迷路
言われるままここまでやって来た。意味がわからなくて、全てがぼんやりしていた。
仕事帰りのビジネスマン、寄り道して下校する高校生、スーツケースを引きずる白人の旅行客と、年齢、性別、国籍、人種、さまざまな人々が目の前を通りすぎていく。
私は、大通りに面した歩道の植え込みに腰掛けながら、ぼんやりと人の流れを眺めていた。つい先程から降り始めた雨で、みんな傘を差している。
制服の生地に雨が当たるたび、じんわりと広がって消えていく。冷たさはなかった。とてつもない眠気を我慢しているような、そんな心地で雨に打たれていた。
ここから家にはどう帰るんだったっけな、と思い出そうとしてやめる。記憶が両親に結び付きそうだったからだ。心配な気持ちは少しだけあるが、神に頭を下げて救いを求めるほどでもなく、ただ名も知らない大御所の芸能人の報道と同程度に処理している自分がいる。悪い言い方をすれば、私にとって、両親など、もうどうでも良い存在なのかもしれない。
こんな天気のせいだろうか、あの田舎の家に行って間もない頃に、夏穂と話したことを思い出す。
蝉時雨。もう姿は消えてしまって、次の夏まで彼等の声を聞くことは無いだろう。自然の摂理だ。寄せる情なんてない。その同じ日、彼女は私に、過去に何があったかなんてお互い知らない方が良い、と言った。
きっと夏穂が今の私の心を知れば、薄情な女だと呆れるだろう。子供として、親に対して、持っていなければならない感情が、芽生えて来なかった。もしかしたら、私は人よりも、畜生に近い心なのかもしれない。
何のために、誰のために生きているのだろうか。いざひとりになって冷静に考えると、人と関わろうと努力していた自分の考えが、風化した石を金槌で叩くように粉々に崩れるのだ。
ああ、なんで、東京に帰ってきてしまったんだろう。
考えてもどうしようもないことばかり後悔して、また自分が嫌いになる。その繰り返しだ。
なにはともあれ、東京に来たからには、両親の元へ行かなければならない。行きたくない気持ちの方が圧倒的に優位なのだが、『先生』もわざわざ私のために、新幹線からホテルまでとってくれた。今も『先生』はホテルのロビーで、病院と連絡を取り続けてくれている。何もかも『先生』に任せきりではいけない、私も動かないと。
そう思ってもなぜか、私はここから立ち上がることができなかった。またひとつ私が私を嫌いになる。
そんな踏ん切りのつかない私に、傘を差す人が見えた。細い足、見慣れたスカート、懐かしい。元々、私がいた学校の制服を着ている。
顔をあげて見ると、黒猫の女だった。
彼女は驚くでもなく、私を見て
「風邪ひくよ。」
と言った。
私はうん、とだけ返事をして、再び下を向いた。東京の狭さに少し感心すると同時に会いたくない人に出会ったと思った。
こんなにひねくれた自分を、誰かに見られたくなかった。
しばらくすると、私にまとわりついた冷水が意思を持ったように体温を吸い始める。このまま、ここで濡れて死んでしまうのも悪くないかもしれない。なんて、きっと雨にやられているせいで、こんなこと考えてしまうのだ。
「立てる?」
と言って、身震いする私に、彼女は私に手を差し出した。
私は何かに操られるように彼女の手を借りて立った。
彼女まで手を伸ばしたのは、私ではない私だった。冷たい泥沼の中で助けを求めている自分だった。その自分は、彼女に触れた瞬間に私から抜け落ちて消えてしまい、立ち上がると身体に力が入らず、よろけて倒れてしまいそうだった。
「どうしようか。うち、来る?」
と強く私の手を握って、黒猫は言った。
約一ヶ月ぶりの帰郷である。もってのほか変わったところはない。タイル張り床と、晴れた日には西陽が差し込む大窓のついたエントランス、薄暗い階段。私だけが、酷く変わってしまっているように感じた。
上へ向かって動くエレベータから、慣性の力を受ける。崩れ落ちそうになる身体を、気力で繋ぎ止めていた。
「濡れちゃったね、寒くない?」
脈絡もなく、彼女は口を開き、私は頷く。
「聞いたよ。橘さんのご両親のこと。まだ、詳しいことは知らないんだけど。」
ゴシップ好きの彼女なら無理もないだろう。私から様子を聞き出したいのか、彼女はこちらの顔をうかがっている。卑しげなその態度はやはり、私の嫌いな近所の黒猫を彷彿させた。もはや私はそれに対して、怒りを行動や態度に示す気力も残っていないようで、腹立たしさも沸いてこなかった。
「今日聞いたばっかりなの。まだ会えてない。」
女は、そうなんだ、と言って私の顔を見るのをやめて黙った。
なぜか、彼女に冷酷に扱われている気がした。
なぜ、私は彼女に付いてきてしまったんだろうと今になって思う。
なんだか、何もかも、わからない。
十月の東京の雨は、この夜、冷たく降り続いた。




