乖離
もう三十分ほど病院の前で座っている。久しく顔を出した十月の日射しに焼かれ、程なくして汗をかきはじめることになりそうだ。
「今日は暑いね。」
なぜか病院に付いてきた黒猫が私に言う。
そうだね、と黒猫に返事をするが、実際、暑い寒いよりも先に病棟の方へ向かった『先生』から全く連絡が無いことが気になっていた。外から中の様子をうかがっても、姿は見えない。
「行くの?」
と彼女が私に問う。
「そのために来たんだから。お母さんとお父さんに会わないと」
言葉にして違和感がする。
私は娘で、二人は両親、父と母だ。生まれてからほとんどを同じくして過ごしてきた人。私を育てた人。なのに、なんでこんなに遠くに感じるんだろう。
見上げると、大きな病院は私を阻むように建っていた。白い壁に太陽が反射して、目が眩みそうになる。
「行ってもいいのかな。」
私の呟きに、黒猫は何も応えなかった。一歩踏み出すと自動ドアが私を感知して開く。どうせ行かなければならない。子供としての義務だ。
「行くね」
「うん。わたしはここで待ってるよ。」
鼻をつくのは、病院の匂い。自然と足が早くなった。歩みを進めるたび、頭に記憶が沸々と浮かんできた。繋いだ手の形。腕の中の温もり。ありふれているが、私にとって特徴的な声。不思議と嫌な思い出はなかった。それなのに、強引に繋ぎ合わせたように、どこか曖昧だ。早く確かめたかった、消えかけ記憶が、本物なのかどうか。
病室練をしばらく歩き回っていると『先生』と出会った。走らないように駆け寄る。
「ああ、小春ちゃん。呼びに行こうと思ってたんや」
と『先生』は私を見つけて声をかける。
「どうですか、その、様子は。」
「お母ちゃんの怪我は軽いんやけどなあ。やっぱり会いたいか?」
と私に尋ねた。子供のように、反射的に大振りに頷く。怪我は軽い。この時、この言葉にそこまで意識を向けてはいなかった。
案内された病室の前には私の母の名前が掲げられていた。先生が私を見て何か言いたげな表情をしていた。本当は何もかも分かっていたのかもしれない。それでも、私は気付かないふりをして、ドアを引く。頭の中には私に微笑みかける母がいた。
私の目の前に飛び込んだのは見たことがない老婆でだった。髪の色も部分的に白くなってしまっているので、余計に年老いて見えるのかもしれない。ひどく痩せていて、とても母とは思えない。後ろを振り返ると、先生が険しい顔をして私を見ていた。
「お母さん?」
私が呼んでも、老婆は下を向いたまま少しも反応する素振りを見せなかった。
「何があったんですか?」
『先生』に聞いてみても、顔色ひとつ変えず、何も言わなかった。
誰も話さず、長い沈黙が流れた。風に流れる枯れた花のように、記憶が一片、また一片と、時間とともに、重力に従って闇に落ちていく。胸が痛いのに、私はここを立ち去れなかった。それどころか、引き寄せられるように、少しずつ近づく。これが何なのか、この人が誰なのか、知らなければ、ちゃんと理解しなければ、終われない気がした。
ゆっくりと手を伸ばす。腕に触れると、老婆は少しだけ驚いたように体を震えさせた。筋肉も脂肪も付いていない、健康とはいえない薄い腕だった。お母さん、ともう一度だけ、届くように声をかける。
「小春、あなたには、もう、関係の、無い事よ」
途切れそうな低く小さい声で、下を向いたまま老婆はそう呟いた。伸びきった前髪で、顔は見えないが、それでも声色で分かる、母だった。視界が歪んでいく感じがした。思わず手を離してしまう。
「帰りなさい」
今度は諭すように、老婆ははっきりと放った。何が何だか分からない、よくわからない。混乱していてそれ以上、うまく言葉にできない。何か言おうと、声を出そうと思った。だけど何を言えば良いのか分からなかった。思い出の縫い目がほつれて、バラけていくのが、手に取るように分かった。
「お願い、もう、帰って」
次に母はこらえきれないようにそう言うと、布団を強く握りしめて、声をあげて泣き始めた。思考回路がうまく連結しなかった。呻き声に交えて何やら言葉にならない声をあげていたが、何一つ聞き取ることが出来なかった。目の前の人は母なのか、私の知らない狂人なのか、それとも別の誰かなのか。
「小春ちゃん」
後ろから先生に手を引かれて、ようやく私は病室を出た。私も、意味がわからず、泣いていた。
「すまんかった。大丈夫か?」
「いいえ、謝らないでください。」
そう言って、私は病院の出口の方へ向かった。病院特有の匂いに吐き気がしそうになった。ずっと後ろで、叫び声にも似た泣き声がしていた。慌てた様子の、小走りの看護婦とすれ違う。
親ってなんだっけ。人ってなんだっけ。
嗚咽をこらえて、一歩ずつ、壁に手をつけながら歩いた。
自動ドアをくぐると温風が吹き付けた。新鮮とは言えない排ガスの臭いに少し安堵を感じる。
ベンチでぼうっとしていると、目の前で黒猫が気の毒そうな顔をして立っていた。
あげる、と言って彼女は私に缶ジュースを手渡す。ありがとう、と言って爪でプルタブを引き、乾いた口に含む。味なんて、分からなかった。
「この前に、マンションで異臭騒ぎがあったの。ただの騒ぎじゃなくって、どういうわけか救急車も来るぐらいだった。わたし、たまたまだけど、橘さんの家から救急の人が入っていくの見て。」
彼女は続ける。
「次の日に、管理人さんから下水道の破損による異臭って通知文がきたんだけど。たぶんあの時…」
ああ、そういうことか。
「この事、知ってたの?」
突き刺すように言葉を割って聞いた。
「ごめんなさい。言い出す方法が分からなくて。」
何故だろうか。こんなに混乱している状況のなかで、ただ私に困り顔をしているだけの彼女が憎かった。かわいそうね、と言いたげなその顔をなにも言えずに見ていると、唐突に母の呻き声が頭を通りすぎた。母の声は私に向かって、壊れろ、壊れろと嘆き叫び続けた。
手を彼女に伸ばした。黒猫の腕を思いきり掴んだ。それも跡が残るくらいに思いきりに。
宛のない想いを乱暴に彼女にぶつけた。理解不能、意味不明、直視不可、とにかく心の奥底にある黒い物を吐き出したかった。どうすればこの真っ黒な塊が消えるのか、私にはわからなかった。
彼女は私と関係の無い人だ。私を引き離して帰ればいいのに。痛いって言って私を突き飛ばせばいいのに。彼女は動かなかった。爪を立てても、引っ掻いても、私を見るその顔が歪むことはなかった。
同時に、自分が汚れていく感覚が、堪らなく嫌だった。
握りしめた手の力を緩める。すると、彼女は、赤くなった腕で私を包んだ。優しく、いつか感じた優しさを思いださせて、どうしようもなく、悲しくなった。
「ごめんね、わたしも、どうすれば良かったのか、分からなかった」
と耳元で彼女は言った。
健やかな秋晴れの日であった。
母は狂った。父は死んだ。
自殺未遂と自殺、原因不明だが、おそらく心中と予想される。




