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プライド  作者:
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19/22

罅割

 私は夏穂を信じていた。それは私が彼女に幻想を抱いている事と同じだった。一度深く傷付いても、壊れそうな自分と戦いながら、自分を模索しながら生きている。理想だった。どんなに傷付いても、この気持ちだけは腐らずに私の中で生き続けていた。だからこそ、私の身勝手でも、あの光景が許せなかった。


 階段を忍び足で登った私は、そのまま私の部屋を目指した。

 異変に気付いたのは夏穂の部屋の前を通る前だった。まず、分かったことは、耳に入っている声が、テレビの音では無かったこと。聞こえてくる男の声はテレビからではなく、襖の向こうの肉声で、私の知っている声だった。次に、発泡スチロールを何度も擦り合わせるような、連続した高い音。時折低くなって、それは、夏穂の押し殺したような、小さく吠えるような声と分かった。耳に馴染まない、甘い、女の声だった。

 彼女の部屋で異常が起こっていることはすぐにわかった。私とて、もう高校生だ、だから何が起こっているのかはわかった。だけど、どうしていいのか分からず、動くことができなかった。

 何も見なかった、聞かなかった事にして、引き返そう、そうすればいつかこの記憶は時に流されて、私は何も知らないでいられる。私は私でもう手一杯なのだ。私がこの場所にいるのは彼女にとっても、私にとっても利益がない。

 理屈を並べて私を急かしてみても、私にとっての理想の夏穂のイメージが崩れていく事に対する動揺は、余りにも大きかった。

「本当に、あの人と、結婚するの?」

 息を切らしながら話す夏穂の声が廊下に響く。

「何度も言ってるだろ。この家のためだって。僕は教師にはなれない。あの女も最初からそれが目的なんだよ。あいつも本当は元の旦那が忘れられないんだ。だからあいつとは形だけの関係だから。僕は君が一番なんだ。嘘はない。」

 しゃがれた声だった。推測するまでもなく、夏穂のお義兄さんだった。彼の虫唾が走るような台詞の直後に、夏穂の、きゅう、と声を押し殺して溢れ出すような声がした。それと同時に、背筋に寒気がした。ほんの数メートル先、襖の向こうの吐息が、音が、生々しく鼓膜を震わせた。ひどい吐き気と目眩がした。床にへたりこむが、耐えられなくて這って逃げようとした。

 ねえ、なんで、なんで。心の中で繰り返していた。なんで、何一つ、思い通りであってくれなのだろう。何一つ、良い方向に行かないんだろう。

 もう、全部諦めてしまおうか。すべて捨てれば、楽になれるのではないだろうか。

 暗闇のなか、頭痛と吐き気に、もがきながらそう考えていた。


 不幸とはいつも思いもよらぬタイミングで訪れる。ちょうど階段の降り口まで来た時、携帯が鳴った。制服の右ポケット、右太股あたりに振動を感じる。

「まって、誰かいる」

 男の声がすると、部屋の中からガタガタとせわしない物音がする。朦朧としていた意識が一気に鮮明になる。見つかったらきっと無事で済まない、その恐怖だけが、停止しそうな思考を、逃げようと必死にさせた。

 込み上げてくるものを、気力で抑えながら、急いで階段の陰に隠れて息を殺した。

「あの子は、今日帰らないはずだし、おじさんも、おばさんも今日はいないでしょ」

 と夏穂の声がしつつ、襖が開く音がする。びたり、びたりと、二人の男女の素足が、部屋から廊下へ、階段へと、入ってくる。階段の隙間に差し込むほんの僅かな月明かりに、彼女の白い肌が禍々しく反射していた。何も見えないように、何も感じないように、何も聞こえないように、体を小さくして、ポケットのナイフを握っていた。

 小さくなって、私は無意識に今までの生涯を省みていた。

 誰の邪魔にもならないように生きてきた。表舞台で光る人たちが眩しくて、いつも一歩離れた所から見ていて、陰を知らない彼らを憎んで蔑んだ。だけどそのうちに、陰にいたみんなが、表舞台に立っていく。私と一緒に彼らを罵っていたあの子も、光なんて浴びれるはずない大罪を犯したあの子も。私一人が、ずっと舞台袖で彼らを見ていた。陰を知らない人間は恥ずかしい人間だと思い込んでいた。でも、本当は羨ましかった。だけどどうしても飛び出していく事ができなかった。私は臆病だったのだ。気が付けば、舞台に差し込む光は消えていて、誰もいなくなっていた。そうして初めて私はいそいそと舞台に上がってみるのだ。そこには、すでに価値もなく、私を見る人などいない。すぐに私は虚しくなって、皆を探す。暗い舞台の縁で背伸びをすると光が見えた。ここで私は気が付く、眩しかった彼らがどこかに行ったのではなく、私が知らぬ間により深い闇の中に入ってしまったのだということを。

 ひどく、哀れだ。愚かで、情けなくて、どうしても我慢できなくて、泣き声が、嗚咽が、止まらなかった。

「小春ちゃん」

 大きな黒いシルエットが月光を遮る。その女の声は、いつも私を呼ぶ声だった。ここに来てから千回以上聞いた声だった。なによりも、それは私が信じた声だった。

 もう、嫌だった、汚らわしいすべてが。

「服、取って来るから待ってて」

 彼女が言い終わらないうちに、私は立ち上がって玄関をとびだした。

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