結目
「人が死ぬってどういう事なんだろう?」
「わたしに聞かないでよ。」
「なら、私が死んだらどうなるの?」
「もう、やめなって。」
「違うよ、死にたいとか、そういう話じゃなくて。当たり前だけど自分自身が死んだ後の世界って、他の誰かにとっては微塵の変化も無いんだよね。」
「それは、どうなんだろう。ううん、やっぱりその人の両親だったり、兄弟だったり、友達だったり、悲しむ人も多いんじゃないかな。」
「だけど、ずっと広い視点から見ると、それは小さなことだよね。」
「それが成り立つなら、御両親の事も、小さいことなの?」
「それは、どうなんだろう。もう、私にもわからないや。もう私は人として誰よりも汚れてる。」
「きっと捉え方の問題だよ。皆腐ってる、もう戻りようがない腐敗が現実にはある。それでもたった一つ、それこそ大きな規模でみれば、塵みたいな希望とか愛とかを持ち続けて皆生きてるんだよ。今持っているものだけでは満足できないから、未来に大きな光を見て生きてるんだよ。手に入るかが問題なんじゃない。光があることに意味があるんだよ。理想とは常に手に入らない物だって誰もが気づいてる。まして幸福は常に道徳の上に成り立つものじゃない。まっすぐ歩いている人なんていないんだよ。
でもね、そんな中で、たとえひとときでも全て忘れて笑えるなら、幸せを手にいれられることができたなら、それは生きててよかったって、生きる意味があるって思えることなんじゃないかな。」
「それなら、私の生きる意味って何だろう。」
「それは私にはわからない。自分が持っているものは自分にしかわからないんだよ。」
「なら、私はこれからどうすればいいの?」
「どうにでもできるよ。出来ないことは当然いっぱいあるけど、きっとできることって少なくないよ。望もうよ、未来を。」
「私はもう何もできない。全部がおかしく見えちゃう。」
「橘さん、ううん、小春ちゃんは何に縛られてるの?馬鹿みたいな現実?それとも矛盾だらけの常識?昔の偉人が書いた哲学書?そんなのもう必要ないよ。止めようよ、自分で自分を苦しめるのは。もう、これ以上悲劇は起きないよ。わたしが保証する。だからもういいんだよ。今はもう、生きることの答えを出すことに悩まないで。」
「そんなこと言われたってどうすればいいのかわからないよ。目を背けても、どうせ現実は現実だもの。」
「今はわからなくてもいい。わがままでもいい、逃げても良い、ただ目の前の幸せを一つずつ集めるだけでいい。人生なんてそうしている間に終わってるよ。」
「そうかな、そうだといいけど。」
「わたしの持論だって正しいかどうかなんて保証もない。わたしだって歪んでる。本当は小春ちゃんの見え方が現実に近いのかもしれない。だけど真実がただ一つしかない現実だっていうなら、たとえ嘘でも、人として外れていても、希望のある幻想を信じたいな。」
「理想だけど空想だよ、そんなの。」
「空想だよ、小春ちゃんが見てる現実も。」
私は身体を起き上がらせた。手がある。腕がある。消毒液の匂いがする。目の前で黒猫は、今にも泣きそうになりながらも、背を正して私を見ていた。私はなぜこんな話を彼女にしているのだろうか。激昂して彼女に現実とは何かを問い詰めているわけではない。むしろ心には何もなく空白に包まれていた。前はもっと生物の成れの果てのような真っ黒な何かで一杯になっていて、常に苦しくて堪らなかった。今はその漆黒のあった底に、私という硝子玉が、ただひとつ、すすけたような汚れを付けて転がっている。
「どうして私にそんな話するの?」
「深い理由は無いよ。そうね、今こうしてこんな風に小春ちゃんと対話ができてる、これがわたしの幸せだから。」
「私と話すことが幸せなの?」
「うん。」
「私はあなたが知ってるような私じゃない。」
「分かってるよ。今はわたしが知ってる小春ちゃんが好き。それじゃ駄目かな。」
「絶対、私に失望するよ。私はそれが怖い。」
彼女は「あのね、」と言って言葉を止めた。そして、席から立ち上がり私の側に立ち、それから私に両手をまわして引き寄せた。
「今の小春ちゃんは悪い夢を見てる。少しだけ、目を閉じて深呼吸する時間が必要なんだよ。小春ちゃんがもう一度目を開けるときまで、私がそばにいるから。だからさ」
狂いそうな甘い臭いと言葉にできない感情に、私は溶けてしまいそうだった。
「だから、さぁ、生きてよ。」
長い時間、彼女に抱かれていた。彼女の腕に包まれるのは二回目だった。そこには拒絶させない優しさがあった。耳元で彼女が鼻をすする音と、押さえ込むように泣く声が聞こえていた。
私は久しく動かす私の身体で、彼女が私にしているように彼女に腕をまわした。今度は涙を流しながら身を預けてくる彼女を、懸命に支えた。人を傷つけた手で、彼女の背中を抱いた。人の身体は想像よりもずっと大きかった。
「もう、泣かないでよ」
彼女の涙で肩が濡れていく感触に、今になって罪悪感が込み上げてきた。
ごめんなさい、私が耳元に言葉を告げると彼女は首を振った。
「うん、生きててよかった。」
「ごめんね」
「もう目が覚めないかと思ったよ。」
「ごめん」
「死のうとしないでよ。」
「ごめん」
はあ、と彼女は大きく息を吐く。力を込めて抱き寄せると、その分だけ彼女を感じた。眠ったように目を閉じて、彼女は私の耳元に囁く。
「ねえ。」
「何?」
「わたしのこと好き?」
「どうかな、今は分かんない。でも、昔は苦手だったかも。」
「そっか。」
「ごめん。」
「なんで謝るの。いいよ。それでいいんだよ。小春ちゃんは小春ちゃんだから。」
そこから先、言葉はなかった。
ずっと長い時間、私達は抱き合っていた。




