深海
大切なものは失ってからその価値がわかるものだという。しかし私は未だにその価値を計りかねている。実際、東京から榎田家に帰ってきてからの私の身の周りに変化はない。父の葬式、他諸々の手続きは全て兄達に任せてしまったし、衣食住もこの家にいる限りは困ることはない。
「お前のせいだとは言わない。だけどさ、なんとかならなかったの。」
「お前がまともだったらこんなことにはならなかったのに。」
「お前は親が死ぬほど苦しんでいるのを見抜けなかったのか。」
遅れてやってきた、兄達は冗談を含めたように私にそう言った。彼らは意外にも辛くはなさそうだった。それが当然なのだと思って、私も辛くないふりをした。兄達もそんな私を見て心ない暴言を吐き続けた。
田舎に帰る前には笑って流せるようになっていた。自分を偽れば偽るほど、心が重くなった。だけど、ここで弱音をはいてしまえば、どこまでも堕落していきそうだった。
部屋のカーテンは閉まっていてるが、夕日が差し込んで、部屋はほんのり明るい。
意識せずとも頭のなかに、私を蔑む声が流れる。声の主は私自身で、私が泣くまで言葉は続く。これが一人でいる時間に必ず起こるようになった。
制服のポケットからカッターナイフをとりだして、自分の腕をつついてみる。すると、鋭い痛みに身体が勝手に拳をにぎりしめて耐える。だけど、私にできるのはここまでで、刃を当てたまま上から下に思い切って引き裂くことが、怖くてできなかった。生きようと、生にしがみつく自分がどうしようもなく情けなくなった。
必要のない存在ならもういっそう捨ててしまった方が楽である。この世に私を置いていても、ただ酸素を二酸化炭素に変化させ、農家が懸命に育てた米や肉を、浮かない顔で食べ続ける塊でしかない。この世にいなければならない目的なんて、いつの間にかわからなくなってしまっている。そもそもその目的が私にあったのかどうかも忘れてしまった。
何をしたら私を、精神と肉体に引き離すことができるかを、頭では分かっている。だけれどもそれは私には出来なかった。それは勇気や度胸が必要だし痛い、そして何よりも怖い。つまり私は死なない。死ねない。
もっと上手く生きたかった。ありふれた恋愛小説みたいな経験してみたかった。歌にあるような素敵な経験もしてみたかった。だけれども、あの日から、音となって聞こえる全てが皮肉に、目に見える全てが疑問に変わってしまった。
キラキラしていて眩しい世界。触れることすら憚られるほど美しい世界。そんなものは幻想じみていて幼稚くさい。そう思っていた。
でも実際は狂おしくそれに憧れていた。必死に手を伸ばして、だけれど、そんな世界が現実なのか不安になって、疑っているうちに気がつけば真逆の世界にいた。手に持っているカッターナイフがその証拠だ。
結局、またその刃物を制服にしまって天井を見上げる。きっと私はこのまま己を殺せず生きるだろう。
宛もない思いを抱いたまま十月が終わった。




