上げたエレノアの手。

 私は、そんな彼女を害そうとした者の言葉を聞いて、彼女を諫めようとしていた。

 公平であろうとした。

 双方の話を聞くつもりだ、そう自分に言い聞かせて。

 だが実際には、聖女の嘘を聞き入れて、それを前提にして動いていたのだ。

 違うなら証明しろ、とエレノアに迫ろうとしていた。


 私は、あの手紙を思い出すだけで、今はふわふわの銀色の体毛で覆われている体の内側がカッと熱くなる気がした。

 何が公平だ。

 何が王族としての責務だ。

 私はただ、一方が泣いているからといってその訴えの内容を精査する事を怠っただけではないか。

 そう思った時、教室の扉が開いた。


     *


 物音にびくりと身を震わせた私は、籠を登って中に戻ろうとしていた所で固まった。入ってきたのは、聖女だった。

 彼女は誰もいないと思っているのだろう。廊下へ向けて一度だけ確認するように視線をやると、扉を半分閉めた。

 そして、エレノアの机の前へ──つまり、私がいる所へ歩いてくる。

 私に気付いているのかと思ったが、そうではないようだった。人前で見せる柔らかな表情はどこにもない。


「……ほんと、どういうことよ」


 低い声だった。昨日聞いた、あの声と同じ。


「あの女、まだ平気な顔してるじゃない」


 リリアはエレノアの机に手をつき、爪先で床を苛立たしげにコツコツコツと叩いた。


「呪いは発動したわよね? 間違いないわ。昨日あの光が出たのは見えたのよ。なのに、どうしてあの女は人間のままなの? そんなに時間がかかるなんて聞いてないわ」


 私は息を殺した。


「あんなに高い金を払ったのに。……ドブネズミになったところを、皆に駆除させて、あの女は行方不明のまま婚約解消になって……私がその後婚約者に収まる予定が……チッ」


 彼女は顔を歪ませると、盛大に舌打ちをした。

 それは「聖女」と呼ばれるような人の顔ではなかった。

 人の不幸を楽しみにしていた者が、予定していた余興を台無しにされた時の悔しがり方だった。


「あの女、いつも澄ました顔して。本当、気に入らない」


 私は、体の底から冷たくなるのを感じた。

 やはり。やはり彼女は、悪意を持ってエレノアを殺すつもりだった。

 しかも、自分の手で直接ではない。

 ドブネズミに姿を変えさせ、周囲に駆除させる。

 そうすれば、罪は発覚しない。害獣を処分しただけだ。エレノアは行方不明になるか、最悪、死体すら残らないかもしれない。

 そんなことを、聖女は考えていたのだ。

 エレノアに虐げられている、と人前で涙を浮かべながら。私に助けを求める顔をしながら。

 エレノアに辛く当たられていると、周囲に思わせながら。

 私は歯を食いしばった。ハムスターの歯では、情けないほど小さな音しか出ない。

 その音が、リリアに届いたのかもしれない。

 彼女の視線が、ふと机の上へ落ちた。

 私と目が合う。


「……あら」


 リリアの唇が歪んだ。


「昨日の銀色のネズミじゃない」


 私は一歩後ずさる。

 リリアはゆっくり前屈みになり、籠の前にいる私を覗き込んだ。


「エレノア様が持って帰って、可愛がってるみたいだったわね」


 その声は、甘い。人前で使う聖女の声に近い。

 けれど目が笑っていなかった。


「良いこと思いついた」


 彼女は机の──エレノアの机の引き出しに手を入れた。

 そこから取り出したのは、小さな刃物だった。紙を切るためのカッター。学園の生徒なら誰でも持っていて不思議ではないものだ。

 けれど、今の私にはそれが剣よりも恐ろしかった。

 私の頭には、巨人に立ち向かう古代王国の二代目の王の逸話が思い浮かんだ。今の私がかの王と違うのは、この困難を乗り越える術を持たない事だ。


「この子が今から惨たらしく死んで、黒魔術を使った痕跡を残したら」


 聖女は刃を少し出して、金属にきらりと光を反射させながら笑った。


「エレノア様が、良い人ぶって保護したペットをやっぱり生贄に捧げた、って事にできるかしら」


 私は凍りついた。


「ううん、それだけじゃ足りないわね。止めようとしたわたくしにまで刃を向けた、ってことにすればいい?」


 ぞっとした。

 昨日までの私なら、こんな言葉は想像すらしなかっただろう。

 リリア・ベルはか弱く善良な聖女で、慣れない貴族社会で傷つけられている少女。そう思っていた。

 だが目の前にいる女は、涙の使い方を知っている。どう振る舞えば、誰が自分を庇うか知っている。

 どう言えば周囲が勝手に動くか知っている。

 そして、自分の手を汚さず目的の相手を壊す方法を知っている。

 私は、そんな女の言葉を信じていたのか。

 聖女が刃をこちらへ向けた。

 私は飛び退いた。刃がすぐそばの机を掠める。ほんの少し毛先が切れた気がした。


「逃げないでよ」


 聖女が低く言う。私は身を打ちつける恐怖に目をつむり床に飛び降りると、すぐさま机の脚の間を走りだした。幸い、体重が軽いおかげか体長の何十倍の高さから飛び降りたというのに衝撃は思ったほどではない。

 ここからは昨日と同じだ。

 いや、昨日より悪い。

 昨日はライネルやエリアスが私をただの害獣だと思って追っていた。彼らは私が王子だと知らなかった。間違っていたが、少なくとも自分たちなりに聖女を守るつもりではあったのだろう。

