交差
その日の夜のことだ。ほとんど荷物の片付いた部屋で、実家から持ってきたドライヤーを使って、風呂上がりの髪を乾かしながら、私は彼女にどんなふうに怒ろうか考えていた。もちろん彼女が勝手に私の制服の事を、わけのわからない鼻女に話した事についてである。きっと彼女の事だから普通に態度で怒っても、相手にしないだろう。もっと直接的に、言葉で怒りを表現しなければならない。そう考えつめていくと、私には無理だと悟った。
「なんで人の事勝手に他人に話すのかな。」
天井に向かって呟いても返事はない。
私はひねくれていて、愚かだ。勇ましくもない。だから、勝手に身の上の話をされる程度は罰として受けるのは仕方ないのだろう。
そう思って納得しようとしていると、障子の向こうから私を呼ぶ声が聞こえた。
はい、どうぞ、と言うと障子が少しだけ空いて、隙間から夏穂が顔だけを覗かせた。
「どうしたの?」
「ちょっと来て。ああ、髪乾かした後で良いから。」
わかった、と応えた。ところが、しばらくしても夏穂は私を見つめたままだった。
「なに?」
できるだけ当たり障りのない口調で尋ねる。怒りはいつのまにか私の奥底で、ひとつの欠片の姿も見せず沈み込んでいて、本当は怒る気などなかったのかもしれない、とさえ思えた。
「手伝ってあげようか?髪乾かすの。」
「いいよ、自分でできるから。」
「そう」
と言いながら彼女は私の部屋に入ってきた。自分の部屋なのに、彼女がいると、なんとなく居心地の悪さを感じる。
何か話さなければと思って、窓から外を見る彼女を、ねえ、と呼ぶと、んー?と上の空のような返事が返ってきた。
「私って妹っぽいの?」
「どうして?まあ、そうよね。なんかほっとけない感じはするね。」
夜になれば、何も見えないはずの窓の外を見たまま彼女は、当たり前の事のように応えた。
何ともいえない、拭いきれない気まずさに包まれる。中途半端に口を滑らせたせいで、本当に言いたいことが伝わらなかったのだ。彼女の後ろ姿だけ見ても、怒っているか、笑っているのか分からない。とうとう耐えきれなくなって、
「髪、やってくれない?」
と言って、彼女をこちらに呼んだ。
いいよ、と言って彼女は私からドライヤーとタオルを受けとる。彼女の指が髪に触れるたび、私の私としての構成要素を彼女に上塗りされているように感じた。
「本当に妹だったらよかったのにね、小春ちゃん。榎田小春。呼びやすい良い名前。」
「私は、橘小春。夏穂は夏穂だよ。」
「榎田になっちゃいなよ。私でも小春ちゃんの物でもない。もうひとつの名字。」
耳元で囁く。彼女の指が私の髪をすくう。背筋に悪寒が走った。
冗談なのか、本気なのか彼女の心は、彼女にしかわからない。
名字など、別になんだって良いはずなのに、ただそれが変わってしまうと、今の私を見失ってしまうような気がした。
「はい、もう乾いたかな。行こう。」
いつのまにか、髪は乾いていた。彼女の手を借りて私は立ち上がる。心の中で、大切にしていたものをひとつ、どこかに落としたような感覚がした。
彼女に誘われるままに家の外に出た。もう日は沈んでいて、星が空に浮かんでいた。庭の草影からは一つだけキリキリと虫が鳴く声が耳にはいる。
「何かあるの?」
私が聞いても彼女は口に指を当てるばかりだった。
家の門を出て初めて、あれ、見て、と、声を出した。彼女が指差した先は駐車場に止まったこの家の車だった。
「おにいさんの車?」
「うん、お兄義ちゃんの。」
しゃがれ声の男が何度か運転している姿は見たことがある。家系でいえば、義理の夏穂のお兄さんということになる。しばらく見ていると中から男一人と女一人が降りてきた。一人はこの家に住む男、もう一人は暗闇でよく見えない。
「女の人?」
私が目を凝らしていると夏穂は淡々として言った。
「夏目先生」
え、と聞き返す。
「夏目先生とお義兄ちゃん、もうすぐ結婚するんだ。こういう小さい町ってなかなか相手が見つからないらしくて、お見合いしたんだって。」
考えてみれば色々可能性はある。親が校長の男に、教鞭をもつ嫁が行く、というのも納得できなくはない。何だか江戸だか明治だかの家系的婚姻を連想してしまって、嫌な気になるのは私がまだ子供だからだろうか。
