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プライド  作者:
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20/22

分離

 私は道なき道逃げた。夏穂も追ってきた。帰りの道もわからなくなっていたが、それよりも、全てが怖くてそんなこと考えていられなかった。

 必死に逃げながら、私は彼女と初めて話した時の事を思い出していた。美しい星々、吹き下ろす風、何よりも彼女に魅せられていた自分。彼女は美しいと思っていた。彼女は穢れた世界を乗り越えたと思っていた。登り詰めれば、全て飲み込めば、希望があるのだと思っていた。だけど現実は、ただ逃げるほかない汚れた塊だった。

 林を抜け、砂利の坂道をかけ降り、私は逃げ続けた。だけど体調もすぐれず、気も動転している私は長くは走れず、ちょうど古ぼけた鉄橋を渡ろうとしたときに体力が尽きた。

 振り返ると服を着た彼女がいる。

「聞いて。」

 大声で叫ぶ女の顔は醜く紅潮していた。月光が照らす、白濁する吐息、少しだけ茶色く脱色した髪、頬を伝う汗、もう彼女の何もかもが穢れて見えた。

「ごめんなさい。私は、もう、手一杯なの。誰にも、言わないから、私に、もう構わないで。」

 叫んだ。声が裏返った。なんだっていい。消えて欲しい。分かりたくもない。聞きたくもない。

「誉められたことじゃないのは、分かってるよ。だけどあれはね」

「もういいよ、やめて」

 身体全部が酸素を欲しがっている。どれだけ呼吸をしても切れた息がおさまらない。でも、それ以上に、彼女の声を聞きたくない。

「狂ってる。狂ってるよ。」

 叫びながら、私は地面にへたり込んだ。平衡感覚を失うくらい酷い目眩がした。

 夏穂は胸に手を当てて、切れる息を鎮めながら私を見下して告げた。怒るでもなく、いつもの形相で、いつもの調子で、

「皆狂ってるよ。私だけじゃない、あの家にいる時点でもう狂ってる。最初からまともな事なんて何一つない。小春ちゃんだって同じじゃない。両親に、ここに押し付けられた子供じゃない。綺麗ぶらないでよ。」

  頭がうまく整理できない。事実を認めたくないと、必死で唇を噛み締めて私を保つ。だけど何一つ反論できなかった。身体が逃げろ、逃げろと警告を告げているが、足がもう動かない。


「私に対する用はなに?」

 彼女の奴隷になるならそれでも構わない。殺されるなら早い方がいい。とにかく、怖かった。

「約束してほしいの。他人に話してほしくないことだったから。」

 一歩ずつ、彼女が私の方へ近寄ってくる。

「わかった。誰にも言わないよ。」

「それも約束だけど。それだけじゃない。さあ、立って。」

 彼女が手を差し伸べながら私に近づいてくる。強い拒絶、恐怖が私を包んでいた。制服のスカートの右側のポケットには携帯電話ともうひとつ、いつも持っているカッターナイフが入っていた。

「立って。」

 彼女は私のそばまで来ると、私の左腕を掴んで引っ張った。嫌だ、嫌だ、怖い。

 もう考える余地はなかった。私は右手をポケットに手を入れ、カッターナイフの刃を、相手に悟られないように出す。カチカチと鳴る音は私達の吐息に混ざって消えた。

 死にたくない、死にたくなかった。例え相手を傷つけてでも。


 左手で彼女の腕を強く握った。ポケットから素早く凶器を取り出して、できるだけ優しく彼女の手の甲当てた。刃の向こう側で彼女の骨が、硬く抵抗した。

 カッターナイフが肌に触れる同時に彼女は手を引っ込めた。同時に咄嗟に吐いた彼女の声にならならない吐息が、耳をかすめた。それが家で聞いた彼女の喘ぎ声と重なって、私が傷つかないための防衛本能は、確固たる意志で彼女を傷つけようとする殺意へと変わった。それを彼女の手が離れる前に頭で理解すると、彼女により深い傷を負わせるためだけに、私は刃先に力を入れた。皮膚を裂く感触が手に伝わる。そして、刃が彼女から離れる瞬間に、人として一番大事なものが、体から離れていく感じがした。


