霹靂
また数日が過ぎた。窓から見える黄金色の田圃は気が付かないうちに坊主に変わっていた。
「おはよう」
制服姿の夏穂が私に声をかける。彼女はいつも、私より先に起きて身支度をしている。
おはよう、とオウムのように返す。実家では挨拶の習慣が無かったので、今もこれに少しだけ恥ずかしさを感じる。私の小さな声に、彼女は笑顔で応えた。
その笑顔が自然なものではないとわかってからは、彼女の取り繕ったような千変万化の表情も嫌いになれなくなっていた。
夏穂は私が思っているよりもずっと内気なのだ。
完璧に見えていた彼女も、掌の中にあるものを本当はどうしていいのかわからないで過ごしている。
私はそれを手に握り続けている。
彼女はそれを噛み砕いて、必死に身体の奥深くに隠している。
だからこそ、全てを飲み込んで、時々心が折れそうになっても、それでも前を向く彼女が、私の目には優雅に見えた。
彼女のように生きたい。いつの間にかそういう気持ちが胸を包んでいた。
居間に降りて急いで朝食を済ませる。『先生』やお義兄さんはもうこの時間には家を出ていて、私と夏穂が最後だ。時計をみると、少し遅刻気味だったが、始業時刻には余裕をもって間に合う。
「お待たせ。」
「今日夕方から雨だって。小春ちゃん、傘持ってる?」
外に出て、空を見れば太陽の姿はなかった。ここ数日、空は雲に包まれて、ついこの間までの夏模様も雨に流されてしまった。
遥か上空、姿の見えない航空機の音が耳に入っていた。息をすると清々とした空気が肺に入ってくる。辛気くさい天気だ、と人は言うだろうが、私はこの空気が好きだ。
「ううん、持ってないや。ありがとう。」
早く晴れればいいのに、と傘を取りながら、願っても仕方のないことをこの時思っていた。
事が始まったのは突然だった。昼休みに、また屋上に行くか迷っていた私を、校内放送が、職員室に来るように呼んだ。
それまでは、今日はクラスの誰かと話してみようと考えていた。もう、夏穂以外の人とも交流を持たないと、ダメな気がしていた。
だけど、ひび割れた音声が教室に響き終わると、さっきまであんなに騒がしかった教室なのに、一斉に無数の目線が私に浴びせられる。
どうして呼ばれたんだろう。何したんだろう。あの子は少し変わってるし、特殊な事情で呼び出されたんだよ。いや、どうせあいつは、親に捨てられた子だから、ろくなことじゃない。あの子とはかかわらない方がいいよ。
目線がそう語っている気がした。そんなわけがない、感覚では分かる。だけど、そんなわけないことを、証明して、信じられる勇気が私には無かった。
教室が色彩を失ってモノクロになっていく。少し前までは目線を浴びる事はたくさんあったはずなのに、おかしい、途端にどう処理していいのかわからなくなった。
「行かないの?」
いつの間にか、立ち竦んでいた私の目の前に夏穂がいた。
うん、と声を出そうとして初めて、肺の中の空気がほとんど無いことに気が付いた。思い出すようにゆっくりと息を吸い込む。夏穂は不思議そうに首をかしげていた。
その顔に、世界に、色が戻っていく。そうだ、もう私は、歩き出さなければならない。
「大丈夫、ありがとう。」
走って教室を出る。なぜだろう、他人が人であることを意識すると途端に、怖くなっていく。精一杯に自分を隠してみても、どこか卑屈な私を見抜かれている気がして仕方ないのだ。人に好かれようとすることが、こんなに難しい事だと初めて知った。
卑屈な私を捨てろ、生まれ変われ、と呟きながら歩く。職員室の扉を引く頃には、確かなイメージの私が頭の中にあった。
「それじゃあ、後頼んだで。」
と突然、職員室の扉は開き、目の前に大きな身体が映る、『先生』だ。
「ああ、小春ちゃん、丁度良かった。早く、急いで、おいで。」
険しい顔をよりしかめて私に言う。よくわからないまま付いていくと、階段を降りて、玄関をくぐり、運動場のわきを通って、校門まで来た。細い道脇にタクシーが止まっている。『先生』は私を見て、
「小春ちゃん、鞄は?」
と未だ訳のわからない事を尋ねる。
「すいません、一体何なんですか?」
『先生』は私の言葉を聞かずに、後から追ってきた教師に、この子の鞄持ってきて、と叫んだ。
慌てて来た道を戻っていく教師を、私は唖然と見ていた。ただ事じゃない何かが起こっている、それも私に関わる事だ。ありとあらゆる予想をしてみるが、見当もつかなかった。
そこへ、落ち着かない様子の『先生』が口を開く。
「小春ちゃんのご両親が、マンションで倒れとったって。お母さんは病院や。それから、橘くんは、君のお父さんは、その」
と言いながら、よくわからないジェスチャーをして、息を詰まらせた。そこにちょうど私の鞄を持った教師が、慌てて校舎から出てきた。
「まあええ、今から一緒に行くからおいで。新幹線、取ったから。」
私の返事を聞かずに、私はタクシーの後部座席に乗せられた。