私は、そうなんだ、と腑の抜けた返事をするだけで精一杯だった。夏目先生の薬指と机にあった二つの指輪を思い出す。
「でも、指輪が…」
と言いかけてやめた。触れてはいけない気がした。彼女は言いかけた私の言葉に、何も言わず、二人の様子を眺めているだけだった。
「夏穂はどう思ってるの?」
「私は別に、口を出す立場じゃないけどね。お義兄ちゃんと先生が幸せになるんならいいんじゃないかな。その方がいいんだよ。きっと。」
彼女はいつものように表情ひとつ動かさずに言った。
「あの先生だもんね。」
と私が言うと、夏穂も、うん、と答えた。
私達二人は、お義兄さんと夏目先生が家に入るのを見届けてから、また夏穂に促されて、離れの蔵の二階に行った。わざわざ蔵まで来る理由は分からなくもなかったが、詳しくは聞かなかった。言えるのは、私達は、この家の部外者だということだ。
夏穂がこういう日には、蔵の二階で寝ているらしく、床板から天井まで手入れされていて、綺麗で快適だった。いわば、家庭という単位から切り離された秘密基地。
「人ってだんだん変わっていくんだね。」
彼女の囁くような声は蔵いっぱいに響いた。
「あの二人の話?」
「うん、お義兄ちゃん、結婚とか興味無さそうだったのに、先月くらいに急にお見合い受けるって言い出して。なんだろうね、何て言うか、置いていかれてるなって思う。」
家の方から笑い声が入ってきた。掠れ声の新郎が声をはって何かを言っている。
「夏穂がそんな事考えてるってことが意外だな。世渡り上手そうだし、離別とか環境の変化とか、そういうのに対して気持ちの切り替えが得意なのかなって。」
「別に、なんにも考えてないだけだよ。考えない方が楽なんだ。分からないことは考えない方がいいんだよ。」
明るく、そう言った。屋根に吊るされた裸電球がほのかに彼女を照らす。美しく、眩しい姿だった。だけど、その眩しさは儚げで、今にも消えてしまいそうだった。きっと、手を伸ばせば届く。
今なら彼女の深い部分に触れられるという確信があった。
「夏穂って本当はお兄さんの結婚、あんまりよく思ってない?」
自信は時として人を愚かにする。口に出した刹那にまた余計なことを言ったと思う。
彼女はゆっくりと向きを変えて、私の目を見た。
綺麗な瞳、染色とは違う薄く茶色がかった髪、すべてがはっきりと見えるくらいに近くにあった。
私は掌を彼女の顔に伸ばした。
自分でも大胆な事をしたと思う。でもきっと私達は分かり会える。運命として、二人出会ったとそう思いたかった。
頬に触れると暖かみが懐かしく感じた。紛れもなく、人の体温だった。
「私もね、置いていかれるって気持ち、わかるような気がする。」
慰めるように言った。三年間とはいえ、同じ家で過ごした人が離れていくという感覚は、きっと何か彼女にとって、思い出す傷があるのだろう。
今回の二人の結婚の事だけじゃない。もっと大きな何かを彼女は抱えている。口にはせずとも、そう理解すると同時に、たまらなく目の前の女の子が愛しく思えた。
彼女は頬に置いた私の手を握った。
「昔ね。昔って言っても三年前なんだけど。」
私は彼女を見ていた。何も考えていなかった。ただ今から彼女の口から零れるのは、真っ黒で悲しい話なのだということは分かっていた。きっと彼女でもまだ受け止める方法が分からないくらい。
しかし、彼女が始めに話を切り出した後、眠るように目を閉じたまま、黙ってしまった。ただ頬に置いた私の手を、両手で強く握っていた。孤独の闇に飲み込まれる事を恐れるような、あるいは犯した罪に許しを乞うような、訴えかける強い力だった。
それから彼女はゆっくりと息を吐いた後、私の手を放した。そして最後に、
「やっぱりなんでもない」
とだけ言った。
正直、未だに彼女の事はよくわからない。でも、それはきっと彼女にとっての私もそうで、彼女も私の事を全部は知らない。それでも確かに私達は、孤独で埋めるには余りも深い傷を抱えていることを確かめあった。
彼女の全ては、私の掌に付いた涙が物語っていた。