「次は、刺すよ。」

 刃を夏穂に向けたまま、すぐに立ち上がる。心臓の鼓動が早くなっている。彼女は怯えているように見えた。暫く出していない大声のせいか、胸が締め付けられているように痛い。

 目の前が涙で霞む。異常な興奮を感じていた。踏み入れてはならない領域。犯罪者の三文字が頭をめぐっていた。もう、戻れそうになかった。

「言う通りにすれば刺さないから。後ろを向いて、振り向かないで。」

 言葉はまるで自分が自分でないように、すらすらと言えた。彼女は、私と距離を取って私の言うことに従い、後ろを向いた。手を首に回して肩をすくめている。彼女の手の甲から、血が流れていた。その傷を見つめたまま私は叫ぶ。

「そのまま振り返らないで、家まで歩いて。途中で走っても駄目。もし破ったらどうなるか、わかってるよね?」

 私は本当に自分のしていることを理解できているのか。短期間とはいえ、共に暮らしてきた友人を切りつけた。走馬燈のように彼女との思い出が頭でループし続けた。手にはまだしっかりと、肉を引き裂いた感覚が残っている。

 彼女が歩き始めると、私もしばらくは後ろについた。涙は止まったが、胸のちょうど真ん中あたりがひどく痛む。心というものが、体に存在して、それがちょうどこの痛む所にあるのなら、きっとこの痛みは私の命が続く限り、永久に癒えず、私を蝕み続ける呪いとなっていつか私を殺してしまうだろう。証明もなく、非科学的だが、そう確信できた。

 こんなに痛いなら、もう……。

 夏穂が振り返らないことを確かめると、私は橋の方へ引き返した。





 橋の下は幅広い川になっていて、日が当たるせいか、水は泥臭さも虫が沸いている様子もなかった。橋から下を見降ろした後、橋を渡り切った後の草だらけの脇道を通って橋の下に行き、裸足になって片足の足先を水につけた。この季節にもなればもう川の水は十分に冷たくなっていて、もう少し踏み込むと、水底の泥が柔らかく私の足を飲み込み始める。問題ないと私は判断し、橋の上へ戻った。

 空は明るみ始めていて、川面にはいくつかの岩肌が見てとれた。橋の真ん中あたりのとがった岩山の真上、腰ほどの高さの欄干をまたいで、錆び付いた支柱に手をかけた。不気味な程に冷静で、十二月の夜明け前なのに、寒いとも感じなかった。

 消えかけた月は満月だった。西空には別れを告げる星たちが、まだ綺麗に輝いている。

 無心だった。空を見て、水面を見た。

 慌ててはいけない。せめて日の出まで待たせてくれても変わらないじゃないか。私はもう五感の全てを捨てる。最後くらい、全てを使ったっていいじゃないか。

 少し血の味がする唇、森の匂い、風が木々を揺らす音、底が見えそうなぐらい澄んだ水。握りしめたカッターナイフ。五体は悲しいくらい全てに不自由がなかった。

 もうなんだっていいや。日よ昇れ。早く手を離せ。待ち焦がれた瞬間がもう目の前にあるんだ。これを逃せばまた苦しむことになる。もう誰も私を許してはくれない。ほら、空が明るくなってきた。私の人生は大いに結構だったじゃないか。

 ああ、光が山を照らし始めた。日が昇る。

 

 肺一杯に息を吸い込んで、目はつむって飛んだ。

 滞空時間は無限のように長く感じた。

 そういえば、ここに来るとき、東京で見たのもこんな空だった。

 さようなら、私。ありがとう。幸せにしてあげられなくてごめんね。

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