 だがこの女は違う。

 彼女は分かってやっている。

 この小さな命を殺し、その死さえ利用するつもりでいる。

 机の脚を回り込み、椅子の下へ逃げる。聖女は舌打ちしながら追ってくる。刃が椅子の脚に当たり、乾いた音を立てた。


 怖い。

 怖い、怖い、怖い。

 今まで生きてきて、こんなに情けない言葉を心の中で繰り返したことはない。

 だが小さな体には、恐怖がそのまま響く。

 刃が近づくたびに体がすくむ。足がもつれる。呼吸が乱れる。心臓が壊れそうなほど速く打つ。

 それでも走るしかない。

 止まれば死ぬ。いや、死ぬだけではない。私が死ねば、エレノアの罪にされる。

 そのことが、私を必死に走らせた。

 机の下から飛び出した瞬間、カッターを掴んだ聖女の手が伸びた影が見えて私は横へ跳んだ。

 だが着地を誤り、床の上で転がった。視界がぐるりと回る。天地が分からなくなる。

 起き上がった時には、壁がすぐ後ろにあった。……逃げ場がない。

 聖女がゆっくり近づいてくる。


「最初から、あの女がいなければ良かったのよ」


 彼女は囁くように言った。


「そしたら殿下も、皆も、私だけを見てくれる。あんな冷たい女より、治癒の奇跡を使える私の方がずっとずっと、この国で一番尊い女性の地位に相応しいわ!」

「……ちっ! ちちちっ!」


 私は歯を鳴らした。

 怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からない。


「大丈夫」


 リリアは微笑んだ。


「すぐ終わるわ。私は優しいのよ、一撃で殺してあげる」


 刃が振り下ろされる。私は目を閉じた。

 その瞬間。


「何をしていらっしゃるの!」


 鋭い声がした。ギクリ、と身をこわばらせた聖女の手が止まる。

 壁に追い詰められていた私が目を開けると、教室の入口にエレノアが立っていた。

 怒鳴ったわけはない

 けれど怒りを込めたその静けさは、誰よりも頼もしく思えた。

 聖女の顔が、ほんの一瞬だけ歪む。

 だが彼女はすぐに弱々しい表情を作ろうとした。


「エレノア様、これは──」

「その刃を下ろしなさい」


 エレノアは遮った。声は静かなままだった。

 だが、聖女の言い訳を聞くつもりはないと分かる声だった。

 聖女は唇を噛む。言い訳はきかない、と察した彼女は弁明をやめる。


 私は壁際で震えながら、暗闇でさした光明を見付けたようにエレノアを見上げた。

 ……助かった。

 まただ。

 また彼女に助けられた。

 そう思うより早く、エレノアがカツカツと革靴を鳴らしながら歩み寄ってきて、聖女の手首を掴む。

 無駄のない動きだった。騎士のように荒々しくはない。けれど、決して逃がさない、という意思が込められていた。


「離して!」


 聖女が初めて声を荒げた。

 その瞬間、掴まれた手で握っていたカッターの刃が揺れた。

 エレノアは私を庇うように、もう片方の手も伸ばそうとする。

 しかしそれを阻むように、刃が、その手の甲を裂いた。


「ちゅうっ!」


 白く美しいエレノアの手から赤い血が滲む。

 私は息を呑んだ。

 銀色の体毛に覆われた小さな体が、今までとは違う震え方をした。

 私のせいだ。

 彼女がまた傷ついた。私を庇ったから。

 聖女を信じた私が、聖女に疑いを向けることを怠った私が、ここまでのことを招いた。

 エレノアは、それでも眉一つ動かさなかった。


「刃物を離しなさい」


 ただ、それだけを言う。

 まずい、とでも思っていそうな聖女の目が、エレノアの血を見た。

 うろうろとしばらく迷うように視線を彷徨わせた後、彼女の表情が変わった。

 怯えでも、怒りでもない、計算をしている。

 私はその目を見てぞっとした。

 聖女は手首を捻り、エレノアの拘束からわずかに逃れた。そして、次の瞬間、自分の腕へ刃先を走らせた。

 エレノアと比べて随分浅い傷だ。

 だが血は出る。

 彼女はそのままカッターをエレノアの足元へ落とした。

 そして、学校中に響くほどの悲鳴を上げた。


「きゃああああっ!」


 エレノアは静かに目を細めた。

 聖女はその場に崩れ落ち、涙を浮かべる。


「エレノア様が……っ、ネズミを殺そうとして……!」


 廊下から足音が近づいてくるのを見計らって、聖女は震える声でもう一度頭から説明を始める。


「エレノア様、ひどいです! その可愛いネズミを殺そうとなさるなんて! 止めようとした私まで……! うぅっ……!」


 私は、エレノアの足元に転がったカッターを見た。

 聖女の腕の血を見た。

 エレノアの手の血を見た。

 この構図が、どれほど危険なものか、理解できてしまった。

 まただ。また、エレノアが悪者にされる。

 そして今度こそ、状況は聖女の味方をする。


 昨日の私なら、きっとまず聖女の話を聞いてしまっていただろう。

 怪我をして泣いている聖女。

 刃物のそばに静かな顔で立つエレノア。

 それだけを見て、私はその後でエレノアに説明を求めただろう。

 違うなら証明しろと。

 疑われるようなことをしたのではないかと。

 小さな体の中の胸の奥で、何かが焼けるように熱くなった。

 もう、嫌だ。

 これ以上、彼女が静かに傷つけられるのを見たくなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