29話 置き去りにされた孤児たち
◆荷馬車酔いと絶望の森◆
魔物の森を進む荷馬車の列が、ぎしぎしと軋みながら揺れていた。 荷馬車には“魔拒香”と呼ばれる魔物除けの魔術香炉が積まれている。 しかし、魔拒香は魔力を込めてこそ本来の効果を発揮する代物だ。
この一行に、魔拒香へ魔力を注げる者は一人もいなかった。 そのため効果は弱く、せいぜい 荷馬車の周囲数メートルを薄く覆う程度。
森の奥深くでは、心許ない防御でしかなかった。
魔拒香の匂いは人によって好みが分かれるが、孤児たちにとっては最悪だった。
酒に似た刺激臭と荷馬車の揺れが相まって、孤児たちは次々と青ざめていく。
「もっ、もうだめ……うえっ!」
一人が吐くと、連鎖するように他の孤児たちも次々と嘔吐した。
「この匂いは孤児にはきつかろうな……」
貧困にあえぐ老人が眉をひそめる。 孤児は苦しげに言った。
「でも……このお仕事を頑張らないと、お金が……」
「げええっ!」
「きったねえ!! おいガキ! 吐くなら外で吐け! 臭くてかなわねぇ!」
借金で首が回らない男が怒鳴り散らす。
ジャミールは荷馬車が森へ入るのを見送ると、すぐにバレリーニ家へ戻っていた。 その場に残ったのは、借金苦の男、貧困者、孤児たち、そして護衛という名目で同行している冒険者だけだった。
「ガキども、ゲロ臭くてたまらねぇ。お前らは体も小せぇんだから、一台にまとまれ」
男は吐瀉物の臭いを理由に、孤児たちを一台に押し込んだ。 孤児たちは文句を言いたげだったが、酔いがひどく、逆らう気力もない。
さらに、孤児の酔いを軽減するため、魔拒香は御者が持ち、孤児の荷馬車からは外された。 これにより、孤児の荷馬車だけが 魔物除けの効果がほぼゼロ となった。
その後も孤児たちは吐き気を催すたびに荷馬車を止め、道端で吐いた。
その様子を見た借金苦の男が、冒険者に耳打ちする。
「冒険者さんよ……これじゃいつ仕事を始められるかわからねぇ。 次にガキどもの荷馬車が止まったら、置いていっちまわねぇか?」
冒険者は黙り込んだ。 彼はすでにギルドからライセンスを剥奪され、犯罪歴もある。 ジャミールからは「何も聞くな」とだけ言われていた。 高額の報酬に釣られ、非合法の依頼だと知りながら受けたのだ。
(ガキどもが魔物に食われたことにすりゃ、証拠も残らねぇ…… 金も山分けできる……)
冒険者は、男の提案を受け入れた。
次に孤児の荷馬車が止まったとき、数人の孤児がふらふらと降りて吐いている隙に、御者は馬を木に繋ぎ、そっと荷馬車を離れた。
「……よし、今だ」
御者は別の荷馬車に飛び乗る。 直後、他の四台の荷馬車が一斉に速度を上げ、森の奥へと走り去った。
◆森に捨てられた孤児たち◆
「なっ、俺たちまだ乗ってないぞ!」
「まってぇぇ!」
「おいてかないでぇ!」
孤児たちの叫びは虚しく、荷馬車は戻ってこなかった。
取り残された孤児たちは泣き出したが、年長の孤児が震える声で叫んだ。
「し、静かに……! 声出したら、魔物が来る……!」
孤児たちは必死に泣き声を押し殺し、荷馬車の中で身を寄せ合って震えた。
しかし、すでに遅かった。
魔物の森の中で、子供たちの吐瀉物の匂いは強烈な誘引となっていた。
「院長せんせぇ……」
すすり泣きが森に響いた、その直後。
グオオオォ!!
遠くで魔物の咆哮が響き渡る。 木々を踏み砕く重い足音が近づいてくる。
「く、来る……!」
森の奥から、木をなぎ倒しながら巨大な影が現れた。 フレイムベアだ。
鼻をふんふんと鳴らし、明らかに吐瀉物の匂いを追っている。
孤児たちは絶望した。
フレイムベアが咆哮し、地面が震えた。 その巨体が孤児たちへ迫る――その瞬間。
空気が“裂けた”。
◆救いの刃◆
風ではない。 衝撃でもない。 “何かが通った”という事実だけが、世界に刻み込まれた。
次の瞬間、孤児たちの横を―― 青白い光の線が走り抜けた。
「……絶対切断」
声が聞こえた時には、もうすべてが終わっていた。
フレイムベアの巨体が、時間差でスパァンッ! と音を立てて真っ二つに割れる。
切断面は鏡のように滑らかで、まるで“世界そのものを切り取った”かのようだった。
血飛沫は一滴たりとも飛ばない。 ラピスの斬撃は速すぎて、血が空気に触れる前に蒸発していた。
孤児たちは呆然とした。 何が起きたのか理解できない。
ラピスは、ゆっくりと振り返る。 その動きだけが、唯一“人間らしい速度”だった。
メイド服の裾がふわりと揺れ、彼女の銀髪が光を反射する。
「ご安心ください。脅威は排除しました」
その声音は、まるで皿洗いを終えたかのような平然さ。
だが、彼女の足元には、ついさっきまで孤児たちを殺そうとしていた魔物の残骸が転がっている。
アランが駆けつけ、肩で息をしながら言った。
「ふぅ……本当に間に合ってよかった。 マヤには後で礼を言わないとね。 彼女が“教えてくれなかったら、危なかったよ」
ラピスは淡々と返す。
「坊ちゃま。今回みたいな時は、必ず私を同行させてください」
倒れたフレイムベアの残骸を前に、孤児たちはようやく息をついた。
その中の一人、小さな女の子が震える足でアランに近づき、涙で濡れた目を向けながらしがみついた。
「お兄ちゃん……こわかった……」
アランは驚きつつも、優しく頭を撫でる。
「もう大丈夫だよ。怖かったね」
その瞬間―― 空気が一瞬だけ“凍りついた”。
ラピスが放った殺気だった。 だが、アランは背筋にわずかな寒気を覚えたものの、(……気のせい、かな?)と思い、特に気に留めなかった。
「ラピス、この子たちをラホ村に連れて帰ろう。 ……まずは安全な場所に」
アランがそう言った途端、ラピスの殺気は嘘のように消えた。
まるで最初から何もなかったかのように、完璧なメイドの表情へ戻る。
「承知しました、坊ちゃま」
だが―― その瞳の奥に、わずかに揺れる影があった。(……坊ちゃまに触れていいのは、私だけです)
ラピスは無表情のまま、アランにしがみつく女の子をじっと見つめる。 (この子……後で“教育”が必要かもしれませんね)
もちろん、口には出さない。 アランが優しく孤児を抱きしめるたび、ラピスの背後で 空気がひやりと震える。
アランは気づかず、孤児たちを安心させることに必死だった。 ラピスは静かに歩み寄り、 アランの隣に立つと、いつもの冷静な声で言う。
「坊ちゃま。 ……お怪我がなくて、本当によかった」
その声音は穏やかだが、 孤児の女の子はなぜかアランの背中に隠れた。
ラピスは微笑む。その笑みは、どこか“完璧すぎて”怖かった。
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