潜水
私はどうやら養子に出されていたらしい。この事実は亡き父、昔の母と『先生』が知っていた。『先生』は制服を榎田の名前で発注していたそうだ。私は知らない所で、橘小春から榎田小春になっていた。いまさら、驚きも落胆もする元気も皆無だった。結局、戸籍は榎田、学校や普段の生活では旧姓を使うことにした。
黒猫からは毎日のようにメールが来た。
内容は全く特別ではない。私を気にかけてくれているのか、食べる量が減ってないか、だとか、東京では雪が降った、だとか、今度そっちに遊びに行きたい、だとか、くだらないことばかりだった。だけど、当時の私にはそう見えなくて、私を責めていた兄達の言葉と重なって、生きながら死んだような生き方をしている私を非難しているように感じた。最初の方は彼女に対して申し訳無さも感じていたので返事をしていたが、いつの間にかそれも嫌になってやめてしまった。
学校に行けば意外にも笑顔を作ることができた。しかし楽しいから笑うのではなく、会話の対応として笑わなければならないから笑っていた。重い頬を筋肉で持ち上げて笑みを作った。人が苦手だとか考えはもう消えていた。私ではない何かが絶え間なく私を操り続けた。
そのせいか、突然悲しくもないはずなのに、雨粒のような涙がこぼれそうになったり、夜に目が覚めて、雫が頬を伝って枕が濡れていることがあった。
感情が溢れそうな時は、常に持ち歩くようになったカッターナイフをポケットの中で強く握りしめた。それでも収まらなければ、人目に触れない場所に行って刃で軽く肌を撫でた。そうすれば気持ちが落ち着いた。自分をいつでも傷つけられる環境が欲しかった。
自分が自分が異常になっていくのを感じていた。それでも、坦々と流れ続けていく時間を、平気な顔をして過ごすには、他にどうすることもできなかった。
友人は増えた。人と話している間は調子がよかった。私でない私に身を任せるとその時間だけはなにも考えずにいられた。けれども時間が経てば経つほど、一人になると感情が押さえられなくなって、腕に浅い傷が増えた。
日増しに帰るのが遅くなった。榎田家の人は何も言わなかった。
夏穂は時々、夜遅くまで起きて私の帰りを待っていた。待っていると言っても、私が帰ってくると、おかえり、というだけで、それ以上の会話はしない。きっと彼女も何を言っていいのか思い付きもしなかっただろうし、私も、もし彼女が私の行動に抑制をかけるなら、彼女を責めるに違いなかった。
語りかけるような夏穂の瞳から早足で逃れ、足音に心の涙を重ねた。




