帰港
およそ一年半お世話になった畳の部屋を掃除していた。部屋を出て、すぐの廊下には、ここに来たときと変わらないくらい少ない荷物が積み重なっている。
受験の苦しみといい、例の騒動といい、この家にはあまり良い思い出はなかった。それでも物悲しさを覚えるのは、私がまだこの場所に未練を持っているからだろうか。
最初はここを出て、就職するつもりだったのだが、『先生』が、私の父の遺言だからと、学費はだすから大学には行くように言った。早く独り立ちしたい気持ちもあって、加えてこれ以上『先生』に迷惑をかけられないので、大学へ行けと告げられた当時は乗り気ではなかったのだが、『先生』が一向に引かないため、就職後に学費と下宿費のお金を返済することを条件に、東京の大学に進学させてもらうことにした。
夏穂とは、あの事件の後、一言も話していない。最後に交わしたのは、彼女を切りつけた事を謝る私に、彼女が、お互い様ね、と言った言葉だった。彼女と男の関係がどうなったのかは私は知らない。
意外にも、鉄橋から飛び降りた私を見付けて、消防に連絡してくれたのは夏穂だった。それから私はすぐに病院へ搬送され、一日と少しの時間、目覚めなかったそうだ。後に、鉄橋の上に残っていた私の携帯の履歴から、黒猫に連絡が回り、黒猫は、すぐにそっちに行きます、と応じ、本当に一日と経たないうちに、東京から飛んで来たらしい。その後、紆余曲折あったが、なんとか高校も卒業し、大学受験も終えた。なんだか、あの時が今となっては遠い昔に感じる。
「小春ちゃん、もう車に積んでええか。」
と部屋の外で声がした。はい、と返事をして廊下に飛び出す。
少ないとはいえ、重い荷物は別に頼んで運送会社に送ってもらうことにした。
「送り主と送り先の住所、書いといてくれんか。」
と言って、『先生』が小さなメモ用紙をくれた。
送り主、橘小春。送り先は、東京都、某所。この場所は昔に何百回と書いた住所だが、今書くこれは部屋の番号が違う。ここは、私の友達の家。偶然だが、申し合わせたように進学先が黒猫と重なってしまった。なので東京に出るときに、彼女と新しく部屋を借りて、同じ部屋に住むことにしたのだ。
向こうの家族にも悪いだろうし、早くあの子と部屋探し始めないとな、と期待を抱きながらペンを走らせる。
下敷きにしていた荷物が、がたりと音をたてて揺れた。
閲覧ありがとうございました
※2017/1/16 [編集]字下げしました。




